何かに絶望して、絶望したままだと、また絶望を味わうような現実が展開されていきます。
絶望とか希望とか願望なんてなものは、アイツの演算結果であって、本来は存在しないものです。
絶望は期待への諦め、自分が望んだとおりには進まないという状態を体感した時にやってきます。
ということで普通、絶望の手前には何某かの希望や期待、願望があったはずです。そして、予測があり、予測通りにはいかないであろうことが確定したと頭で考える時に起こります。
重要度の高さと絶望感
しかしながら世間一般で思われているような絶望は、絶望の極みではありません。
本人にとっては一見重大そうなことに見えても、傍から見たらなんてことのないことがほとんどです。
それはただ単にその対象への重要度が高い、だからその重要度の高さの分だけ絶望感が大きいだけです。
思春期の中学生が、髪を切りに行って変な髪型にされたということも絶望になり得ます。
ただ、そんなことは傍目からすれば大したことはありません。
でも本人にとっては、「好きな子に笑われたらどうしよう」、「自分のモテモテプランに歯止めがかかってしまった」という強烈な絶望感がやってきているはずです。
でも大したことはありません。世間一般で思われているような絶望などこの程度、それが少し大人版になった程度です。
最大の絶望感
以前「最大のがっかり」などで触れていますが、絶望はチャンスです。
しかし、この手の絶望は、世間一般に思われているような「出世ルートから外れた」とか「破局を迎え新婚ラブラブ生活プランが破綻した」というタイプのものではありません。
そうしたものは、世間で思われているような「嬉しいこと、楽しいこと」の類への期待が無くなったというだけです。
また、「経営している会社が倒産した」とか「詐欺にあって一文無しになった」というのも、現状の延長線上の未来像への期待が無くなったというだけです。
大したことはありません。
最大の絶望感は、「何をやっても、マイナスを設定してゼロに戻しているだけだ」と気付いたときです。
腹が減ったから飯を食った。職に就いていることが社会の評価基準として正しいとされているから職に就いた、どこを見渡してもそんな感じの構造になっているはずです。
「人に認められたい」と渇望し、人に認められたので嬉しい、まさに穴を掘って埋めているだけです。
まあ一種のニヒリズムに近い構造があります。
哲学的思索の上で「世の中の全てのものに価値はない」と考えついた場合は、「では、私はどうするのか?」という事になりがちです。
そして人によっては「社会生活に絶望した。この世界に未練はない」と思ったり、「私が価値を設定するのだ」と思っていく人もいます。
しかしいずれもまだまだアイツ目線の思考です。
といっても少なからず次のことには気づけているはずです。
「努力すれば報われると思い、忍耐していたが、その先には何もない。今、ただ苦しいだけ」
そして、次のことにも気づけているはずです。
「あることを望み、それを叶えても、束の間の喜びと安心だけで、すぐにそれは過ぎ去っていく」
願望を持ってはいけないのか?
では、願望を持ってはいけないのでしょうか?願望を持つことこそ欲であり、それが煩悩になるのでしょうか?
A. アイツ目線ならね
といってもアイツの内にいながらも、数々の願望は叶っているはずです。
息がしたい、息をした。
これだって真っ当な願望と実現です。
でも構造的には、「息がしたい」というものがあるからこそ、息ができないときには苦しみがやってくる事になっています。
一応構造としてはマイナスからゼロです。こうした条件がなければないほど、苦しみの数は減っていくはずです。
で、息をしたいということをアイツ目線で考えると、どんどんおかしくなります。
「こういう空気の悪いところで息をすると体に悪いので、霧ヶ峰のような高原でしか息はしない」
で、息を止めますか?
そんなことをすると移動中に死んでしまいます。
こうした願望は、「意識しなくても」願望としてあり、そして実現しています。
意識していないからです。
意識というのは、そのままアイツの領域です。
息をすることは、現実として何の抵抗感もありません。
ただ、肥溜めの前を通ると、息を止めることがあります。
それは「普通に息をすると、後でしんどくなるぞ」と判断するからです。
必要に応じて、アイツが働いてくれます。
わざわざ、「息を止める所リスト」を作って暗記しなくても大丈夫です。
なんだか新約聖書みたいになってしまいました。
絶望する人々 曙光 64
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