生き方を全肯定されてきた雑な人がクビになる日

「生き方を全肯定されてきた雑な人がクビになる日」ということで、友人の勤め先でクビになりかけている新入社員の人を中心に社長が従業員をクビにするという決断について少しばかり触れていこうと思います。

端的には、「弱者に優しく」という風潮に保護されすぎて、給与をもらいながら「私が教えてあげますよ」と自信たっぷりな「生き方を全肯定されてきた雑な人」が、様々な責任を負う繊細な人々、そしてそうした人達が試行錯誤の上に築き上げてきた領域に対し、その雑さによって土足で踏み込んでいく様とそうした侵食に対して働く浄化作用であるクビという現象について触れていこうと思います。

生き方を全肯定されてきた雑な人達

先日友人が、彼の勤め先の会社の新入社員がクビになりかけているという感じの話を聞かせてくれました。

どうやらリフォーム等の部署に配属された専門卒の女性社員のようですが、社長に「今の時代はこれですよ」とか「そんなセンスじゃ生き残れませんよ」などと、学校で習いたての最近風のデザインを押し付けてくるような感じがそのきっかけのようでした。

友人に「その人高校は女子校やろ?」と聞くと、

「なんでわかったん?」

という感じになりました。

しかしながら経験則上、社長相手にそうしたことをガンガン言ってくる人は、「何を言っても殴られない前提」で生き方を全肯定されてきた雑な人であり、概ね高校は女子高校卒と相場は決まっています。

ちなみに女子高校卒であるとそうであるとわけではないのですが、「驚くほど雑」という頂点を極めるためには、「自分は女だから何を言っても殴られない」とか「助平心から寛容が起こりやすい」とか「社会の大部分において『どうせ結婚や子育ての方に意識が向くんだから』と、それほど厳しく求められない」、という前提が大きく影響与えるため、「多分そうなのだろう」と思って確認してみると当たりだったという程度です。

「何を言っても殴られない」という前提

こうした生き方を全肯定されて育ちつつ、さらなる社会の承認と正しさの確認を求める感じは、男女問わずという感じですが、やはりキーポイントとなるのは、「何を言っても殴られない前提」で全肯定されてきたという部分になるでしょう。

要領が悪くても、特に怒鳴られること無くという感じです。これには社会的な背景が影響を与えていると考えられます。

例えば、直近で言えばあおり運転が厳罰化されていますが、後ろから詰められるようなノロノロしたどんくさい動きをしながら道を譲らない雑な人は問題視されていないというような構造があります。

そうしたものを筆頭に、怒って恐怖を与える人は悪いが、その原因を作る人は一切の責任がないというような、過剰な弱者保護のような流れがあります。

それにより、「卑屈さ」や消極性は無くなったかもしれませんが、「雑さ」は加速しています。

近視眼的な「自己実現」ばかりに着目し、相手の状況や全体的な構造などお構いなしというような雑さがどんどんと蔓延してきているような気がします。

給与をもらいながら持つ「私が教えてあげますよ」という傲り

近視眼的な「自己実現」が最大の目的というのはいいですが、相手にも相手の「自己実現」があることを忘れてはなりません。

そして「好きなことをやろう」というのはいいですが、資金面を含めたくさんの責任を負っているのは会社側だということを忘れてはなりません。

給与をもらいながら「私が教えてあげますよ」という傲りを持たれたところで、売上やトラブル回避等々を含めた責任の大部分は会社が負っており、個人レベルでは会社役員が一番その責任を負っているわけです。

「今の時代はこれですよ」というのはいいですが、ではそれに合わせて売上が低下した時に責任を取るのは誰でしょうか。

金融機関から借り入れをしたりしながら、給与という一種の債務を負い、賃料も払い、ハズレるかもしれない「今の時代はこれですよ」の広告費を払ったりするのは誰でしょうか。

そしてハズレたときに残るマイナスは誰が責任を持つのでしょうか。

土下座をしてもマイナスが消えるわけではありません。

そんなレベルの責任ではないのです。

相手の自尊心の獲得行為にお金を払うという苦行

学校で習ってレベルが上がったと自負する「自分」をさらに肯定するために、社会人を屈服させてやろうというような感じは新入社員等々でありがちですが、それでもある程度の感性があれば「生兵法で挑むとボコボコにされるかもしれない」という想定くらいはできます。

しかし生き方を全肯定されて育ち「何を言っても殴られない」という前提を持つ人としては、そんな想定すらありません。

そしてそんな想定ができないからこそ、自分のこと以外が見えず、全体像や相手の状況の理解ができないのです。

社長さんたちは、そんな雑さを持つ人の自尊心の獲得行為にお金を払うという苦行をしていたりするわけです。

全体像や相手の状況の理解ができない

先の友人の勤め先の会社のお話に戻りましょう。

結局新入社員の人としては「今の時代はこれですよ」と、当たり障りのない、車でいうところのファミリーカーのようなものを全面に押し出し、「ニーズに合わせないと生き残れないですよ」ということを社長さんに主張しているようでした。

しかしながらその会社では、どちらかというと車でいう改造車レベルの多少奇抜なデザインを主としているという感じのようでした。そしてその企業は、それほど大きな会社ではありません。

というところから、カンのいい方であればすぐに気づかれるように、これはランチェスター戦略から捉えると構造がすぐにわかります。社長さんは会社の規模からランチェスター第一法則を採用し、新入社員の人の主張は、ランチェスター第二法則から導けるように大企業が採用するようなやり方であるという感じになります。

というところを踏まえて考えると、単に「デザインのセンス」だけでは語れないところから、社長さんは方針を決めているわけです。

全体像を把握した上で検討する視点がない

ということが見えないまま、「今の主流はこれですよ」というような主張をしているという感じになるので、それは端的に「全体像を把握した上で検討する視点がない」ということになります。

そんな中、「最近の流行を全然知らないんだから、もう!」というような感じになっているわけです。

そしてそんな「今の時代はこれですよ」という自分の主張を理解しない相手を異常であると思ったりもしているわけです。

その根底には全肯定されてきたということから、自己実現のみしか見えず、前提となる様々な観念すら無いため、相手の状況が理解ができないというものがあり、また、理解ができないゆえに反省する動機が生まれないという感じになっています。

「いいものを作りたいので」に見える費用に関する意識のなさ

さて、そうした中、当の社長さんはなんだかんだでチャンスを与えようと、一件の案件をその人に任せてみたそうです。

すると「いいものを作りたい」という言葉とともに、他の案件の数倍の時間をかけつつ、結局決まらず終いで他の人にバトンタッチという感じになってしまったようでした。

詳しく聞くと、例えば50個の選択肢があるようなことを、お客の側に「どれがいいですか?」と意志決定を丸投げしていたようです。

それは単にお客の側に選択のストレスを与えているだけであり、「今の時代はこれですよ」などと豪語していた割に、絞り込みの提案すらしないということは、一切本人の感性が絡んでいないという論理矛盾が生じる結果になっているということになります。

「そんなことをしていたら終わらないよ」

と指導されたそうですが、

「いいものを作りたいので」

と返したりしていたそうです。

そして想像にたやすく、その間賃金は発生しています。

つまり人にお金を払わせて「自己実現」をしようとしているわけです。

単純な事実ですが、専門学校時代はお金を払っていますが、勤めているということはお金をもらっているということになります。

その子の成長を、自己実現を、ということで保護者の方々は、費用も負担しながら、全てを肯定してくれていたのかもしれませんが、会社としてはそうした甘いことをしている余裕はありません。

責任を負う社長さんとしてもそんな余裕もありませんし、他にも働いている人がいます。その分のツケをその他従業員に払わせるわけにはいかないのです。

そしてそれは間接的にお客が払ってくれるの料金にも絡んできます。

つまり、その新入社員の自己実現のために、様々な人が負担を強いられるということになるという構造が必然的にあるわけです。

クビにするしかなくなる

という感じで、社長さんご自身の都合だけではない少し広い社会性から考えると、「クビにするしかなくなる」という感じになってきます。

「そんな人も認めてあげよう」とすることは、その他の従業員さんに負担を強いることになりかねないからです。そうなると、その人を認めつつ、その他の人達を蔑ろにするということになります。

ということで社長の責任として「クビにする」ということが迫られてくるわけです。

それは時に恨みを買います。

そんな精神的負担を抱えつつも、「否定された!」と嘆かれ、軽薄な人というレッテルを貼られる可能性を持つという感じになっています。

しかし社長なので致し方ありません。社長でなくともある程度の権限を与えられているのであれば、「悪者になりたくない」などと甘いことは言っていられないのです。

気づきのための必要な痛み

その手の全肯定されてきた系の雑な人に対しては、クビにするとまではいかなくとも、ある程度指導が必要になります。

その時に相手には「否定」という痛みが走るでしょう。

しかしその痛みは気づきのための必要な痛みであると思っています。

しかしながら、近年では、そうしたことまでも「傷つけるのはやめよう」とか「消極的な人になってしまう」などと、やたらと保護しようという論調が多かったりします。

ただ、企業経営はそんなに甘いものではありません。企業の周りにはたくさんの人がいます。そんな全肯定されてきた雑な人の「自己実現欲求」のために、誰かがケツを拭き、その結果、誰かが何かを犠牲にするというのは歪んでいます。

「今の時代はこれですよ」と語られている間、「いいものを作りたいんで」と、お客を振り回している間、自分の財布からお金が抜かれていると想像してみるとわかりやすいかもしれません。

そして、「財布の中身が無くなったから、みんな少しずつお金を分けてくれ」と他の従業員に言わざるを得ないとすれば、どんな気分がするでしょうか。

単純には「自己実現したければ自分のフンドシでやれ」という構造があるわけなので、どんどんクビにすればいいのです。

仮に「否定された!」と泣いて出社拒否するなら、そのまま退職してもらえばいいですし、わざわざ相手にする必要はありません。

それは一種の自然淘汰であり、浄化作用という感じになっています。

「じゃあもう辞めます」

と言われたら

「どうぞ!」

という感じで手を振るくらいでちょうど良いと思っています。


雇い主が持つ「財布からお金が抜かれていく感覚」や、他人が用意した舞台、資本にぶら下がりながら「自分の都合」を押し付けるのもほどほどに、という点について。

大黒柱の醍醐味

「従業員をクビにする」という局面での気づきとして、「仕事中に遊んでいる間にも財布からお金を抜き取られている」という事実の発見と「不合理な自分流のやり方を押し付けてくる時」について。

土壇場の泥仕合

世の中には多種多様な人がいます。なので、想定外のレベルで「雑な人の驚くほど雑な行動」を垣間見ることがあります。雑な人は、「繊細な人としては理解不能レベル」の「驚くほど雑な行動」をすることがよくあります。

雑な人の驚くほど雑な行動

「雑」の極みとしての発想について

「雑」の極みとしての発想

Category:company management & business 会社経営と商い

「生き方を全肯定されてきた雑な人がクビになる日」への2件のフィードバック

  1. 記事を読まさせていただきました。正直目を塞ぎたくなるような内容でした。

    就活のために、大学に入って学生組織や部活、ボランティアなど[学チカ]と言われる既成事実をたくさん作ってきました。でもそれが報われなかった時、僕は[社会]に対して怒りを感じていました。見栄っ張りなところとか実は大した実力がないことを人事の方は見抜かれていたのかもしれません。

    赤木智弘というフリーライターの方をご存知でしょうか?希望は戦争という記事を書いて社会学で少し話題になった方なのですがその方と同じような妬み、ルサンチマン的なことをずっと考えていました。ぼっすーさんの記事を読まさせていただいている理由の一つに僕はそこから抜け出したいという思いがあります。

    よくよく考えるとたかが2ヶ月の勉強で大学院に入れたことのみならず、大学で面白いこと何一つできないのにおもんないグループに入れてもらえていたり、恋愛にハマり、勉強をサボったのに高校に入れてもらえたなど生き方を全肯定されてきたというか、周りの保護によって自分が生きてこられていたということに気が付かさせられました。

    昔こそはフィードバックで悪いことを言われるのを恐れていましたが、今となってはありがたく感じております。やはり叩いてもらわないといつまでも、他人に不快感を与える人間のまま歳をとってしまいます。

    そうして日々少しずつですが成長しているのではと感じます。

    一つ困っているのは自分の面倒は自分で見たいのに、でも誰かに養ってもらいたいという相反する気持ちがあります。起業したいが、どれで起業したらいいのかわからない人間です。だから素直に就職してお世話になろうと思っています。もしかしたら、そういうマインドがある限り就職すらも無理なのかもしれません。

    やはり人のために働くことよりも、毎日寝て食って糞してゲームする生活の方が何倍も尊いです。働きたくないと思います。でも、お金がないとプライベートを保証する場所や、安定して食べ物を得ること、ゲームを買うことができません。

    会社で働くにあたって、自己実現をしたいという人がいます。それが昔の僕でしたが、今はそんなのどうでもよくて社会実現の方が大事なのでは?と思うようになりました。自己実現したところで自称芸術家のように売れないということは分かっています。それならば、社会のニーズを調べて生み出した方が売れると思います。となると、僕はどの業界で自己実現とかそう言ったことはどうでも良くなります。したがって、業界という一つの縛りからは解放されましたが、ぼっすーさんであればどのように企業を選ばれますか?
    自分と経営理念の類似性でしょうか?もしよろしければ、なぜ金融関係を選ばれたのかお教えいただけないでしょうか?

    1. 一部を非表示とする形で、こちらの方に移動させていただきました。
      フリーライターの方のことは存じ上げませんが、文中にありました、「妬み、ルサンチマン的なこと」を考えて、誰かに世話をしてもらおうというような姿勢について捉えた場合、端的には、そうした姿勢は一種の依存であり、それ自体が心を蝕んでしまいます。
      仮に誰かに訴え、依存し、実利的な生活の容易さは叶ったとしても、その裏で自分の様々な潜在可能性も潰し、本質的な自信のようなものも奪ってしまいます。
      そしてそれは、精神においての不安をさらに内在させることになるということにもなります。
      様々な部分において、飛び込んだり、乗り越えたりして何かに気づいた分だけ、机上の空論でも単なる強がりでもない、自分自身の財産としての自信のようなものがついてくると思います。

      ありふれた表現となりますが、嫌なことの対価としての仕事と捉えると、働くことは嫌になります。
      しかしながら視点を変えると、そこには対人コミュニケーションもあり、スキルの上達もあり、達成感や成長の確認といったものありながら、それに加え金銭まで入ってくるというかなりの良い点がたくさんあります。
      もちろんゲーム的な要素もふんだんにあります。

      また、これは少し語弊を生みそうな点になりつつ、もちろん個人差が大きいので一概には言えないことではありますが、アルバイト先にいる大人よりも、正社員として入ったときの上司の方がモノの理解もよく、おおらかだったりします。
      つまり、話は通じる上に、理不尽なことも言ってこないという場合がよくあるという感じになりますし、役職が上の人ほど余裕があります。

      想像してみたところ嫌に決まっていると思ったことが、慣れてくると「代わりにやろうか?」と言ってしまうくらい好きで得意なことになってしまうこともあります。
      もちろんいつまで経っても嫌なことはあると思いますが、「想像」の範囲だったときよりも余裕でこなせるという感じになっていきます。単純には舞台慣れのようなものでしょうか。

      企業を選ぶ基準としては、やはりご自身の内側で既に答えは出ていると思います。今までどんなことに嬉しさを感じたかとか、あえてチャレンジしてみたいことは何かとか、そうした点を中心に起きつつ、アイツが騒いだら「うんうん嫌なのはわかるぞ」となだめつつ、自分の中の恐怖心を一旦無効化してみたりすれば、視界がクリアになっていくのではないでしょうか。
      もちろん、やたらと社長がオラオラ教祖のようになっていて「これは怪しいニオイがするぞ」というような感じがした時にはそれを避ける、というのは構わないと思います。

      なお、僕が金融業界にいった理由は、「相棒プレシジョンベースとの20年」で、他の方のご質問に答えたりしていましたので、そちらをご参照いただければと思います。

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