第一の天性

現在われわれの教育されている通りでは、われわれは最初に第二の天性を手に入れる。世間の人々がわれわれを成熟した、青年に達した、役に立つと呼ぶとき、われわれはそれを所持しているのである。若干の少数者たちは、それの被いの下でその第一の天性が成熟したまさにそのとき、いつかこの皮を投げ捨てるのに十分な蛇である。大ていの者にあっては第一の天性の芽は枯死する。 曙光 455

今回はタイトルが「第一の天性」にも関わらず、第二の天性についての内容になります。「天性の才能」と言われる時の天性ですが、これには「第一の天性」と「第二の天性」という概念があります。

「第一の天性」はもちろん生まれ持った才能、先天的なものという感じでしょうか。そして「第二の天性」は教育などでついた習慣つまり後天的な天性です。

第二の天性の呪縛

教育などによって出来上がった習慣は「第二の天性」と言われたりします。天性といえばある種逃れられないような元々あるような性質です。それなのにどうして第二の天性と言われるか、それはその習慣を得るような環境を自分では選べないからです。

意識の中に出来上がった習慣のパターンも、自分が創りだしたオリジナルのものではありません。直接教えられてか、間接的に誘導されてかはまちまちですが、他人の意識の幻影の中で生み出されたものです。

その習慣を変えようとするのにも動機があります。その動機は持って生まれたもの、つまり「本能的な衝動」か「意識の集合の中からの演算」なのかの比率はバラバラであっても、その双方が組み合わさったものです。

そこで習慣を変えれば、と簡単に考えますが、今の習慣が習慣になっている因果関係は意識の中で完全に紐解けるほど単純ではありません。

胡散臭いコンサルが吹聴するように「習慣にすればいい」と、言葉だけ知っても、かならず感情に抵抗感がやってくるでしょう。それを意志の力だけでねじ伏せようとしても、その力は寝て覚めてを数回繰り返せば弱ってきます。

そう言えば、胡散臭い系のコンサルタントに説きこまれたのか、何かの自己啓発本でも読んだのか、勤め人の頃に管理者が「習慣にしよう」と提案してきたことがあります。

「朝起きたら、歯を磨くやん。それは習慣やからやね。習慣になれば自然とできる。だから電話アポを習慣にしてしまおう」

というようなことを言っていましたが、そんな彼のブームは彼自身を含めて2日位で終わってしまいました…

と、それはどうでもいいですが、自分の持つ習慣です。第二の天性です。

自分がどのような因縁でそういった習慣が習慣になっているのかを、具に観察しなければ、行動だけ習慣づけようとしてもなかなかそれを変更することはできません。

異なるパターンを導入しようとしたとき、たいていやってくるあの「めんどくさい」といったタイプの抵抗感は何なのかを見つめなければなりません。

そんな抵抗感がやってくることを、根性でなんとかやろうとしても、抵抗に対して戦っていますから、その分だけエネルギーが必要になります。そしてエネルギー切れを起こして、「止めよう」ということになります。

恒常性と抵抗感

一つは恒常性です。それがいいものであっても変化することへのストレスがやってきます。徐々に変化するというのならそれほど感じませんが、例えば給料が10倍になる、といった場合でも、変な抵抗感が出てくるのが普通です。

1.1倍くらいなら、受け入れられますが、10倍は「よいことだが・・・」と何かつかみ所のないような抵抗感がやってくるはずです。「そのような変化への辟易が全くない」、という人は、無常を体感しているか、そんなふりをしているだけかどちらかでしょう。1秒も1ミリも動揺しないという人はなかなかいないはずです。

「習慣を変えればいい」という単純なものではない

人から言われて習慣を変えようと思っても、そんなことはなかなかできません。三日坊主がせいぜいでしょう。特に会社が会社の都合でやらせようとすると、習慣が根付かないか、もしくはそれがストレスで不正や退職者を生み出す原因になるでしょう。

習慣など自然と変化していくものです。良い習慣と言われるものであっても、それもいつかはなくなるというより変化します。

習慣が人に与える影響はまあまあありますが、それでその人が大幅に変わることはありません。

そんなことよりも、意識の澱が取れれば取れるほど、心の垢が抜ければ抜けるほど思考も習慣も勝手に変化するのだから、行動としての習慣より、心の動きを観察したほうが確実です。

行動として出てくるものは、どんどん浮き沈みしながら変化してきます。

「清掃活動を習慣にしよう」

と言う前に、意識が変化したなら、そんな標語がなくとも、勝手にゴミを拾う人になってしまうというようなことです。

意識の変化は、理屈を教えられてそれを理解した、というレベルではありません。

すぐに意識の変化と聞くと、教え込めばいいんだと、教育したがる人がいますが、教育したがる人が意識の変化が起こっていないのに理屈だけ唱えても、伝わる情報は言語だけではありません。身体的な動作だけでもありません。

まず意識自体がスッキリしていないと、いくら唱えても、その邪念まで伝わるということです。

それは目に見えない情報ですが、音声だって目には見えません。

さらに少し実生活的な感じで例えて言うならば、「あ」という字でも手書きで書けば、誰の字かわかったりします。書き方で性格や教養、その時の気持ちの状態まで染み込んでいます。

言語としては「あ」という情報しかありません。しかしそれ以外にも情報入っていますね。

音声でも同じ「あ」でも誰の声かわかりますね。だれがどんな風に「あ」と発声したのかによって、「あ」が持つ情報が変わります。

「言葉と行動だけ取り繕っていれば大丈夫だろう」、という邪念無く、意識を変えてから人に説くべきでしょう。

第一の天性 曙光 455

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

「第一の天性」への2件のフィードバック

  1. なにを検索したかは忘れたものの、先週末に貴ブログに辿り着いて、ちょこちょこ読ませてもらっています。
    BOSSUさん自身の生きているという所与の状態に対して、生きるという主体性を獲得する過程の煩悶の跡を見せてもらって、それは僕自身にとっても目から鱗で励みになります。

    元から持ってる資質と環境とが生きる道程を定める鍵とすると、突き詰めたら運命論みたいな話に落ち着きそうな感じもしますが、それで確定されるのは過去までで、現在以降は無意識の反応を意識下に置くことが主体性を持って生きるために必要、ということでしょうか。

    記事と対応したコメントではなく、コメントを残そうと思いたったところがこの記事で失礼しました。

    1. コメントどうもありがとうございます。
      資質と環境と生は、不確定性があったとしてもその範囲である程度方向が決まるので、論理で考えていくと運命論のような予定説のようなものに行き着いてしまいます。

      過去や未来はすべて記憶を元に今作られている情報の状態でしかなく、本質的には今現在のみという中、言語や体感を中心とした記憶が今を作っています。

      そしてこの今が次に来る今を形作るという中、無意識に保持した記憶が次に来るものを方向づけますが、そこで呪縛となるものは無意識という言葉通り、意識していないながらも次の現象の決定要因となっている記憶です。

      それに気づくだけでも無意識から意識に上がることになるので、不本意な方向付けを回避することができるようになります。

      ここで注意が必要なのが「ちゃんと意識しているぞ」と思っていながらも前提が無意識になっているという部分です。

      何かへの衝動があることや何かの行動が抑制されていることを意識するということはしていても、なぜそうした動機や葛藤が生み出されているのかという前提部分が覆い隠されているというような感じです。

      ということを知る前と知った後では、仮に運命論のような予定説のようなものであったとしても、無意識に込められた呪縛からは脱することができるきっかけになると思います。これが、「それで確定されるのは過去まで」と言う部分につながると思います。

      理屈の上では、常に現在ということになりますが、そんな現在が常に安らぎの状態であるように、という感じです。

      例えば、周りの人から押さえつけられて「目立ってはいけない」という感じで抑制されていた人が過去からの因果の錯覚に気づき「目立ってもいい」ということに気づいたとき、興奮して逆に「目立ちたい」というようになってしまうことがあります。
      しかし、「目立ちたい」ということすら抑圧の解放による衝動という視点で考えれば、過去から因果となります。
      そして目立とうと思ったが叶わなかったという時に煩悶を感じるのであれば「目立ちたい」は苦しみの条件となってしまいます。そうなると一方は解決しましたが、一方で新たな問題が生じたという意味で本末転倒です。
      そうなると理想的なのは「目立ってはいけない」でも「目立ちたい」でもなく「目立っても目立たなくてもどちらでもいい」ということになりますし、最も良いのはそうしたことすら意識することなくまさに「気にしていない」という状態です。

      それがあらゆる分野でそうなれば、大半のことに煩悶することは無くなっていくでしょう。
      そうなると、仮に世界が予定説的なものであっても、運命論的な流れにすら抵抗も生まれず煩いも消えます。
      論理上の二律背反などにも「どっちでもいい」という感じで安らぎの中に入れるのであれば、この心としてはそれでいいという感じです。

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