答えは風に舞っている 改

あることが正しいのか観測しようと、その観測対象を観測し出した時点で、観測前とは条件が異なるので真実はわからない、ということがよくあります。というか全てそうでしょう。

あくまで前提を定めてしまっている状態では答えは出しやすいですが、その前提は自分が認めたものでしかありません。

先の例は、ある物質の温度を計測しようとした時に、温度計をあてたり突っ込んだりすると、その温度計の「温度」が、その物資の温度に少なからず影響を与えてしまいます。

それを避けようとその物質と同等の温度にしておくためには、あらかじめ温度計を温めたり冷やしたりしなくてはなりませんが、その温度自体は、計測しなければわからない、というような具合です。そして、もちろん大雑把には計測できますが、すごく細かい単位で見ると、常に温度も変動しているはずです。

この道は正しかったのだろうか

さて、いろいろと思い悩んだところで、同じ時期の経験というものはひとつしか経験し得ません。例えば、内定をもらったA社かB社か、どちらが正解だったかは、体二つ、世界二つで同時に経験しないとわかりません。

そのことは当たり前のこととしてわかっているはずなのにどうしてかお酒なんかが入ると

「この道は正しかったのだろうか」

と悩むおじさんを数百人単位で見てきました。これからも見るでしょう。

ただ、これは現状がいまいち楽しくなくて、いまいち満足がいかないから出てくるセリフです。

長い時間をかけて学校でつけてしまったクセは、すべてのことに答えを求めてしまうことです。

考えれば考えるほど、「答えを求めない」という考えを「採用するか/採用しないか」ということに答えを出さなければならない。「答えを求めない」ということは正しいのか、ということの答えが欲しい、という蟻地獄に陥りそうな気もしてきます。思考などその程度が限界です。

答えを探しては悩むだけで、答えから何かの方向性を変えることをしないなら、その答えは何の意味もありません。

正解なら「答え」を求めすらしないでしょう。

一つの指針

答えを見つけるため、というより「自分にとっての答え」としての正しさを測る一つの指針は、感情にあります。

思考が頼りにならないなら、感覚や感情に頼ってみましょう。

感情は嘘をつかないどころか嘘をつけません。

「なんとなく嫌な感じ」をなんとか打破しようと好きになろうとしても、好きにはなれません。

ということで、感情は「反応」ではありますが、一応嘘はありません。

なので、論理的に正しいかどうかを示すものはないにしても、自分が選んだものと自分の相性というようなものを測ることはできます。

ただ、感情にも騙しがあります。それは思考による騙しです。

散々いろいろな観念を植えつけられた思考が、「ほら、これだ」と錯覚させることはよくあります。

そんな時は、「人の目を気にしない状態」で感じる感情だけを確かな指針としてみてください。

「この車は高いからみんなが羨ましがるだろう」

ではなく

「この旋回能力が最高なんだ!」

を大切にしてみてください。

「答え」は風に舞っていますが、解釈を通さない確かな感覚や感情がそこにはあるはずです。

過去記事⇒答えは風に舞っている

Category:さよなら私 / 始めと終わり

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