精神の暴君たち

小さな個々の問題や実験は軽蔑すべきものと思われた。人々は一番の近道を望んだ。世界のすべてのものは人間によって整えられているというように思われたので、事物の認識可能性もやはり人間的な時間の単位によって整えられていると人々は信じた。一切を一挙に、一言で解決すること。― これが密かな切望であった。 曙光 547 中腹

宗教的なものは代表例として当然ですが、一種の経済的民間信仰のようなものも、人を盲目にしていきます。

自由な状況で自由に思考するよりも、わかりやすい「神」などを設定したほうが、全てを一気に解決できるというような構造になっています。

また、時に聖戦名目で争いになる一方、戦いの抑止力になることもあります。

そしてこれらは、全てを解決するもののように見えて、煩いのタネにもなることがあります。

もちろんそれは全ての誤謬の始まりと終わりではあるものの、見方によっては余計な煩いを起こさせないという一定の効果というものを認めることができます。

制限がある方がうまくいく場合

社会に触れていると概してガチガチに制限されている方がうまくいくというケースがよくあります。

変にサービスをし相手に自由を与えることで、物事がうまくいかなくなることも結構あるのです。

先日、社長仲間がそんなことを嘆いてきました。

もう付き合いの長い人ですが、彼は労働環境や所得水準などなど、あらゆる面での業界の水準自体を向上させようと、人一倍尽力していました。

同業他社と比較しても給与水準は高いですし、福利厚生などもどんどん増やしていきました。

ところが、それとは裏腹に、従業員の欲は加速し、研修費用をかけた人ほど退職し、挙句元幹部には意味の分からない訴訟まで起こされかける程になりました。

「結局、オラオラ系の独裁トップダウンの方が正しいのか…」

彼は、自分が勤め人だった頃に不満だった事柄を全て改善するような形で理想の会社環境を構築しようとしました。

いわば従業員がもっと伸び伸びと生活できるように配慮していったという感じです。

結果は裏切りの連続

ところが、結果は裏切りの連続でした。

サービスすればするほど、相手は調子に乗り、社長を軽視し、横暴になっていったそうです。

その気持ちはよくわかります。

その時わけもわからず、彼の話を聞いていたわけでもなく、僕にも近い経験はあります。そして、社長と従業員という関係だけでなく、会社と客という関係でもよく起こることです。

従業員に合わせたら、客に合わせたら、サービスを良くすればするほどプラスになるというのは結構誤りで、むしろ逆に相手の欲を刺激し、横柄にさせていく原因にもなりうるという感じです。

そういうわけで、もっと社会環境を良くしようと思っていても、あえてそれを進めていないということもあり得ます。

囚人のジレンマのように

性善説的に相手側が「これは当たり前ではない、すごくありがたいことなのだ」と思っていれば、もっと社会環境は良くなっていくのかもしれません。

全員がそうしたマインドを持っていれば、もっとすごい加速力で社会は良くなっていったでしょう。

ところがゲーム理論の囚人のジレンマのように、全員が全員を信頼し合えば、最高の結果が得られるのに、誰か一人が裏切れば自分は損をするかもしれないという緊張感が全てをボロボロにしているのかもしれません。

「性善説と性悪説」から見る組織の安定

人間不信の最大の要因

本当はもっと待遇を良くしてあげてもいい、タダで対応してあげてもいい、と思っていても、下手にやると相手はそれを当然だと思い、さらには「私が意見をいうと相手は従うのだ」とすら思わせてしまうかもしれないという構造を持っています。

人が人を信用しきれない、人間不信の最大の要因はこんなところにあるのかもしれません。

人を信用することと人間不信

精神の暴君たち 曙光 547

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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