現代人の皮肉

日下一切の大きな関心事を皮肉に取り扱うのが、ヨーロッパ人たちの流儀である。彼らはそれらの仕事に忙しいため、それらを真面目に考える暇がないからである。 曙光 162

現代人の皮肉ということで、京都人の皮肉やそうした京都における皮肉の本意などについて触れていきます。

先日、パスカルの「哲学をばかにすることこそ、真に哲学することである」という格言について触れましたが、ただ単に皮肉に取り扱う場合と、真に「ばかにする」ということは似て非なるものです。

これは宗教を無条件に批判することと、思考の結果、排斥する場合との違いに似ています。さらに、よく考えないままにも、ほどよく文化に「取り入れられているもの」には無批判になることも同様におかしなことです。もっと言えば、それを半端に考えて、ある主義をもち、ある抗争を行いだすというのも馬鹿げています。「社会を変える」ということは、非常に遠回りな自作自演の自慰行為だからです。

京都人の皮肉

皮肉といえば、「肯定しているようで否定している」という非常に京都人が得意とする所です。ただ、これも元は強大な力関係の間に挟まれた京都の庶民が、揚げ足を取られて言いがかりを付けられないための苦肉の文化の発展であり、「本音を隠す」と他府県民に言われるものの、これは権力抗争に巻き込まれた文化のない他府県には理解のできない生きるための苦肉の策です。それが現代にまで染み渡っています。

京都人は京都人以外に冷たいということが言われますが、それは否めません。ある言葉を発し、その反応で地元の人間かどうか、とりわけ洛中人であるかどうかを見分けています。その京都人特有の手法が「皮肉」です。お世辞と取れるような皮肉に浮かれて喜んでも、逆に皮肉と感じて怒りを覚えては、「よそさんはこれやから」となります。

ただ、そうした皮肉に対して、怒りや喜びといった感情を示すこと自体が京都人の術中にハマっているということになります。何を言われても平常心を保つことこそが京都の文化と言えるでしょう。

実際にあった話ですが、言葉遣い一つや反応一つが原因でクレームが来た場合は、クレームをもらったほとんどの従業員が他府県から京都の支店にやってきた人たちでした。

行間だけでなく語尾の後も空に舞う

例えば「いらっしゃいませ」のあとに、「遠いところからわざわざ」とつけることがありますが、その後の言葉を空中に放り投げているかもしれないという場合があります。

すなわち「遠いところからわざわざ」は「ねぎらい」とは確定していないということです。可能性としてまだなお内在しているケースは、「遠いところからわざわざ」→「来やがってあほんだら」や「何しにきたん?」です。

「遠いところからわざわざようおいでやす」も侮れません。その後に何か空で唱えているかもしれません。「おいでやす」と「おこしやす」すら使い分けがあるなど、侮れませんね。

「遠い所からわざわざ何しにきたん?」も、解釈によっては、「観光?仕事?」というような純粋な質問と、「来んなよ、帰れよ」「京都に何か御用ですか?」という意味合いまで、解釈はたくさんできてしまいます。

「今日はまたええ時計して」と一見褒めのような言葉を発しますが、これは確認を行っています。

これは、「高そうな時計だ」、「いいものをつけてますね」というような意味といえばそうですが、それを褒めているかということは確定していません。

「何調子乗ってんの?」や「見栄っ張りやなぁ」、「その程度で自慢?」などが空中を舞い踊っているかもしれません。時計を褒められたと思えば、こんな想念が飛んでいるかもしれません。

それを深読みして、「皮肉だ」と怒ってもダメ、褒められたと思って喜んでもダメ、という具合です。その時の反応で相手の教養高さを見極めています。

京都弁でなくとも、平常心で「ありがとうございます」という対応ができればそれでよしです。

極端な話をすれば、高い腕時計をツッコまれて「そうでしょ?そうでしょ?これ高かったんですよ!」という感じの人を見た時どう思うでしょうか?

逆に一応褒め言葉なのに「腹黒い京都人に皮肉を言われた」とムッとされた時はどう思うでしょうか?

せっかく相手が喜ぶであろうプラス面をわざわざ口に出していったのに、怒りの敵対心を出された場合、どう思うでしょうか?

喜び踊ることも、ムッとなることもタブーなのです。

たいてい京都の皮肉めいた言葉遣いが非難される時は「バカにされてプライドを傷つけられた」ということが語られています。皮肉を攻撃と捉え、京都人は腹黒いという結論まで出していたりします。

京都人からすれば、そうした議論自体が寒いのです。

むしろ皮肉的な言葉遣いは、そうしたものにいかに反応しないか、感情的にならずに言動で返せるかというところをもって、文化的洗練度や教養の高さを見極めているというところが本当のところです。

皮肉による意識的結界

こうした皮肉による確認の文化は、「京都に変な人がやってこないように」という一種の意識的結界であるとすら考えられます。

どれくらい意識的結界が強いかと言うと、皮肉を吐く以前に、言葉遣い一つで相手を拒絶するという傾向があります。

例えば、実際にあった話ですが、「うちの息子がきはって」という言葉を放った人が、京都人にだけ変な空気を出されたという事があります。

もちろんそれは謙譲語と尊敬語的な用法の誤りですが、「きはって」という言葉を身内に使っている時点で、地の京都人ではないという判定が下り、その上で京都弁である「きはる」を使用したことで顰蹙を買ったということです。

その他、京都市内中心地の大半は都であったため、地名がありません。地名があるところは、元々京都近隣の村だったところです。概ね地名が村名であり、太秦なら太秦村、西ノ京なら西京村です。ということで、特に洛中では自分の地元を説明する時に通り名か、もしくは元学区名、学区名で表現することがあります。

そしてその上で、「家はどのへんですか?」

という問いに対して、「北野の方や」などと答えれば、京都人ではないことがバレてしまいます。

「そうですか」と言いつつ、その裏では、「翔鸞か仁和か大将軍か衣笠かはっきり言えや。京都人ぶんな田舎もんが」という思考が巡っています。

また、学区名の表現であるからと言って、合併後の小学校の学区を言ってもいけません。

「二条城北の方です」と言おうものなら「出水?待賢?どっちやねん」、「西陣中央の方です」と言おうものなら「桃園?西陣?ブランド狙いの移住組か」というようなことを奥に忍ばせつつ、「そうですか」と言ってやり過ごしています。

京都という土地は、極めて生きにくい所です。ただ、言語的な論理の研究グセや、心理の深読み能力は培われるのかもしれません。

京都における皮肉の本意

そんな京都における皮肉の本意の一つは、「自慢すること自体が寒い」ということをひっそりと相手に伝えるためだったりします。相手を傷つけずに、そうした自慢による自尊心獲得自体が、洗練されていない証拠であるということを皮肉によって諭しているのです。

直接的に相手に抵抗してムキになることすら寒いということを既に悟っています。なぜなら、それらは自尊心獲得ゲームだからです。

だから皮肉に反応して怒ってもいけないし、自慢要素を指摘され、喜んで自尊心を満たしているということすらいけないという文化です。

何かの要素を持って相手との比較で勝った負けたを判定すること自体が低俗であるということを示唆しています。

皮肉に対してほくそ笑んで動じないということをもって、洗練を見極めているということになりましょう。それは京都における互いの非言語コミュニケーションでもあります。

僕も洛中の京都人であり、洛中人を代表して言っておきますが、たまに「中京区だけが京都であるという人もいる」という寒い記事を書いている人がいますので、それを否定しておきます。

僕はそうした東京的な都会基準で京都を見ている事自体の非洗練さに爆笑しています。「中京区だけ」という意見に、おそらくすべての洛中人が爆笑しているでしょう。

現在の中京区は元々上京区の一部と下京区の一部がくっついてできたようなところです。京都が凝縮されているところと言えば、圧倒的に御所御苑のある上京区であることは論ずるまでもないという感じです。

結局、そんな事を言っている人は、京都ブランド的なものと同化し、優越感を得たいというような助平心を持っているというのが本音でしょう。

しかしながら、すべての人を拒絶しているわけではありません。もちろん地元洛中人に媚を売れということでもありません。京都と同化し、自分をブランディングしようというスケベ心を持った人でなければ、たいていは受け容られます。

「京都に移住しよう」というような人たちは、所詮京都を踏み台にして、優越感や自尊心を高めようとしているに過ぎません。だからこそ、皮肉に対して過剰に反応するのです。

それがどのような場所であれ、自分の地元を愛さず、京都ブランドに同化しようとすることを京都人は意識的結界を持って全力で拒否するのです。

「私は京都の中心地にある高いマンションに住んでいるだぞ」というような「にわか京都人」には理解できないというところを持って、真の地の京都人たちは、その低俗さを皮肉で笑っているというのが本当のところです。

そしてその笑いの本質は、見方によれば田舎者扱いであり、それを抽象度の高いところから分析すると、「そういう自慢のような事自体が寒いということ自体がわかっていない時点で洗練されていない。よって、京都人ではない」ということになります。

千利休の言葉を借りれば、「叶うはよし、叶いたがるは悪しし」ということです。

そんなところに住んだところで京都人にはなれないというところの本質は、意識の中にあるのです。

定住している人々と自由な人々

讃辞の中の復讐心

現代人の皮肉 曙光 162

Category:曙光(ニーチェ) / 第三書

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