第2100回投稿記念

これで2100記事目になります。ブログ創設から2100回目の投稿ということで「第2100回投稿記念」です。

前回の第2000回投稿記念は、2021年12月27日だったので、前回からの100記事は、1年と少しかけて投稿したという感じです。またローペースで、かつ、アフォリズムで少し数を稼いだ感はあります。

さて、常連さんいつもご高覧ありがとうございます。

また、contactからご連絡いただいた方、投稿にコメントをいただいた方、ありがとうございます。毎度のことながらたくさんの気づきがありました。また前回から今回までの間にも単純に応援メッセージをいただいたりもよくしました。ありがたい限りです。

PC、タブレットなど機器の電源を切ったりする習慣ができたので、ご連絡が遅くなることもありますがご容赦下さい。なお、contact以外からのご連絡は確認が大幅に遅れることがありますのでご留意いただければと思います。

それではおなじみのアクセス解析から見るアクセス状況から投稿記念の回を進めていきましょう。

アクセス状況

アナリティクスがGA4というものになり、そちらも参照しましたが、設置した日の関係からデータが完全ではないため、今まで通りの方のアナリティクスの方を参照しました。

前回の2021年12月27日から2023年1月17日までの間のユーザーさんの数は、60,508名であり、前期間(同一日数)は、113,191名なので、比較すると46.54%の減少という感じのようでした。

相変わらずユーザーさんは減少傾向ですが、1ユーザーあたりのページビューは高まり、直帰率がかなり減少しています(ページ/セッション 35.67%上昇、直帰率 29.69%減少)。

つまり、パッと来てパッと去る人たちが減り、より一層常連さん向けになってきたという感じになるでしょう。

さて、男女比は男性52.39%、女性47.61%でした。前回に引き続き若干男性ユーザーさんの方が多くなってきました。

モバイルからのアクセスは68.38%でした。デスクトップは29.33%、タブレットは2.29%でした。ややモバイルの数値が下がり、デスクトップの比重が高まっています。

ユーザーさんのエリアですが、今回もだいたい人口に比例している感じで東京、大阪、神奈川、愛知、埼玉、千葉、北海道、福岡、京都、兵庫という順でした。

23区を市扱いした上での都市別は、大阪市、横浜市、渋谷区、名古屋市、京都市、福岡市、札幌市、さいたま市、新宿区、神戸市という結果になりました。

日本以外からのアクセスは、やはりアメリカがダントツですが、それ以外としては順に、ドイツ、カナダ、韓国、タイ、イギリス、オーストラリア、フランス、台湾、シンガポールといった感じでした。今回は55ヶ国からのアクセスがありました。

アクセス経路としては、自然検索が82.64%、Directが15.79%という感じになっています。Directの比重が高まっているという点からも、より常連さん向けになってきたという感じがします。なお、ソーシャル経由(0.39%)のうちTwitterが76.47%を占めていました。

年齢層

  • 18-24 31.64%
  • 25-34 24.52%
  • 35-44 22.48%
  • 45-54 11.48%
  • 55-64 5.24%
  • 65+  4.64%

以前に比べてさらに若年層の方からのアクセスが増えている傾向にあります。

サイト全体の本文文字数

本投稿を含む文字数は、

全投稿の本文文字数 5,006,305字

1投稿あたりの平均文字数 2,383字

でした。

なお、2023年1月12日に投稿の本文文字数は500万字を突破しました。

サイト内検索

毎度おなじみサイト内検索です。

前回から今回までの間に検索されたワードは、2846ワードでした。

検索回数上位は、断捨離、自我、所有、涅槃、効果、営業、読書、スマートフォン、テレビ、やる気といったようなワードでした。

さて、そろそろ投稿記念の回らしくより個人的なことについてでも触れていきましょう。

あの日の背中

似てる猫

似てる猫 「ねことねこ」©町田尚子氏 こぐま社

やたらと似ている猫の絵があったのでご紹介しましょう。

特に十代から20歳くらいのときの僕にかなり似ています。

そしてその頃は、そこそこの猫背でした。

「言いたいことの雰囲気はわかるけど、受け入れられないな。

つまり、黙れ!」

というような空気感で過ごしていました。

12歳位までは明るく過ごしていましたが、その後明るさと暗さが交互にやってきました。

その原因は、簡単です。

世間的に言えば「なぜ、人と人は時に相容れず、食い違うのか。仲良くできないのか。なぜ大人は大人にも関わらず信用に足りないのか」

ということ、そして、

「どうせ、マインドコントロールされれば、その意見はひっくり返る」

というようなこと、

その中で、

「僕はどうやって生きていこう」

と思ったことです。

「彷徨うように、当たり前のことをこなしたところで、それほどの楽しみもなく、苦だけが待っている」

そんなことを思いました。

普通に仲良くすればいいのに、隙あらば「相手よりモテよう。できれば都合よく支配してやろう」というようなことを気持ちの裏側に潜ませている人によく会いました。

勝っても仕方ありません。

本当は「人」と仲良しになりたいのですから。

だから、どう転んでも叶わない、というような辟易から、暗さが生じたことがありました。

心の仕組みを解明した後

自分の心(この心は広義の一般的な心です)を含めて、心の仕組みを解明しようとしました。

ある程度解明した時に思ったのは、「気持ちや考えなどあてにならない」ということです。

洗脳されれば、それまでの考えや気持ちは変わります。

誘導されるような環境コントロールによって、サブリミナルメッセージによって、細かな意志決定をコントロールされることによって、自分が好きで選んだかのように仕向けられている「ゾンビ」の意見や気持ちなど、また環境が変われば変化するということになります。

コントロールの憂い

自他ともにすべてを明るい方向へとコントロールすることで、明るさはある程度戻り、猫背もマシになりました。

でもその一方で、わざわざコントロールしなければならないこと、コントロールしている事自体に面倒くささと憂いがやってきました。

多少の波はあっても自然体で接する人たちとは仲良くやり過ごせればそれでいいのに、どこかしらコントロールが必要な感じがして、コントロールしていること、コントロールしようとしていることに憂いが生じました。

そしてまた、僕は猫背になりました。

憂いと猫背

何かしらを制限して、抑え込んで、偽りを含めば、うまくいくなんてなことは、裏を返せば自然体で正直にいることは、うまくいかないことを意味します。

全てではないにしろ、半分くらいを抑え込んで、もう半分を膨らませるような、人格のコントロールをすれば、おそらく行列ができるほどお客が来て、行列ができるほどモテます。

しかし、そこには抑え込んだ分の憂いがあります。

その憂いの分だけ、僕は人のいないところで猫背になります。

そんなことをして、何かしらを手に入れても、猫背矯正のために何かを消費しなければならなくなります。

こうなると、穴を掘って埋めているだけです。

そうすると、人でいること自体が憂いであり、生きていること、存在していること自体が憂いとなります。

モテても仕方ありません。

その場の感情は本当でも、その先には変化するのですから。

あまり稼いでも仕方ありません。

消費することで得られるものなど知れていて、いずれ飽きが来るのですから。

変わらないものを求めても仕方ありません。

いずれ変化し、意図的な嘘でないにしても、嘘であったかのようになってしまうのですから。

明るい景色でも見れば多少は明るくなるにしても、明るい景色でも見ないと明るくならないなんて、なぜそんな構造になっているのでしょうか。

なぜそんな憂いの構造しかないのでしょうか。

制限、そして制御の必要性

面倒です。

焦燥、不足感、責任感、義務感、それに合わせて対応して

束の間の安堵、頭痛、こわばり、腹痛

ふざけてはいけません。

言いたいことはわかるけど、受け入れられないな。

つまり、黙れ!

黙れ!

黙れ!

黙れ!

黙らないのであれば、一切を放棄しましょう。

すべてを手放しましょう。

黙らなくてもいいですよ。

手放して放棄しますからね。

いいえ、既に放棄していますから。

いいえ、既にすべてを放棄していますから。

いいえ、既にすべてを放棄し、現実を見破っていますから。

人であることを放棄していますから何を言っても無駄ですよ。

時空の彼方へさようなら。

それでは引き続きご愛読くださいませ。

第2000回投稿記念

Category:miscellaneous notes 雑記

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