空想による発火

ぼんやりと月を観たりしている時などによく空想による発火が起こったりします。

離人感を伴うような感じですが、心地よさを伴います。

情報空間が広がり、四次元的な移動もできるような感覚です。

それはぼーっとしている時、突然起こります。

手というものに関する無限にも近い空想

例えばですが、月に手をかざした時、手というものと手を動かすということについて、無限にも近い空想が広がっていきます。

当たり前のように手を動かしていますが、進化論が正しいとすれば、手が無い生き物だった頃の遠い先祖が、手というものを出してみようと思った意図や指を器用に使ってみようと思った先祖がの意図が、本能として組み込まれているわけです。

幾多の「こうしてみたい」、「こうしてみよう」というような意図が進化を実現し、その結果が今の体や神経を構築しているわけです。

しかもそれは、遺伝情報としてその時から今まで消えていないということを考えれば、ものすごく面白くなってきます。

「動くようになっていて、動かす訓練をしたから動くのだ」というような表面的なことではなく、そうした機能を持とうとした、最初の意図が今のこの結果にすべて反映されているというようなイメージです。

そのプロセスを枝葉のように空想し、時間軸を行ったり来たりしていると頭が発火してきます。

意図や結果が今に反映されている

ストーリーとしての記憶はなくても、そうした意図や結果が今の手を動かすという動作に反映されているわけです。

そしてその意図がどのようにして反映されていったのかというところを空想していくとさらに火花が加速していきます。

「海から陸へ」等々「こういうふうになりたいなぁ」と思ってもすぐに反映されるわけではなさそうな感じがします。

仮に「何世代もそういう思いを持ち続け、時に色々試し、ということを繰り返しているうちに、ある時その子孫に突然変異が起こり、その変異種が生き残っていった」等々、そうした感じで意図が現実になっていったとすれば、何世代にも渡るストーリーとして面白みがあります。

「手をかざす」という動作だけでもそんな感じで空想による発火が起こってしまいます。なので、対象を広げてしまうと頭が追いつかなくなっていきます。

時間軸と意図の反映

しかしながら哲学的に見ると時間というものは一種の仮定にしかすぎませんし、時間軸的に未来が今になり、今が過去になるという感じにもなっています。因果の方向は本来逆であるという捉え方もできます。

そうなると、未来からの過去に向かって「思考・論理の辻褄を合わせる」というプロセスといった感じにも捉えることができます。

むしろその時の意図、過去に生じた意図は、未来の意図が過去に投影したものということも想定できますし、同時発生した、というより、空間が生じた時に可能性として既にあったものであり、時間軸的なものは実際はないということも考えることができます。

というようなことを考えると、単なる想像のタイムトラベルではなく、静的な四次元的移動が起こったりしてきます。

ふと我に返ると、少し腹が減っています。

「まあ、ひとまず火の鳥でももう一回読むか」

という気分になっています。

Category:miscellaneous notes 雑記

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