生贄の狡猾

身を捧げたある人から欺かれようと思い、そうであってほしいとわれわれが望む通りの姿をわれわれに見せざるを得ないような機会を彼に与えるのは、悲しい狡猾というものである。 曙光 420

犯罪者や自殺者などは、現代における生贄のようなフシがあります。

ある人が見栄のため欲のためにしたことが誰かを傷つけ、その傷ついた誰かは怒りのためにまた誰かを傷つけ、そうしているうちにある人は理性の限界を超え、犯罪や自殺というようなことにたどり着くのだと思っています。

Mr.脳筋こと孔子は、倒れている人を見た時に「これは政治が悪いなぁ」といって放置するような人だったようですが、彼の脳筋具合はさておき、彼の言いたいこともあながち無視することはできないということも一応思っています。

なぜだかわかりませんが、年間の自殺者数などは毎年ほとんど同じような人数です。犯罪に至っても、その種類を含めて年々形は変えつつも、おそらくそれほど数としては変わっていないのではないでしょうか?

普通に考えれば、個々人は異なる人格を持った人間であるはずなのに、そうした自殺者の数は毎年横ばいという感じになっています。ある年はやたらと多く、その分数年は0に近い位の数になってもおかしくないはずですが、どうもそうではないようです。

ある確率論に基づいたように、数字が合います。ということでMr.脳筋の言う「政治が悪い」というのは、若干ずれているのかもしれませんが、どこか社会全体という枠組みの中で、恒常性維持機能のようなものが一定の確率を作っているように見えます。

社会全体の恒常性維持機能

そういう感じのことを十代の時から何となく考えていました。

なぜなら、僕が十代の頃は携帯電話・インターネットの普及や「フリーター」という言葉が生まれ働き方などが変わったりしており、社会の仕組みがそれまでとは大きく異なってきて、「時代が大きく変わっていった」という感覚がありつつも、「自殺者数はほとんど横ばいだ」とどこかで聞いたからです。

犯罪に関しても、僕達の前後は「キレる17歳」と言われた世代で、やたらと犯罪率が高いというような社会の風潮がありつつも、高校の先生から「ゆとり教育を進めるための情報コントロールで、本当は数はそんなに変わっていない」ということを聞いたからです。

その後、いろいろな本を読んで何となく知ったのですが、江戸時代やそれ以前の日本では、武士などの階級を除き殺人事件と言うものはめったに起こらない世の中だったようです。また武士の間でも、基本は「負けないこと」であり、相手に酒を飲ませて仲良くなって帰らせたりということも、当然の武士道としてあったようです。

そんな感じで、社会全体の平均的なというか集合的な意識状態が恒常性維持機能を持っており、物理的な要因はさておき、基準となるような数値に向かうように、人の行動を調整しているようにしか思えません。

確率とボウリングのスコア

さて、確率論ですが、昔、一円玉を100回投げて表裏の数を紙に書いて実験する、ということをしたことがあります。20歳位の時でしょうか。

すると、表49対裏51というふうに、約50%でした。

表面の模様や手垢や傷などで、多少の確率の変動あるでしょうが、一応50%対50%っぽい結果になりました。回数をもっと増やすと理論上の確率に近づいていくという感じのことを身をもって体験したかったという感じです。

でもその時は「おお!」などとは思いながらなんとなく恐い感じがしました。

そうした確率が本当に当てはまっていくのならば抗いようがないと言うようなことを思ったからです。

まあそういうわけでカジノに通うようなプロギャンブラーはルーレットをやらないということを聞いたことがあります。数%の確率でカジノ側が賭け分を貰っている場所があり、確率論的には二色の50%ではなく、40%台になるので、数回なら勝ち負けは不確定ですが、「長年その勝負を繰り返していくうちに確実に損をする方向に収束するから」ということのようです。

と、これは、物理という空間に全てがかかっている世界での話です。

でも社会は物理の他に人の意識というものが大きな構成要素としてあります。

で、先日ボウリングに行きました。

僕は昔からボウリングが上手くはないのですが、小学生の時から上手くない割に不思議に思っていたことがあります。

それは、たいていボウリングは1ゲームで終わりではなく、2ゲームや3ゲームなど、数ゲーム遊びます。

例えば、3ゲーム遊んだとすれば、あまり上手くない人でも、スペアやストライクという回もたまにあるはずです。

で、そうした好成績のスコアだけを1ゲームに集めればすごいスコアになるはずですが、どの回もだいたい同じようなスコアに落ち着くという変な感じを思ったことのある人はいないでしょうか?

3ゲーム中ストライクが12回あったなら、それを集めて1ゲーム分は満点として、あとの2ゲームは100以下のボロボロでも構わないという感じです。

一応たまにストライクが出るということは、ストライクを出すだけの能力自体はあるはずです。

でも現実はそんなふうにはいきません。

おそらく無意識で、「自分の実力の限界」という基準をもっていて、それに合わせていくのだと思います。特に調子が良いときほどそれは顕著で、頭が「何だかおかしい、これはイレギュラーだ、イレギュラーはリスクだ」という感じに合わせていくでしょう。

「前のスコアの時は安全だったから、変にイレギュラーなことはやめておこう。何が起こるかわからない」

という感じで無意識に調整しているようにしか思えません。

ということで、先日ボウリングに行った時に、そうした意識の調整を行ってみました。

ボウリングが流行っていた時代に若者だった世代の上手い人からすれば大したことはないかもしれませんが、普段110くらいしかスコアが出ないのに、その時は179というスコアを出しました。ストライクが5回連続で起こったのです。それまでの人生最高スコアは33年間を通して132です。ということで大幅にスコアが伸びました。

その時にしていたことはすごく単純です。「弓と禅」に出てくるような状態になっただけでした。

で、実はその時はボウリング場はガラガラで、ほぼ静寂でしたが、2ゲーム目になると人が多くなり、隣のレーンの音や人の会話が少し耳に入ってきました。

ということでスコアはまた落ちました。

だから自分は深夜や早朝が好きなんだなぁと実感しました。

人の意識状態と確率

と、ただの僕のボウリングスコア成長記録のような感じになりましたが、話を元に戻します。

コインの裏表などは、物理的な法則くらいしか働かないので確率通りになりますが、人が起こす行動に限っては人の意識状態がその確率を変動させるという感じのことがボウリングでよくよくわかった感じです。

それで、人が集合した社会の中にも社会の全体的な意識状態が何となくあるはずです。不景気の報道を受けて全体的には不景気な意識状態になっていたりという感じのこともありますが、基礎的な意識状態は平均してどのような感じで、平均すればどれくらいの感受性でどれくらいの影響を受けつつ、ということが何となくあるような感じがします。

そしてそれは、意識という情報の状態なので変えていくことはできるはずです。でないと、江戸時代や平安時代と比べて、現代のように変わった事自体が否定されてしまうはずだからです。

さらにそれら意識状態による確率や確率の結果については、日和見的な動きというものがその実際のあり方を決定づけています(確率に潜む日和見)。

近視眼的な盲点

人の動きを見ると、その行動の動機、考え方が盲点となっていることがあります。

それは、今の現状の自分の考え方の上で考えた最良とも思える願望のようなものに執着するあまり、それ以上の最良が見えなくなるというものです。

例えば、彼女ができないので、その要因のひとつとして自分が考えているニキビについて執着を始める時があります。

「ニキビを治したい」というところに近視眼的になればなるほど、「ニキビを治す方法」というものしか見ないようになります。

で、今できているニキビをなんとかしたいということで、それに対して物理的に働きかけようとしかしなくなったりします。

で、塗り薬か何かはわかりませんが、そうしたものしか解決策はないと思うようになり、その薬を手に入れることしか頭になくなります。

しかしながら客観的に俯瞰して見れば、ニキビに関して言えば睡眠改善などによる内臓の動きの改善などのほうが根本的であり、意識的なストレスを軽減させて毛穴が閉じるのを防ぎ、アクネ菌にきちんと酸素を与えて、炎症反応を起こさせないということも見えてくるのです。

もっと言えば、彼女ができないのとニキビは関係がありません。

個人の意識レベル

本質を追えば追うほど、現実的な物理や経済は関係が無くなるはずですが、それでは経済社会では問題があるということなのか、人を近視眼的な考え方に誘導して、物を売りつけたり、奴隷のように働かせようとする風潮があります。

しかし各個人の集合体が社会であるならば、個々人が近視眼的・具体的な視野から俯瞰的・抽象的な視野にシフトすることで、社会全体の確率は変動していくと考えることができます。

だから「すべての人」という感じで社会全体の改善をしていこうと思う時は、ニキビの例でいう「ニキビ薬の開発」よりも、意識状態をまともにしていくという一見抽象的で宙に浮いたようなやり方のほうが圧倒的に良いという感じになります。

社会は人と人との関連性をラベリングしたような概念です。

ということは人と人が関係性を持つからこそ社会であり、関係性を持ったお互いはお互いに影響を与えるのがアタリマエということになりましょう。

仮に自分を殺しに来た人がいたとして、その人はなぜ自分を殺しに来たのでしょうか?

相手を単なる敵とし、自分には都合の悪い相手として力で争おうとする前に、そうした状態にある相手の意識の状態を見切り、本当の動機を見切りつつ相手を安穏へと導いてこそ、社会全体のためにもなるはずです。

数々の人に虐げられ、「人間」を恨み、その感情に耐えられない人物が、「だれでもいいから殺したい」という意識状態にあり、その場面でたまたま目の前に居合わせたのが自分だということだけかもしれません。

もしそうであるならば、相手を敵として殺し合うようなことを選択しなくても、相手を包み込むことも可能なはずです。

その人が悪いというのは勝手ですが、その人がそのような意識状態になってしまった要因は「その人以外」にあります。

だから、その人は被害者でもあるのです。

それがわかったら、むやみに敵対することもなく、また、そういう人を作ってしまうような、自己の優越感のための虐げなどを自分がしなければいいだけです。

もし社会全体がそのような意識状態になれば、この世から無駄な悲しみはなくなっていくでしょう。

生贄の狡猾 曙光 420

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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