本ブログも五周年を迎えることになりました。ちなみにこれで1480記事目になります。今回も祝四周年の時と同様に、単純に祝五周年というタイトルです。
「五年経つとこんな感じになっているのか」という感じです。
祝四周年の時点で、1140記事だったのでこの一年で340記事を書いたことになります。書庫の増設等もありましたが、この一年もまあまあ書いた方になるのでしょう。
さて、常連さんいつもご高覧ありがとうございます。コメントを寄せていただいた方やcontactからご連絡を頂いた方、また、ひっそりと読んでいただいている方々、ありがとうございます。
最近ではまた乱高下気味ですが、まあ何より四周年の頃からアクセスが倍増し、そのアクセス数に比例してご連絡をいただくことが多くなりました。
それでは今回も、例のごとくアクセス状況などから進めていきましょう。
アクセス状況
この一年でこのブログにやってきた人の数は、188,810ユーザーでした。その前は、60,188ユーザーだったので、3倍以上になりました。
全てのユーザーさんを測定できているわけではありませんが、ユーザー属性としては男性49.07%、女性50.93%と概ね半々です。
年齢層としては
- 25-34 30.87%
- 35-44 24.87%
- 18-24 21.26%
- 45-54 12.83%
- 55-64 5.83%
- 65+ 4.34%
といった感じでした。
年間201回以上ご訪問いただいている方の数は、4,356ユーザー、年間50回以上再訪問いただいている方の数、つまり週一回くらいのペースで訪れる方の数は、9,023ユーザーということのようでした。
端末別では
- モバイル 70.75%
- デスクトップ 20.93%
- タブレット 8.32%
という感じでしたがモバイルの内訳を見ると
Apple iPhone 61.29%
と、まあ6割以上がiPhoneユーザーの方のようでした。
ユーザーさんのエリアはだいたい人口に比例している感じでした。
東京、大阪、神奈川、愛知、埼玉、千葉、北海道、福岡、京都、兵庫
でもやはり人口に比例しており少し味気ない感じがしたので滞在時間別で計測すると次のような感じでした。
京都、茨城、宮崎、岩手、奈良、兵庫、長野、島根、埼玉、宮城
なお、直帰を合わせると99ヶ国からのアクセスがあり(おそらく機械的な何かでしょう)、直帰を除くと48ヶ国からのアクセスがありました。基本的に日本人の方だと思いますが、もし仮に現地の人ならあの翻訳でどうやって読んでいるのかが気になります。
サイト内検索
毎度おなじみサイト内検索です。
今回は、第1400回投稿記念の2018年12月2日から現在までのものについて触れていきます。
4ヶ月弱の間に、1100キーワードのサイト内検索がありました。
自我、B層、読書、モテ、絶望、ヴィパッサナー、孤独、恋、恋愛、洗脳、窃盗、家出などが目立つ感じになりました。
また、スピノザやサルトル、デリダ、ウィトゲンシュタインなどの哲学者の名前や現象学等学問の分類そして宗教団体名なども結構ありました。
大きく分けると、心に関するものがダントツですが、哲学宗教系、異性系、学業系、家族系のワードが多い感じでした。
「大学受験はしなげればいけませんか?」
というものもあったので回答しておきます。
「どっちでもいいんじゃないですか?」
というだけではおそらく言葉が足りないと思うのでもう少しだけ書いておきます。
背景がわからないと何とも言えませんし、それ自体に対する判断がなせないという感じです。
周りからの圧力や動機が義務感であるならば応じなくてもいいですし、別にやりたいことがないのならひとまずそれに乗ってみても構いません。
究極的には誰に何と言われようと、自己責任の上でどこにでも逃げて自由に生きることはできますのでそれを念頭に置いてください。
さて、それでは投稿記念の回としていつもと違った感じで進めていきましょう。
サイト内検索リクエストも兼ねてということで、今回は僕の周りの人たちなどを中心にしていきましょう。
まずは友人などについてでも触れていきます。
類は友を呼ぶ
中学生や高校生の時から仲の良い親友たちの大半には共通点があります。
それはお父さんが美術系であることです。
高校生の時にふとファミレスで参加者全員を見渡すと、一人は本人が美術系(投稿でたまに出てくる芸大で教えている友人)、あとは全員お父さんが美術系の仕事をしていたということに気づきました。
そして面白いのが、その本人が美術系の一人を除いて、僕を含めた全員が「本人はあまり興味がなく基本的に絵が下手」という点です。
さらに、それらお父さんたちは、東京の百貨店で個展が開催されるような人だったり、天皇家に献上するものを手がけている人だったり、某高級車の北米用のプレミアムエディションみたいなやつの内装の柄を手がけていたりする人だったりと、おそらくそこそこの実力派だったりもしました。
そして、そうした美術系の人たちにありがちですが、友人のお父さんたちは僕の父も含めてみんな変人です。実績等々、そんなことを知ったのはかなり後になってからで、高校生当時はみんな「父が変人である」という共通点の認識しかありませんでした。
みんなに話を聞くと、家で漬物を食べただけでキレられたりとか「パンツと違う。パンスと言え」と強要されたりとか、「わしの代わりに壊してくれ」と納得のいかない作品を壊すことを懇願されたりと、そんな感じでした。
ただ、そんなお父さん方が見せる、帰り際に遠い目で「さよなら。うん、さよなら、うん、さよなら、うん、さよなら」とフェードアウトしながら挨拶してくれる感じも、何だか哀愁が漂っていて些か文学的で好きでした。
そんな彼らでしたが、服装に関しては軒並みホームセンターにいるおじさん並みの格好でした。でも、よく見るとやはりどこか違っています。「色や形が整っている」という感じです。
日常は、耳を引っ張りすぎて付け根が少しちぎれたりだとか、爆音でかけていた民族音楽にノリすぎて捻挫したりだとか、「モズライトを買ってベンチャーズをコピーするおじさんのマネ」を延々と見せられたりだとか、「焦って自転車を降りる姿」を見たいという理由で、ただ自転車で走っていただけのおばさんを驚かしたりだとか、変人極まりないような人たちです。
そうした変人のお父さんを持つ人達が、まさに類は友を呼ぶという感じで集まっていたという感じです。
まあ変人の人たちは、一見意味不明なことを言っていそうで、二周くらい回って考えると「確かにそうだ」というような事を言っていたりします。そうした着眼点や感性、そして「笑いどころ」が変人による家庭内教育によって埋め込まれていたという感じなのでしょう。
そういうわけなので、そんな家庭内教育を受けていた人たちが類は友を呼ぶ的に友人となっていったという感じだったのでしょう。
ずっと仲の良い友人たち
なので、そうした時期からずっと仲の良い友人たちと遊んでいる時は、おそらく傍から見ると会話が意味不明です。
ある友人は、本来会話のキャッチボールが数回あった先にあるようなフレーズがいきなり来ます。
普通は意味が不明ですが、長年の仲なので中間プロセスが瞬時に読めるため、会話が成立します。
彼は某上場企業の成績優秀な営業マンですが、やはり変人です。
ある時は、会話の中に出てきた「早川さん」という名前が、次第に「白川さん」に変化し、最終的には「白崎さん」になっていました。
その人の名前は、僕が出した名前ですが、
「じゃあその早川さんは…」
で始まっていたものが、
「で、その白川さんは…」
になり、最終的に
「もうその白崎さんは…」
になっていました。
さすがに固有名詞、特に名前間違いはまずいだろうと思い、そんなことで仕事は大丈夫なのかと思ったので、「早川さんが白川さんになって白崎さんになってるんはいいんやけどさ、仕事の時は大丈夫?」
と、笑いながら聞いてみると、
「変わってるかもしれん」
と言い始めました。
でも、それでお客にキレられたことはないようなので、おそらくお客たちはそんな彼の人格を「そういう人なんですね」と受け容れてくれているのでしょう。
また、ある友人との会話では、印象の表現が抽象観念によるものなので、傍から見るとおそらく内容が意味不明です。
抽象的な単語で示されるので、その単語の中に含まれる印象を元に瞬時に検索して内容を理解する必要があります。
抽象的な印象そのもののときもありますし、そうでもないときもあります。人物名ならその人の作品の中のあのフレーズが示す印象のことだろうというような検索を文脈から行わねばなりません。
でも逆に僕も、理系的な話においても「ここが元気玉で、こっちがソニック(ソニック・ザ・ヘッジホッグ)な」などと言って伝えたりしています。
それは複数の友人に見られる傾向ですが、システムコンサルタントの友人もそのタイプなので、「仕事上そんなことで大丈夫なのか?」と思ったことがありました。
でもよくよく考えると、その領域の話であれば数学的に示したりだとか専門用語を使えばいいという感じになるので、逆にその他の領域での会話における言語表現とか語彙の関係なんだろうなぁということを思ったりしました。
五年経って気づいたこと
さて、それに関してブログ開設から五年経って気づいたことについてでも触れていきましょう。
最近気づいたのですが、Contactよりご連絡をいただく方には傾向というか若干の共通点がありました。もちろんすべての方に共通しているわけではありませんが、理系出身の方が多いという感じです。
それに気づいたのもご連絡のやり取りをしている間です。そうした発見があるため、ありがたく思っています。
それに気づいた時、
「表面上のデータではわからないもののそんな感じなのかぁ」
と、雪雄のような感じになってしまいました。
理系の方々の感覚
最終的には文系も理系も芸術系も関係なくという感じの領域に突入しますが、やはりフレームがあるので思考癖であったり、感覚的な切り口として、それぞれにいわば癖があるということになると思います。
たくさん本を読み出したのが19歳位の時からで、それまではほとんど本など読まず、という感じでした。最終的には得意な教科がないという感じになりましたが、高校生までの間で言えば、最も得意な教科は理科であり、特に物理でした。
小学生の時に買ってもらった理科の実験図鑑のおかげで「不思議に感じる気持ち」と「理解する喜び」を堪能していたので自然な感じでした。
ひとまずずっと物理が好きだったので、理系の方々の感覚も何となくわかるような気がします。
もちろんすべての人が同じ感覚を持っているとは思いませんが、科学において最も大切なことであろう「不思議に思う気持ち」もよくわかりますし、学習が進むにつれて起こってくる「理がわかれば操作できるはずだ。工夫できるはずだ。法則に則って安定した結果が返ってはずだ」という気持ちも何となく分かるという感じです。
ただどの分野にもありがちですが、領域・次元が異なる分野では途端に理が見えず操作ができないことがあり、それに苛立ってきます。
そしてその苛立ちに伴い、さらに理が見えないということが起こったりします。
その上さらに操作もできないので苛立ちはどんどん募りという感じで悪循環になっていきます。
男が足りない
そういえば高校生の時に「男が足りない」と言われふられたことがありました。
その時、僕が「嫉妬をしない」ということについて、逆に「関心がないことの表れだ」と言われたりしたという感じです。
彼女は他校生でしたが、学校行事用の何かを別の男性と二人で買いに行くということについて許可を求められたりしました。
で、「許可を得るも何も…」という感じで返答したらその後ふられたという感じです。
でも僕としては、「自分がいることで相手の経験に制限が起こることは何だか嫌だなぁ」と思っていた程度で、いわば、自分と付き合っているせいで、付き合っていなければ経験できたであろう経験が制限されるというのは、相手の自由と尊厳のためによくないだろうという理由がありました。
当時はもっと曖昧な感じでしたが、まあそんな感じで思っていたので、別に他の人と学校行事用の何かを二人で買いに行くくらい別にいいだろうと思っていたのですが、どうやらその平穏な態度が気に食わなかったらしいのです。
で、僕からすると僕の考え自体には高校生レベルですが一応論証があります。しかし彼女の言い分は当時よくわかりませんでした。
なお、そんな気づきを与えてくれた当時の彼女は、今でも誕生日には連絡をくれたりします。だから思い描いたような仲が続いたわけではありませんでしたが、それでよかったと思います。
―
今思うとまさに男女の性差によるフレームの違いという感じがしますし、おそらく理系の発想をする人からすれば、かなりパニックになるような出来事だと思います。
「僕は僕の領域でしか考えていなかった」ということです。
まあ相手も相手で、自分の領域でしか考えていないということにもなりますが、例え操作云々で考えても、責任と結果の享受は自分の内側でしか起こらないので、僕は僕のこととして可能な限り別次元での状態を見抜く必要があったということに気づきました。
相手の考えがおかしいといっても、究極目的が「二人の仲」であるならば、そんなことを論理で責めても始まりません。
その頃から僕は、それが文系領域であったとしても、論理として最適な解を最短で出すということや汎用性の高い法則を発見するという発想がありました。
理の完全性に従い、出したものが確実に「ある結果」として返ってくるというものが好きでした。安定した結果を返してくれる関数の世界です。
そのような感じで、理系寄りの思考法をしていた僕としては、「自分が理解可能で操作可能な領域を出たもの」を突きつけられるとパニックになっていました。
でもそれは、構成する全ての要素のうちの一部分しか見えていなかったからこそ起こったのだと言うことに気づきました。
苦しみが生じるのが嫌だ
ただ、「全ての要素が見えれば解決できる」という考え方がやはり理系の発想です。もちろんそれはそれで理にかなっていますが、それでは具体化された全てのハウツーや構造、全ての次元における理を逐一全て把握しないと解決できないという雰囲気すら持っています。
で、それはそれで、知れば知るほど解決できる確率は上がったりもしますが、時に偏りが生じて逆にこんがらがることもあります。
そしてその後様々なショックが度重なり、当時数千冊の本を読むことになったという感じになりました。
それでもなお、「解決できない問題」というか苦しみが生じる出来事はどんどんとやってきます。
でもよく考えてみると「苦しみが生じるのが嫌だ」というところのみが根幹としてあるわけです。
「不確実なものに振り回されるのはゴメンだ。理を把握し操作可能になれば苦しみは生じないだろう」
という発想のまま本ばかり読んでいましたが、ふと「単にこの心が苦しまなければそれでいいんじゃないか?」と思いました。
そして同時に「知ることで解決するのではなく、知ろうとする状態が苦しみを呼ぶんじゃないか?」とか「でもそれを知るには、そのことを知る必要があることになるなぁ」とか「でも、知った後は別にいらないんじゃないか?」ということを思ったりもしました。
「梯子とか渡船ってそういうこと?」
「ああなるほど」という感じでした。
「示されていること」は概念の形成による執著を呼び起こすため、自己矛盾になるはずですが、「そう示さざるを得ないのか」という感じでした。
「ああ、彼岸ってそういうことね。
つまり、こういうことね」
―
といった感じで五周年です。
引き続きご愛読くださいませ。
最終更新日:
こんにちは。
ご無沙汰をしております。
遅くなりましたが、5周年おめでとうございます。
私は最近より拝読をさせて頂いておりますが、5年分の知識を習得するにはまだまだ時間が掛かりそうです。
お書きになった内容だけでなく、「ひとこと」も意味深いものが多く、参考になっております。
ブログの記事はゆっくりと読ませていただいていますが、「ひとこと」はまさにLive感覚で拝読しています。
今後も勉強をさせて頂きます。
理系文系と言う二元論の枠を超えた「思考」の楽しさを満喫させて頂きます。
どうもありがとうございます。
引き続きご愛読くださいませ。