「老苦」老いる苦しみ

老苦(ろうく)、老いる苦しみについて触れていきます。生老病死の生苦の次ということで老苦です。もちろんこれは年老いていくことの苦しみという感じですが、哲学テーマなので高齢者の方が話題にするような「もう自分は若くない」というような点ではなく、もう少し哲学的に考えていきます。

老苦とは、老いる苦しみを意味しますが、老いることからは逃れられないということも示しながら、それが苦しみたるのは若さのおごりや若さへの執著によるということをも示しています。

老いる苦しみの中には老化による体の不調というものも含まれているような感じですが、それは病苦の方でまた触れることにして、老いについて触れていくことにします。

生きているということは変化しているということであり、時間すらも「どれくらい変化したか?」というものでしかありません。

そして「今」しかない中、変化が無ければ記憶と発端とした時間という演出も感じること無く、という感じです。

老苦の意味

老苦とは老いる苦しみを意味しますが、もちろんここでもこの「苦」は思い通りにはならない「精神的な苦しみ」を意味するということで、老苦の苦も、老いに対する思い通りにはならないという精神的な苦しみが中心となります。

通常老いる事の苦しみと言うと、体のあちこちが痛むとか、足取りが重く昔のように活動的になれないとか、感動があまりないとか、そうしたことが想起されそうなところです。

様々な活力が減っていくという点や、「仲の良かった人たちが死んでいく」といったことを筆頭に周りの環境が変化していくということももちろん一種の苦しみになるのかもしれませんが、老苦の本質はおそらくそうした点だけにとどまりません。

老苦という概念をよくよく観察すると、特に現代の高齢者の方に限った概念でも何でも無く、ある人が昔と今を比較した時に起こる、単なる「執著と比較から起こる苦しみ」のことを意味する程度のはずです。

と言ったことは後述するとして、まずは年齢を重ねるごとに起こるような変化について見ていきましょう。

知的探究心の弱まり

年老いていくと失っていくように感じるものがあります。それは、環境の変化というものもそうですが、何よりも「探究心」のような成長のエネルギーが最も失われていくのではないでしょうか。

年齢を重ねるごとに「一応知っていること」が増えていきます。それが何かを全く知らないときにはあった知的探究心という一種のエネルギーを知識に変換していくように、謎解きへのエネルギーを答えへと書き換えていくように、物事を把握していけば行くほど、知りたいというようなエネルギーはどんどん弱まっていきます。

目新しそうなことでも「あれとあれを組み合わせたようなものだな」とか「これのあれ版だな」というような感じで、新発見感がどんどん無くなっていきます。

胸の高鳴りもやる気も静まっていく

知らないことを知っていったり、物事に慣れていったりすると、意識はどんどん手抜きになっていきます。なるべく最小限でことを済ませようとしていくという感じです。生存本能的に見ればいかに省エネルギー化するかということも生命維持には大切という感じだからでしょう。

初めて経験するようなことだから胸が高鳴ったとか、見えない世界だったからこそ見えるまではやる気が出た、という感じのことが若ければ若いほど実感できますが、「あの時の感覚をもう一度」なんて思っても、それが現に叶うことはほとんどありませんし、年齢を重ねるごとにどんどんそれが叶わなくなっていきます。

一度経験してしまったことは、次には初体験ではありません。初めて出会った時のような新鮮な気持ちを二度と経験することはできませんし、様々な経験を積むにつれ、それが初めてのことであってもどういったものかの予測ができてしまうという意味で新鮮さはなくなっていきます。

そしてそれを「嫌だ」と思っても、昔のような感覚を再度取り戻すようなことはできない、という点が老いる苦しみの一つではないでしょうか。

体力や風貌

また、老いについてよく語られるようなこととして体力や風貌と言った点の変化や不可逆性もあります。

「昔はいくら遊んでも体力が続いていた」というような体力的な面の変化や、「昔は美しかったのに」という美意識的な変化への憂いというものもあるのかもしれませんが、こうしたものもいくら抗おうとも抗い切れるようなものではありません。

シワが増えてきたとか肌がたるんできたとか、筋力が落ちてきたとか膝が上がらないといった感じで体はどんどん劣化の一途をたどります。

しかしアンチエイジング等々に取り組んだところで、やはり抗いきれるものではありません。「加齢に抗っているのに抗いきれていない感じ」が垣間見れると逆に無様に見えたりもします。

老いる苦しみの「苦」

ここで再度一切行苦の苦の概念を思い出してみましょう。「苦」は苦しいということでありながら「思い通りにならない」ということを意味しています。つまり「昔のように」と思ったところで、思い通りにならないというようなことになります。

老いることで実際に様々な点で変化が訪れたりすること自体が苦しみと言うよりも、記憶を元に今と過去を比較し嘆き、さらに嘆いたところで「思い通りにはならない」というものが老苦です。

過去の出来事に対する情動記憶や過去の自分の状態に対する執著が発端で起こる「精神的な苦しみ」が老苦の本性という感じになるでしょう。

老苦は四苦八苦の四苦のひとつであり、仏教としての概念になるため、経典の中から老苦について触れられている点について掲示しておきます。

「愚かな凡夫は、自分が老いゆくものであって、また、老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見ると、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪している―自分のことを看過して、じつはわれもまた老いゆくものであって、老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見ては、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、―このことは自分にはふさわしくないであろうと、と思って、わたくしがこのように考察したとき、青年時における青年の意気(若さのおごり)はまったく消え失せてしまった」(アングッタラ・ニカーヤ/増支部経典 中村 元訳)

若さへの執著は、若さへのおごりであり、若さへの執着が老苦を生み出すものであるという感じになります。

執著と比較から起こる苦しみ

知的探究心の弱まりや体力・風貌の変化自体は無属性です。それはそれで今はその状態であるというだけで、今の状態だけを切り取って考えればそれは「良くも悪くも無く無属性」ということになります。

それが良いかどうか、憂うことなのかどうか、ということは思考が判断しています。そしてその判断・比較には記憶と記憶が呼び起こす印象が必要になります。

結局、老いるということは抗うことはできません。赤ん坊が老いることは成長と表現されるのに、ある時期からは老化と判断されます。成長しきったら後は老化の一途をたどるという感じで捉えられています。

身体的な変化についてはそうした感じで捉えても何の問題もないと思いますが、別に老いることは良いことでも悪いことでもありません。

そうした無属性の事柄に思い煩うこと、つまり「老いることに思い悩むこと」が苦しみということになりましょう。

「今」しかないのに過去と比較して思い煩うこと

特に高齢にならなくても同じことですが、若い時は比較的あまり昔のことを思い出して「あの頃は良かった」というようなことを思ったりすることがありません。

十代にもなれば稀にそうしたときもあると思いますが、それに満たないような年齢だと、過去と今を比較して今を嘆くということはあまりないでしょう。

「今」しかないのに過去と比較して思い煩うことは、まさにゼロの錯覚のような感じです(「この印において汝は勝つであろう。」)。そしてこの記憶を発端とした比較による煩いは、もちろん意識的な記憶だけでなく「もっと活力に満ち溢れていたのに」というような体感的な記憶の領域でも起こったりします。

変化前、変化後といった「老いという事実」は意識の中でしか起こりません。今の状態は、ただ今その状態であるというだけで、単に無属性であるはずです。記憶による比較のあるところに、老いに感想を持つという現象があり、属性がついてしまうという感じになります。

「今」しかないのに未来を想像して思い煩うこと

また同様に、未来の自分の姿を想像して思い煩うということも起こります。

「今までも老いてきたのだから、これから先も老いる。そして、老いることによって何かが失われ機能は低下していったというようなことを経験したので、この先もそうなるだろう」

という感じで未来には自分の機能はさらに低下するということが予測される恐怖が起こったりします。

そして「この未来の想像」を始め、先の「過去の記憶を思い出す」という行為自体は、ツールとしてのみ使うのであれば便利なものになります。でないと古くは農耕を始め、何の文化や技術も発達し得ないからです。

ただ、そうした「思考」と「感情」がごっちゃになったりしてしまうときがあります。

当然に起こりうる事実として予測するくらいまではいいですが、それに対して感情が働くとロクなことはないのです。

例えば、老いて美貌が損なわれるというようなことを予測する時、かつてその美貌で都合の良いことが起こったとか、良い感情を得ることができたというような「成功法則のようなもの」を保持しているとそれに執著するようになります。

そして老いに対して必死で抗い、感傷的になり、結果的にストレスにより「より一層美貌が損なわれていく」という悪循環が訪れたりもします。まさに本末転倒です。

老いは仕方のないこととして「諦める」

まあ胡散臭いコンサルなんかでも「諦めるとは明らかに眺めるということです」なんてなことを吹聴したりしますが、本来「諦める」というのは「明らかに観る」と言った感じです。それは単なる事実であり、変えられ得ぬこととして「ただの理として見切れ」という感じになります。

「それを受け入れる」といった感じではなく、その理の本質を見切り、そういうものだと明らかに眺め、それに対して起こる感情の本質すら見切ってしまうという感じです。

受け入れるとか受け入れないとか、「受け入れたくない」といった感じのことは主義や方針の領域であり、選択権があるような領域の話になります。しかし、理は変えることができません。

世間では、対応策として「仕方」のあることすら「仕方ない」と断念する割に、変えられ得ぬことについては逆に必死で抗おうとしたりします。

「嫌だという感想を持とうが変えられない」ということを見ようともしないという感じです。

老苦は、仏教用語であり、仏教が示すものであるため参考程度に少し触れておきますが、スッタニパータにおいては、老衰について「ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われている」といった感じで示されています。

「わたくしは年をとったし、力もなく、容貌も衰えています。眼もはっきりしませんし、耳もよく聞こえません。わたくしが迷ったままで途中で死ぬことのないようにしてください。―どうしたらこの世において生と老衰とを捨て去ることができるか、そのことわりを説いてください。それをわたくしは知りたいのです」

「ピンギヤよ。物質的な形態があるが故に、人々が害われるのを見るし、物質的な形態があるが故に、怠る人々は(病いなどに)悩まされる。ピンギヤよ。それ故に、そなたは怠ることなく、物質的形態を捨てて、再び生存状態にもどらないようにせよ」

「(略)どうか理法を説いてください。それをわたくしは知りたいのです。―この世において生と老衰とを捨て去ることを」

「ピンギヤよ。ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、それ故に、ピンギヤよ、そなたは、怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ」

(スッタニパータ 1120-1123 抜粋 学生ピンギヤの質問 中村元訳 岩波文庫)

不老であったとしても

老いや老化に抗う発想として、昔から不老不死なんかを夢見る人たちがたくさんいました。今でもいるのかもしれません。

そうした人たちは、おそらく肉体的な老化、歳を重ねるごとに失われていく活力などについて、それを防ぎたいというような発想なのだと思います。

しかしながら、老化とはいわば変化していくということです。もちろん肉体的な老化という面もありますが、自分が変化したからこそ、時間という概念も生まれ、知らないことを知ることにより意識がバージョンアップしていくからこそ老化していくのです。

自分が老化せずに周りは老化するということで、不老に興味がないという人もいそうですが、仮に周りの人たちも含めて、全てが不老であったとしても、意識が常にバージョンアップしていくことは避けられません。

長く生きようが既に知ってしまったことを完全な未知に戻すことはできないため、どんどんバージョンは上がっていって、「それもう飽きたよ」というような感じになってしまいます。そうなると肉体的には老化していないということになろうが、意識ははっきりしていようが、意識自体の「老化」は防ぐことができないという感じでいかがでしょうか?

それに加え「常に何かをやらされる」という生きる苦しみ「生苦」が永久について回ることになります。

理を観る

そのような感じで、ただ理を観るという感じだけにしておくと、仕方のないことは仕方のないこととして諦めることができるはずです。

いかに感情を持とうが変えることはできないのだから、「自分の成功法則」を元に「感情に苛まれること」や、抗うためにあれこれ振り回されること自体がまさに煩悩だと気付いてしまうほうが賢明です。

「老いること」自体は変えることができない理になりますが、本質的に「老いることとは変化していくということ」といった感じになります。

そしてその変化の方向性は、諸法無我として関係性の中で自動的に方向付けられたりします。しかしもちろん、そうした変化の方向性の中で起こる「動機」や「感情」すらも、因縁によって「形成されたもの」です。

そうしたことを明らかに観ることで、変化の方向性自体が大きく変わってしまうことになるでしょう。

四苦八苦 あらゆる苦しみ

一切行苦

Category:philosophy 哲学

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