「短文コミュニケーション」しかできないというのは考えものです。その傾向は、比較的高齢の人たちに増えているような気がします。短文以外になると頭がカーっとなり、短文しか記述できないというような感じになっていくのでしょう。
そんなことを思ったのは最近の業務のメールのやりとりです。
相手が還暦前後の年齢以上になると、短文しか返ってこないということが起こりやすい傾向にあります。
短文コミュニケーションは会話に近い感じになりますが、それしかできないとなると、大きな情報空間を構築したり操作したりすることができません。そういう生活をしている人たちであるのならば、それで問題はありませんが、経済社会では問題が起こってきます。
勝手な想像ですが、短文コミュニケーションができるようになったというか、それに慣れてきた人たち、良く言えば適応できてきた高年齢層が、今度は短文以外は扱えないようになってきたというようなことなのでしょうか。
その要因は、LINEやX(ツイッターですね)をその年齢の人が使い出し、さらにYouTubeにコメントを残すようになったりしたからでしょうか。
(ちなみにLINEというものは普及率が90%を超えているようですが、僕はもう10年くらい使っておらず、今後も使う予定はありません)
そうしたものの利用は、浅いドーパミン刺激をもたらします(結果、本当に楽しいことをやるだけの気力、集中力が徐々に削られます)。
スマホ脳の著者アンデシュ・ハンセン氏風に言うと、そのリズム感のある浅いドーパミン刺激に完全にハッキングされているというような感じがします。
手短にスピード感ある形で「もしかして」に興奮したい、そのために「短文!」となっているという感じですね。
そして結果、短文に慣れすぎて、必要な量の文章を記述できないということが起こったというような感じがします。
短文で次々いくということの刺激パターンに慣れている感じです。
というのはですね、先日、次のようなことを経験しました。
業務依頼の相談が短文のメール内容だったので意味が完全にはわからず、その内容について質問をしました。すると「説明不足かもしれませんがなんとか」というようなメールが返ってきました。
ナメてますね。
こちらは短文で意味がわからないから、項目ごとに確認の意味を込めて質問をしているのです。
いわば分割して考えられるような道すら作っています。
それに対して、
「さっき送った短文の内容から頑張って読み解け」
というようなことを言ってきたわけですね。
「答えはNOさ」
もちろん取引はしません。
会話や会話のような短文コミュニケーションには、その役割、機能として優れている面はたくさんあります。しかしながら、会話や短文では何ともならない領域というものもあります。大掛かりなことをしようと思うと、それだけ大掛かりな文で構成されることになります。
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勝手な想像をしましょう。
「さっき送った短文の内容から頑張って読み解け」というようなことを言いつつ、キャバクラの女からの営業LINEには返信をしているんですよ。
暇つぶしの割に意味があるかのようなニュース一覧を見ているんです。
人の質問には答えずに、動画の一覧を見て「面白そうなのないかな~」などとスクロールをしているのです。
浅いドーパミン刺激を求めて。
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まあただ、そうしたものも元の人格によると思います。
短文以外のコミュニケーションに自分がカーっとなったとしても、それをどう取り扱うかは、その人の人格しだいです。
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ということで、ハッキングされている方とは取引しないことにしています。頭が焼けていますから。
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余談ですが、リアルな会話でも「聞いている側は意味不明」というパターンが増えてきました。その奥には、それを話す人としては、連続したドーパミン刺激で「おもしろかった情報」として印象だけがあり、それを「その場面だけ」で短めに話されるから、聞いている側は意味不明という感じです。
文脈がないのはもちろん、話し手の方が経験した、「どんどん情報が入ってくる時のドーパミン刺激の加速の感じ」は、切り取って話される側は経験していないため、全く面白くありません。
これは、生存本能からの恐怖心から「新しい情報」に興奮するというものがあり、話し手の方は「意味不明な話」の元となる情報を得た際、その手前で「次!次!」とどんどん加速していたため、感覚的には面白かったという感じになります。
くだらない情報でも新しい情報で、ドーパミン刺激が加速していたため実際よりも面白いと「感じた」わけです。
しかし、実際はさほど大した情報ではありません。そう錯覚しているだけです。
まさに、ハッキングされ、頭が焼けているという感じがしてしまいます。