「真理」と「真理とは呼べないもの」

「真理」と「真理とは呼べないもの」について触れていきます。

もちろん「あなた達の言う真理が正しい真理ではなく、私の説が正しい真理だ」というような感じではありません。

真理とは、誰にでも再現可能であり、今すぐに確認できるものであり、誰かの主義や考え方で変更できないようなものです。誰がどう考えたところで揺らぐことのない「理(ことわり)」を意味します。法則というふうに考えても良いでしょう。

真理の定義として、論理的な法則に適合していることや命題が事実と適合していることという感じで考えても良いですが、さらにもう少し突っ込んで書いていきます。

そんな中「聖典に書いてあるから真理だ」と平気で言う人達もいます。「聖書の真理」とか「仏教の真理」という感じですね。

すぐに分かることですが、真理は何かの前提を持たなくても成り立っているからこそ真理であるはずです。ということで「ちょっと待った」をかけるという意味で哲学テーマとして再考していきます。

ということなので、もちろん胡散臭いカルト宗教が言うような真理ではありません。宗教臭がするので、あまり真理という言葉は好きではないのですが、そうした人たちが「真理とは呼べないもの」を「真理」だと言い張ったりするのをチョロチョロ覆していこうかと思います。

真理や理法と言われるような理(ことわり)の概要や「真理とは呼べないものを真理だとしてしまう人の心理」については、「真理とは何か?」で若干触れていましたが、今回は哲学テーマとして書いていきます。

「聖典に書いてあるから真理」でいいの?

まあ最初に「聖典に書いてあるから真理」でいいの?という感じでスタートしていきます。それが旧約聖書であれ新約聖書であれコーランであれ、原始仏教経典であれ大乗仏教経典であれ、「書いてあるから真理」なんてなことにはなりません。

「そんなことは根拠にならないよ」

ということは小学生でもわかるはずですが、世間ではどうもそうではないようです。

小学生位の感覚でもう一度考えみましょう。

「海が割れたのは事実です」

「は?で?」

という感じではないでしょうか。

「聖戦で殉教すれば緑園に行ける」

「じゃあ、子供にやらせていないで真っ先にあんたがやれよ」

というツッコミをしたくならないでしょうか。

「如来に帰依すれば死後必ず極楽浄土に行ける」

「どうやって証明すんの?」

という感覚を持ったりしないでしょうか。

そんな感じで聖典なんかの記述を読んで

「真理を説かれた」

とか

「真理が解き明かされている」

と判断するのは結構ですが、その説いた内容を支えているのはその人の信仰のようなものです。本当に揺るぎない真理であるならば、信仰の必要なく納得できる理でなければなりません。

また、何をもって聖典として認めているのかもわかりませんし、それらには何かしらのヒントがあるかもしれませんし、無いかもしれません。

さらに何をもって聖典中の「正典」としているかもわかりませんし、何をもって「偽典」としているのかもわかりません。そんな事は誰かが都合で決めていることですし、そうした人たちの決定を自分が受け入れているに過ぎないのです。

どのような目線で読むかによって解釈も変わってきますし、前提知識や思考の精度、単語の持つ意味のイメージなどによって内容の意味は大きく変わってきたりします。また、他の言語への翻訳や現代語訳されるに従い表現が変化している可能性もあります。

そんな中、そうした教義や解釈を盲信してしまうのは、伝統的なものだから正当性がありそうだとか、たくさんの人が支持しているから正しそうだとか、そうした雰囲気の影響があるのではないでしょうか。

そんな中、「真理が書いてあるから真理なのだ」とか「神の言葉なのだから真理なのだ」とか「唯一の仏が自ら語ったことなのだから真理だ」などということはどういう理屈で言えるのかが不思議でなりません。

信仰の必要なく納得できる理が真理

たまに触れることがありますが、信仰とか信じるということは、どこかに疑いがあるからこそ、それを気持ちのパワーで支えているということです。本当にその通りだと思っていたり、納得していれば信じる必要はありません。

自分でも確証が持てないからこそ信仰をする必要があるということです。

もし真理であるのならば、周りがどう言おうと他人の意見で揺らぐこともないのだからそれでいいはずなのですが、人への伝達において「納得してくれる人が多ければ多いほど自分も確証が持てそうな気がする」というような要素が入っているような気がしてなりません。

いわば疑いを払い除ける為の確証材料が欲しいということです。ということは、そんなものは真理ではありません。普通に考えて「それはそうだなぁ」と納得できたり、やってみたら今すぐに確認できた、というようなものでないとおかしいのです。

まあ右も左も分からない状態だったりする場合ひとまずは「もしかして…」という疑いを含んだ信仰のようなものが生じるかもしれません。しかしそれが本当に真理ならばその期待はいずれ「一ミリの疑いもなくこれは確かであり、どう考えても覆せない」というものに変化するはずです。

「いや、もしかすると〇〇かもしれない」というようなものが、論理上完全に消えるという感じです。

端的には「議論の余地無く当たり前のこと」という感じになります。

主義や信仰によって変化しないものが真理

そんな感じなので、「洗脳カルト宗教の勧誘に来た人を逆に説法して脱洗脳を試みた」での宗教勧誘者との会話にも登場していますが、主義や信仰によって変化しないものが真理ということになります。

視覚障害がなければということになりますが、「目を開けたら何かが見えるし、目を閉じても瞼の裏側が見える」というようなことです。

目の前のパソコンを見て、それが「パソコンである」ということを判断するにあたっては「光を感受する」ということを筆頭に様々なプロセスがあり、判断においては記憶というものが影響していたり、概念の統合という感じのことも起こっているというようなことは、思考実験的になりますが揺るぎない理でもあります。

万有引力のような自然法則も真理といえば真理です。「そうした法則が通用しない空間もある」ということであっても、「今のこの空間で自分が認識している範囲ではその理・法則が成り立っている」ということが真理です。

そのような感じで、「一切の形成されたものは変化する」という諸行無常も真理という感じになりますし、「今この瞬間の状態は、二度と起こることがない」という本来の意味での一期一会も真理です。いくら考えたところで、論理で覆すこともできませんし、主義や信仰で変更できるものではないからです。

そんな中、一種の真理というべきか、仮言命法的にAという結果を得たいならばBをせよという感じの構造が雰囲気的に成り立っていることがあります。

そうした法則性は一つの理ではありますが、その記述だけに限定されるものでも何でも無く、同じような方程式が他の記述で成り立っていることもよくあります。

ということなので、主義や信仰によって変化しないものが真理ですが、そうした理が姿形を変えて様々な表現でなされているケースも想定してみるという感じでいかがでしょうか?

そんなわけで、まずは「まあ一度は理解しようとしてみて、一度は考えみよう」というのは良いのではないでしょうか。

その時に確実でないものであれば、映画のストーリーくらいに思っておいて、仮定として考えると危ない方向に行くことを防ぐことができます。

例えば「神の義を求め神の国を求めなさい」というようなものと、「阿弥陀如来に任せなさい」的なものは、同じような属性を持っています。言っていることは一応違うのですが、共に「我を手放す」というような構造を持っています。

こうした「我を手放す」という感じのことに「何かの法則性があるのではないか?」という感じで検討していくということです。

「言葉には言霊があります。その言葉の音自体に波動と霊的パワーがあるのです」

というようなこと言う人もいますが、「ありがとう」なら良くて「Thank you」や「merci」ならダメなのでしょうか?「おおきに」もダメなのでしょうか?

というような感覚で法則性を捉えていくと本質的な理が捉えやすくなります。

現象は確かにある理に沿ったものだが関連思考をやめてみよう

真理という名のつくカルト宗教などは、何をもって真理ということを語っているのでしょうか?

全くの妄想だけならばおそらく嘘がバレて誰もハマったりはしないはずです。

そこで考えてみたいのが、先程の「一つの法則性としては成り立っていること」です。ここからが本題である「真理」と「真理とは呼べないもの」のキーポイントに触れていく感じになっていきます。

一切理として成り立っていないのならば、盲信することもありません。ということで、疑いを含んだ信仰のようなものであれ、何かそれを支えるようなものがあるという感じになります。

今一度考えてみましょう。

おそらくそこには、一つの現象を根拠に、それを何かと結びつけているという構造があるはずです。

神秘体験による感情や感覚

例えば、胡散臭い瞑想で神秘体験をして、その瞬間実際に神様のようなものが見えて何かのお告げを聞いた、その時心は至福を感じ、これまでの人生で味わったことのないような恍惚感を感じた、という事が起こったとしましょう。

その「起こったこと」、「感じた感想」は、本物です。感じた感情や感覚、そして自分の中で起こった体験や思考は、ひとつの本物ではあります。

しかし、その本物をもって、他の教義と結びつけることはできないのです。

なぜなら他の方法でもそれと同じようなことを起こすことは可能だからです。

違法薬物を摂取して頭がバグっている人と同じようなことを言っているということは、すぐに分かりそうなものですがいかがでしょうか?

目に見えたからといって、それが客観的に実在している証拠にはなりません。睡眠中の夢の中の登場人物を「見た」からと言って「実在している」とは言えないのと同じです。声を聞いたからと言って、夢の中で聞いたセリフと同じなのです。

自分の内側で起こったことではなく、「本当に神からお告げが来た」とどうやって証明するのでしょうか?

それは証明することができません。

確かにそうした瞑想のようなもので「神秘体験ができる」ということは真理(笑)ということになるでしょう。

で、そうした体験はただそれだけであって、それ以外は関係ないのです。

そうした至高体験と、何かの主義や思想を結びつけている感じがまさに「カルト」という感じです。

また、我を手放すということで考えた場合、単なる「我を手放す」という構造を超えて「阿弥陀如来は実在する」と思うことも同じです。そんなものは単に妄想した観念でしか無いのです。観念としての存在であればブラックジャックでもドラえもんでも成り立ちます。

「神に祈りを捧げたら気持ちが楽になったでしょう。それはあなたの信仰に対して神が愛で答えてくれている証拠です」

と言った感じで、その感情や感覚を根拠に何かと結びつけようとします。

「我を手放す」という情報状態の変化・心の状態と「妄想の観念」をくっつけて考えているということで関連思考です。

そしてその実践として「儀式にお金を払わなければならない」などと言うふうに結びつけていくことは、何重にも論理的なつながりのない関連思考であり、ひとつの狂気という感じになるでしょう。

「真理」とは呼べないもの

そうした感じで、何かの観念を持つこと、何かの行動を取ることによる効用そのもの、その時の感覚や感情は確かに本物ではありますが、それをどう解釈し、解説し、取り扱っていくかというところに宗教の狂気があります。

「〇〇をしなければ地獄に落ちる」

というようなことを真理だという人がいるとしましょう。

そうした状況で「地獄に落ちてしまう」と恐怖心に駆られていることは現在の状態としての事実ということになります。

そして同時に

「〇〇を実践していれば天国に行ける」

というようなことを信仰によって思い込んでいるとしましょう。その状態も事実といえば事実です。

しかしその事実をもって真理ということにはなりません。

ただ、誰かから聞いたり、何かを読んだりして「もしかしてそうなのかもしれない…」と思っているという感じです。そうして思っていることは事実です。しかし、考えていることが「揺るぎない理」であるかどうかについての根拠や論証は必ず不足しているはずです。

その場の感情は事実ですが、その感情と理は関係がありません。

「〇〇を実践していれば気が楽だ」

ということは法則として成り立っていますが、穴を掘って埋めているだけの構造になっているに過ぎないのです。

そうした感情を得れることは一種の真理(笑)ということになりますが、それは単に「気が紛れている」という構造の領域からは脱していないのです。そして同じような構造を持った「他の人が説く真理のようなもの」でも同じような感情が得れたりするとすれば、その教義自体が真理であるということにはなりません。エッセンスはどこか混じっている可能性がありますが、それそのものが真理だということにはできないはずです。

そしてここで、面白い構造が見えてきます。

「『今』しかない」というのは、少し集中すれば誰にでもすぐわかるはずです。過去も未来も「今、頭で思い描いていること」であることは、誰にでも実感可能なはずです。ということで、これは一つの真理ということになります。

ということは、そんな天国も地獄も、一応未来についてのことなので今起こっていることではありません。

「死苦」死ぬ苦しみ

ということでそうしたものは、今頭の中で起こっている想像であり、「恐怖心」が作り出しているものであるということになります。

そして、恐怖心があるということは苦しいということです。恐怖心に苛まれた時に苦しいということは、すぐに実感が可能だと思います。ということでこれも真理です。

「今しかない中、今恐怖心が起こっていて、今苦しいという状態にあり、苦しみを感じている」ということになります。

妄想により束の間の安心を得る

で、確認もできないことを妄想して、自分で認定した法則の上で勝手に安心したり恐怖を感じたりして苦しんでいるということになります。毎日何かを唱えている人もいれば、時に火を炊いて呪文を唱えるということをしている人もいます。

発端は生存本能的な恐怖心です。そして、妄想を加えて意識の上で束の間の安心を得ているという感じです。

明日のテストが不安な小学生がいるとしましょう。

そんな小学生に「目を閉じてみましょう。そこにドラえもんがいますね。それではドラえもんと一緒に楽しい旅に出ましょう」というような感じで催眠をかけているのと同じです。

「タイムマシンに乗って恐竜時代を冒険しましょう。

じゃあさっそくティラノサウルスの背中に乗ってみましょう。

おおお、すごく揺れました。

でも、楽しかったですね。

それでは学校に行ってみましょう。明日のテストが心配ですね。それではドラえもんに相談してみましょう。

『暗記パン』

暗記パンを出してくれました。このパンを使うと教科書の内容が全て頭に入ります。君はドラえもんから暗記パンをもらって教科書の内容を全部覚えてしまいました。もう心配はいりませんね。

それでも明日には忘れているかもしれないって?

大丈夫。その時はドラえもんにお願いしてもう一度暗記パンをもらいましょう。もう心配はないですね。

さあそのままぐっすりおやすみなさい」

というようなこととやっていることはあまり変わりありません。

「ドラえもんのおかげで心配はなくなったんだ。それで本当に眠りにつくことができたんだ。だからドラえもんはいるんだ!」

という感じです。

大前提に返って考えると「苦しいのから脱するために何かしらをやってたんじゃないの?」ということになります。

今しかないのだから、天国とか地獄といった確認もできない未来のことではなくて、「今以降いつでも苦しみから脱したい」ということに意識は向かないのが不思議です。

ということで、あまり意味のわからないものは「メタファーが織り込まれたフィクション」くらいに思っておくと、狂人が「真理」と説く「真理とは呼べないもの」に振り回されることが無くなります。

信念の書き換えと未来についての不完全な論理構造

「真理とは呼べないもの」は、いくら主張されようがどうあがいても真理ではない

ということで「真理とは呼べないもの」を真理だと主張する人たちもいますが、特に害がなければ放って置いても良いのではないでしょうか?

「真理とは呼べないもの」は、いくら主張されようがどうあがいても真理ではないということになりますし、逆に真理であるのならば、誰が何をどう主張しても真理であることは揺らぎません。

勝手に妄想している人たちについては、勝手に妄想してくれていても構わないわけです。

なぜならそんな人達を「説得せねばならない」とか「導かなければならない」とか「救わなければならない」というような条件付け自体が、この心にとっての苦しみだからです。

その人達の状態によって自分の状態が左右されてしまうのであれば、「この心」は他に依存することになります。

だから別に何が何でも説得せねばならないというようなことはありませんし、語ってはいけないということでもありません。

また、説得できたからと言って真理というわけでもなければ、説得できなかったからと言って真理ではないということにもなりません。そんなもので変わるような理は真理ではないのです。

「揺らぐことのない理」は、誰にでもすぐに理解できることであり実感可能であるはずですが、人によって感情に苛まれ、そうであると理解はしていても外面的に「何としてでも認めない」という感じの態度を取ることもあります。

また、言語的な領域における「単語に持つイメージによる齟齬」や極論的には知能レベルによって伝わらないということもありえます。だからその人の反応など、どうでもいいといえばどうでもいいのです。

そういうわけで、真理とは呼べないようなシロモノについてアンチになる必要もありませんし、ただ納得できるようなこと、つまり「議論の余地無く当たり前のこと」だけを頼りにこの心を安穏に導けば良いということになります。

真理とは何か?

Category:philosophy 哲学

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