評価は評価として「現実的なもの」として扱われますが、その評価からの喜びは、頭の中で「作り出しているもの」です。喜びも作り出しているのだから、苦しみも頭の中で作り出しているものです。
温泉につかるように直接心地良いというわけではありません。温泉での心地よさも、結局は体からの信号を感じているだけですから、さほど変わりありません。
しかし、どうしてわざわざ苦悩を抱えて基準を作り出し、その基準が満たされた時にだけ喜ぼうとするのでしょうか。
ただでさえ体は自分の意志とほとんど関係なく基準を設けています。その基準は生命維持としての明確な基準です。まだわかりやすいほうです。
しかし頭の中の基準は、なぜどうやってその基準を採用しているのかイマイチつかめません。ほとんどは習慣によって、知らぬ間に生命維持と同等かのように組み込まれています。自由意志かのように見えて、習慣に組み込まれただけの意志決定にしか過ぎなかったりします(自由意志を哲学と社会学的帰責から紐解く)。
解釈と関連思考
そこに解釈と関連思考が加わってさらに難解なものに仕上がっています。
理解するということは「理」がわかるということですが、理自体がどこまでの絶対性を帯びているのか、というところまではなかなか踏み込むこともないでしょう。
「間違いだ」で終わらせることは簡単ですが、なぜ、どこが間違っているのか、間違っていると判断した「理自体には問題がないのか」というところまで、というようなところです(哲学と解釈)。
「合理」は理の正しさを証明していない
確かにある方程式をもっていて、それに従えば、導いた答えが正解であるのは間違いないですが、その方程式、その方程式のフィールド自体が正しいのかというところはあまり議論されません。
その場合の正解とは、一貫性としての正しさくらいです。「合理」といっても、理と合致していても、理自体が正しいのかはその際議論されていません。
それでは「現実的なものを喜ぶ」というテーマにそって、また、この箇所に出てくるキーワードの無趣味について触れていきましょう。
趣味を作ることと多趣味
「何か世捨て人のようだから、趣味を持ったほうがいいよ」ということをたまに言われますが、そういう人向けには、適当にあしらうための言い訳を用意しています。
「趣味を持ったほうがいいよ」という人は親切で言ってくれているのでしょうが、おそらくその人は趣味でももたないと、暇に耐えられない人なのでしょう。
多趣味ということはいくつかの点で愚かです。一つは何一つのことにも集中できないということ、もうひとつは趣味に依存しているということです。
一つのことにも集中できない
古代の学者たちは、ひとつの分野のみならずたくさんの分野について考えていました。しかしそれは多趣味というわけではありません。
物理のことを考え出したら数学に、数学のことを考え出したら論理学に、というふうに、当然に関連してしまいます。
暇をつぶすための矛先の違い
釣りをしていたと思えば、大型バイクに走った、大型バイクに走ったと思えば、タイヤの細いチャリンコに走った、というような関連とは全然違います。近いようなことですが、あくまで暇をつぶすための矛先の違いです。ある種の刺激に慣れてしまって、矛先を変えざるを得なかったというだけです。
それは、ひとつの事柄には、ある程度までは簡単に進めるものの、途中で大きな壁が待っているからです。ある程度までは上達が実感できますが、それ以降は、上達や新発見の喜びがほとんどありません。
ただやるだけの作業的な事柄になってしまいます。作業的なことになってしまうのに、お金がもらえるどことかお金が消えていく、そして楽しくもなければ、新たなる喜びもない、そこで矛先を変えることになります。
初心者では味わえない深い喜び
しかし、本当はその先に、初心者では味わえない深い喜びがあります。そこに辿り着くまでには、しばらくの時間が必要ですが、趣味という属性上「楽しめないのならやめてしまえ」ということになって、他の事柄に鞍替えします。
新たにお金をかけるだけで、初心者の楽しみがまた訪れるのだから、刺激もたくさんあります。そうしてどんどん多趣味になっていきます。
趣味に依存
趣味が疑いようもなく良いことだとされているのは、ひとつはそうアナウンスしないとその産業が衰えるからです。趣味を持つことが一種の「文化人だ」というような宣伝でもしていなければ、職業として成り立たない人がいます。
確かに趣味は「本能的ではない」ということで文化といえば文化ですが、どうして文化が良いものだということには疑いをかけないのでしょうか。一旦無属性にして、そこから自分で感じていかねばなりません。決して反証して、非難して、それで満足してはいけません。
趣味に依存するということは、いくつかの意味合いがあります。
趣味がなければ心が煩うこと、それは、趣味によって他の煩いを避けているということと、趣味がなくなれば困るという条件付けなどです。
また、趣味を理由に他の事を避ける言い訳にもなっています。
その際には趣味は趣味ではなく、「仕事」と呼ばれたりします。騒ぐ心を誤魔化すためにのめり込んでしまった趣味を何とか保守しようと「これは仕事だ」と自分にも周りにも言い訳します。
そんなことをしていては、永遠に安らぐことはありません。
現実的なものを喜ぶ 曙光 244
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