「生苦」生きる苦しみ

生苦(しょうく)という「生きる苦しみ」についてでも触れていきます。四苦八苦のうちの四苦「生老病死」の最初の苦しみがこの生苦です。生苦とは、生きる苦しみのことを意味しますが、基本的には「生存本能にただやらされているだけ」というのが「生苦」・「生きる苦しみ」です。

これから「四苦八苦シリーズ」としてあらゆる苦しみについて、四苦八苦の全てに中心にして一度ずつは触れておきつつ、全てが揃ったらまとめようと思います。ということで第一弾は生きる苦しみ「生苦」です。

一切行苦(一切皆苦)の時に少しだけ触れましたが、内容的に少しだったので、まずはこの生苦からもう少し詳しく哲学的に考えていきます。

「生きることは苦しみである」というフレーズ自体は、四苦八苦のすべてを通じて理解することができるような抽象的な概念になります。生苦も「生きることは苦しみである」というものにはなりますが「生は苦である」とか「生きるいるからこそ苦しみが生ずる」というもののうち、特に生命活動としての生きる苦しみを中心として取り扱っていきます。

生苦の「苦」

「苦」の持つ意味については一切行苦でさんざん書いたので、概要だけの再掲にしておきますが、ここで言う「苦」は日常の苦しみとは少しニュアンスが異なり、不完全、不満足、「思い通りにならない」という感じのことを指します。苦痛を含め、もちろん苦しく感じることは全て「苦」の範疇ですが、基本は「やっているようでやらされている。そして、それは思い通りにならない」といった「心で受け取る苦しみ」のことを意味します。

ということで生苦とは「生きるためにやらされている事による苦しみ」という感じです。もちろん生まれてきたことそのものが苦しみだというような側面もあります。

生きること自体の目的が何なのかはわからない上に、仮に目的があろうがなぜそんなものに強制的に付き合わさせられているのか、というような面も見逃すことはできません。

ただ、生まれたからには「生きる」という方向性から逸れるものに対しては苦痛が与えられるようになっています。単純には生存本能です。

「環境が体にとって都合が悪い」ということであれば、身体的な苦痛を与えてきます。暑ければ暑い、寒ければ寒いといった感じです。

生きるためにやらされ続ける毎日

食べる必要がなければ食べ物を探す必要もありません。そんな中「生きるために食べろ」ということで、ずっと食べずにいれば体は空腹の苦痛を与えてきます。

息をしなければすぐに苦しさを与えてきます。呼吸すらずっと止めることを許されないという感じです。

喉が渇かなければ水分を取る必要はありません。水分を取るために行動を取る必要もありません。

「なぜ生きるのか?」

ということがはっきり示されないまま、生命維持に必要なことをやらないと即座に苦痛を与えてきます。

一方、体的に都合の良いことであれば報酬を与えてきます。

栄養価が高いというような感じで美味しいものを食べれば、気分まで嬉しい気分になるというような形でです。

その割にうまいものばかり食べていると、急に腹が壊れることがあります。

普段は苦痛を与える割に、体にいいもの判定、悪いもの判定、何かが足りない判定、摂りすぎ判定を正確に下すことはあまりしてくれません。「気分的に嬉しい」を指針として、栄養を摂ったのに、腹の激痛で仕返しをしてくるという感じです。

自分の都合など聞いてはくれません。あくまで体は言語を使わず苦痛などを利用して命令ばかりしてきます。

今日本においては飽食の時代ですが、物資が少なかった頃など自分ではどうしようもないような時であっても空腹の苦痛を与え、低品質のものしか手に入らない状況であって、それを仕方なく食べたりすれば、時に腹痛を起こしたりもしてくるという感じです。

「生きることは素晴らしい」

という感想を持つのはいいですが、生きるために常に何かを求められ、やらされているという構造は、常に同時に満足のすぐ後に不満足の状態になるという構造をも持っているということになります。

いつまで経っても満たされることはなく、生きている限り不満足や欲はつきまとい、同時に苦痛や怒りなどがどこまでも追いかけてくるということにもなります。

この体は、「心地よさ」と「苦痛」というコントラストをもって、何かの行動を促し、何かの行動を制限してきます。

ただ静かにいることすら許されず、体の都合、生命維持の都合のために毎日毎日奴隷のように何かをやらされ続けてしまうという感じになります。

毎度は思い通りにはならない日々の行動

その上、体からの苦痛を避けるために、または体が提案してきた心地よさのためにせっせと行動を起こしても、そこには不確定要素があります。毎度毎度思い通りになるわけではない、というような側面すら持っています。

喉が渇いて水を飲み行くという行動一つとっても、転んで怪我をして痛みが生じるとか、コップを落としてガラスの破片が飛び散って怪我をして痛みを感じた上に掃除までしなければまた怪我をする危険性があるとかそうした可能性が少なからずあるという感じです。

さらによくよく考えてみると、毎日思い通りになったところで、単なる流れ作業、単純作業になります。

「それをこなしたところで一体何なるのか?」

という感じがしてしまいます。

家族を含め社会に求められることをこなしたところで、生活を守ったところで、「で?」という感じがしてこないでしょうか。

「思い描いた社会的成功」が実現したところで、「で?何ですか?」という感じになってしまいます。

社会的な評価をもらったり、自分で好きなことを実現したという満足のようなものは「報酬」として心地よく感じるかもしれませんが、「それがどうしたんだ?」と深く考えれば、「これは何だったんだろう?」と思ってしまうはずです。

もちろん合間合間では想定外のことが起こったりもします。嫌な感情が起こることもあるでしょう。途中様々なところで「思い通りにはならない」という苦痛が起こるということになります。

その上で何かを達成したところで、「で?」という感想を持ったりはしないでしょうか。

人との比較の上での価値のようなものではなく、自分自身のこととして「それで?」という感じがしてこないでしょうか?

まず、「なぜそれを達成したいと思ったのか?」というところからが不明です。

といっても、もちろんその間で見えた様々な景色は映画を観るようで楽しかったかもしれません。

しかしながら、それが「満足」を求めてやったことなのであれば、確実に「不満足」を発端として「やらされたこと」になります。

一切行苦からみる生苦

一切行苦は「一切の形成されたものは苦しみである」という感じですが、その形成されたものには動機や感情すらも含まれており、客観的な物理現象である物に限定されるようなものではなく、虚像たる「我」の内側も含める必要があります。

例えば「宇宙」と言うと銀河系とかそうした宇宙を想起してしまいますが、今のこの目の前も宇宙であることには変わりありません。それと同じように「形成されたもの」は自分が認識する外界の現象だけではないという感じで捉えておきましょう。

そこで、ここでは、根本的に「なぜ形成されてしまうのか?」というところについてもう少し深く考えてみましょう。

形成されたものは、もちろん形成されたからそこに状態として成り立っているという感じになります。それが実体や実在として「ある」ということではありませんが、そのように心が受け取るというような感じで情報の状態としては今そうあるという感じになります。

そして、自我の視点においてその形成には、何かに触れることやそれが何かを統合して把握すること、記憶を引っ張ってきて判断することといった素因が必要になります。

そういうわけで、素因が無くなれば、形成されません。しかし、いくらまぶたを閉じたところで瞼の裏側を見ることになってしまいます。

「この目さえ光を知らなければ見なくていいものがあったよ」

という感じですが、このあたりは五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦)でまた詳しく触れることにしてここでは割愛します。

生きるエネルギーと生存本能

さて、生きるエネルギーとは、端的に欲や怒りなどであり、またトートロジー的になりますが「生存本能」です。そして生きるエネルギーがあるからこそ欲があり怒りがあるという感じにもなります。心底「以降の変化のない満足」をすれば、欲や怒りは無くなります。しかしながらどうあがいても全ては変化を避けることはできません。

「生きたい」という生きるエネルギーは、一般的には良いものとして扱われたりもしていますが、それがあるからこそ生苦が生まれ、欲や怒りといった煩悩に苛まれることにもなるという感じになります。

「死にたい」は生きるエネルギーの逆噴射

かといって「生きたい」ということの逆である「死にたい」であれば済むのかと言われればそれでは済みません。そうした二元論で短絡的に答えが出せるような感じではありません。

あくまで「死にたい」などと言っていても、それは怒りを発端としており(なお、悲しみも一種の怒りです)、「現状が嫌だ」という一種の生きるエネルギーが逆噴射しただけような現象だからです。

「絶望した」ということを理由にしようが、それはあくまで分離を前提とし、外側に「期待」を寄せていて、それが叶わないと思考が判断し、不快な感情が起こっていることに起因しており、生きたいというエネルギーが「無くなった」のではなく、生きたいというエネルギーが逆向きに作用しているという感じになります。

なぜなら、それが死にたいということであっても、すべての行動にはエネルギーが必要であり、エネルギーが無くなったのなら行動すら取らないはずだからです。欲か怒り(根本は同じです)がないと動機すら生まれません。そして欲や怒りは生存本能がその正体です。

仮に今すぐ全てが期待通りに行ったとすれば、そんな感情もなくなり、そんな思考も沈下するというのが何よりもの証拠という感じです。

生存本能と同化した視点

ただしそうした生存本能と同化した視点で観るか、対岸からその様子を観察するかによって、内側で囚われるかどうかが変わってきます。

よくよく観察してみると、この体、この体が与える生存本能からの衝動・不足感は、他の誰でもない自分の体からのものではありますが、一方でこの体は自分が作り出したものでもありません。

いわば体も生存本能も、他人事といえば他人事なのです。

もちろん直接的に体から心地よさや不快な感覚を与えられたりはしますが、そうしたものを与えてくるのはある意味自分ではないのです。

生きている事自体が苦しみの原因とはなりますが、苦しみが苦しみであることになるためには、因が縁の上で形成される必要があります。となれば、どこかしらで成り立たなくなれば、それは形成が完了せず、結果も現れなくなります。

「ただやらされているだけ」の
生きる苦しみ

しかし、のどが渇いたり空腹が訪れるということは体的には避けられないという感じになり、そこには苦しみがあります。水分を取ることで喉の渇きが潤ったというような感じで、それを叶えたところで束の間の満足、そして、時にそれが思った通りには叶わないということも起こります。そして生きている限りそれから逃れることはできません。

そこには基本的に不満足しか無く、諸行無常ゆえに満足してもまた不満足になるという構造しかありません。

見渡す限り「ただやらされているだけ」という感じです。

生存本能が命令するまま、苦痛を基本として何かの行動を促してきながら、その行動を取ったところで束の間の満足しか与えず、またすぐに不足を提示してくるという構造です。

それが生苦、生きる苦しみということになりましょう。

体の側面から考えるとわかりやすいですが、そのレベルを超えて生存欲求が様々な形に変化し、不満足を与えてきて振り回されたりもします。

それが叶ったところで、「で?」となるにもかかわらずです。

まだまだ派生して考えられるような分野になりますが、四苦八苦の他の苦の方がより深く考えられるような感じなので、生苦についてはひとまずこれくらいにしておきましょう。

四苦八苦 あらゆる苦しみ

一切行苦

Category:philosophy 哲学

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