犬にお世辞

犬は特に好きでも嫌いでもないのですが、犬を飼う人は、犬に対しての態度よって嫌いです。どういう点が嫌かというと、人間側の都合なのに犬側の都合かのようにすり替えて正当化して居直る点です。

本当に犬のことを考えているのか疑問です。人間の思考の産物である主義やマナーなどで勝手に去勢したり、「もっとかわいく」と人間の感情のために、毛にハート型のブリーチをしたりします。理解できません。

馬を経済動物と呼んだり、犬を愛玩動物と勝手に定義するのは人間です。馬にしろ犬にしろ大迷惑でしょう。

そしてなぜか動物には価値が付けられていますが、それは人間と人間の間での交換価値であって、彼らの価値がその人間の尺度と同じというわけではありません。

ネパールの山奥で出会った鶏

ネパールに滞在した際に、ランタン谷というところにトレッキングに出かけました。その時にそれぞれ道中にある村や、集落でお世話になりましたが、登山ですから当然に体にダメージが来ます。

山奥の村なので、ほとんどタンパク源は乳製品か限界が鶏卵しか無く、食事はほぼダルバートといわれるプレートセットです。

そんな中、連日山を登っていると、体というか筋肉が回復しなくなり、足がヨボヨボになってきました。

山奥の村で、お茶を飲んでいると、目の前に鶏が歩いていました。

ガイドが「あの鶏を食べますか?」と聞いてきます。ひとまず笑って特に返事もしませんでしたが、「いくらか聞いてきますよ」といって、家主のところに行きました。

「700ルピーでいいそうですが」

「いや、別にいいよ」

といって、断りました。この時にふと思いました。

確かに人間としての所有者である家主から、この鶏をどうするかという権利のやりとりは700ルピーで取り決めができるが、この鶏と自分との関係はどうなのだろう。

700ルピーは家主と自分との関係であって、鶏と自分の関係ではない、彼の命を700ルピーで、「どう扱ってもいい権利」として家主からは買えるかもしれないが、それは、鶏が他の人間に何かされても、家主が怒ったりしないというだけで、そもそも彼にも所有権というものはないのではないか、という点です。その所有権というのは労力や時間などの交換価値としての人間に主張する属性のものだということです。

相対化されて取引されているのは、人間の費やした労力や時間などであって、鶏の命の値段ではありません。

そんなことを考えていると、鶏が膝に乗ってきました(すぐに降りましたが)。

犬なども同じことです。15万の犬と、捨てられて値段の付かない犬に、命の差などありません。

ブランドだ血統だなどと言っているうちは、犬とは心底友だちにもなれないでしょう。彼らから教わるようなことも、見えなくなってしまいます。

動物と暮らすための感性の発達

犬にお世辞 曙光 258

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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