浪費

興奮しやすく突飛な性格の人々にあっては、最初の言葉や行為はほとんどいつも彼ら本来の性格を特徴つけるものではない(それらは環境によって示唆されたのであり、いわば環境の精神の模倣である)。しかしそれらはたしかに語られ、なされたのであるから、その後に続く性格に基づいた本来の言葉や行為は、しばしば調停や、回復や、再忘却などに費やされざるを得ないのである。 曙光 290

浪費と消費、似て非なるこの言葉たちは、無駄遣いと生き金、というわかりやすい尺度がありますが、一般的に言われる消費ですら、厳密に言うとほとんど浪費です。

浪費をもっと突き詰めると、感情のための消費は全て浪費になります。一般的には、感情の暴走によって冷静な判断力を失った状態でした消費のような捉えられ方をしますが、その際の「浪費じゃなくて消費だ」の言い訳は「まあそれでストレスが吹っ飛ぶなら別にいいだろう」というものです。

しかしながら、それは浪費とイコールであり、ストレスが吹っ飛ぶならという理由としては同じだったり、尺度の違いは金額や量の過多くらいなものです。根本的には変わりません。

それでも自分で稼いで生活に響かない程度ならばいいだろうというのが世間一般での考え方になるでしょう。必要最低限の消費ではたいていお金は余るものです。

消費に見える浪費

しかし現実は、ほとんどお金が残っていないという生活をしている人が結構います。その背景にあるものは、生活に響かない程度ならいくら「消費に見える浪費」をしても構わないだろうというものです。もしそこで問題視されるとすれば、お金がないのにカツカツになるまで浪費する人、それがもっとひどく発展した、お金を借りてまで浪費する人のようなタイプです。

確かに世の中にはお金の計算ができない人がいます。僕は個人的にそれを純・純粋消費者という風に定義していたりします。つまり消費するだけの人です。誰かからお金をもらったり世話してもらうことしか頭に無いような人です。

それがいけないことだというよりも、供給者側に立った場合に得られる体験や、供給者の存在が理解できないというのは、幅が狭くもったいないと思ってしまうだけです。

供給者になったつもりで、誰もお金を落としてくれない「個展・グループ展」を開いて供給者になったつもりでも、それではタダの「材料の消費者」だというようなケースもありますから、その勘違いのほうが問題かもしれません。

注文による「力の誇示」と浪費家へのおだて

浪費家はモノを無駄に消費するだけでなく、注文することで、何かの力を誇示したような錯覚を得ています。もっとひどい場合は、それが自分のお金ではない場合があり、つまりは「他人のフンドシで相撲をとる」どころか「他人のフンドシでモテようとする」という、土俵にすら立たないタイプも確実に存在します。

それでも消費者と供給者の関係上、供給者は利潤を上げるために、セールストークのひとつとして、そんな力を誇示をおだてたりします。それは単に、消費者余剰的観点からの無形の付加価値を創出しているからであり、こんなところにも供給者は、さらになにかを付加して供給しています。

といってもほとんど騙しであり、浪費家はまんまと騙されているだけです。そしてさらなるお金の浪費をしてしまうというオチまでついています。

浪費行動は一種の精神病

浪費行動は、一種の精神病です。いや精神病というようなものよりも、思考の癖であり、感情を思考によって解決しようとした結果、思考の中身、解法にそのような行動しか存在していない、という場合が多いでしょう。

理屈を唱えても、感情に振り回されているだけですから、感情にそぐわないような「都合の悪い理屈」は出だしから排除するでしょう。

それでも一万回くらい説き伏せるとその思考癖は治るかもしれません。

「無駄遣いはやめときなよ」と言われても、一般的に浪費とは扱われない消費行動が問題視もされず「妥当」と扱われている以上、「君らの消費と同じじゃないか」としか考えられません。

たまに靴を年間50足とか買うような人がいるそうですが、1年は365日です。つまり年間7回位しか使わないようなものを毎年買うという理解できないような行動です。

「その日の気分に合わせて」

と、おしゃれなことを言いますが、それは要約力がなく「失敗したらどうしよう」という恐怖心も根底にある上に、一気に買わずに都度都度買うほうが資金も残り、さらに最先端のものが手には入ります。最後らへんに残ったものは使う頃には流行が去っているかもしれません。そのような消費行動に付き合う社会もおかしな話です。

「その日の気分に合わせて」

これが全てを物語っています。

つまり気分のために消費行動を起こしているということです。

そうなると外回りの営業さんが革靴を履くのもおかしな行動です。

じゅうたんで敷き詰められた場所ならいいですが、アスファルトやコンクリートの上では足がすぐに疲れます。

そういった文化は、何のためにあるのでしょうか。

足の痛みよりも「人にどう見られているか」を優先していることになります。人にどう見られているか、というのも思考の中での出来事です。

しかし、もしかしたらエリマキトカゲのように、「自分を大きく見せないと天敵に狙われてしまう」という本能的な行動なのかもしれません。

光合成のできる部位を減らしてでも、葉に斑紋をつくる植物のように、「オレ虫に食われてるから、あんまり栄養無いぞ」と虫を勘違いさせようとしてるのかもしれません。

そんな靴を履きながら、「いやぁ足が棒になったよ」と頑張っている姿を人にアピールなどしようものなら、もしかしたら、犬や猫に「馬鹿だなぁ」と思われるかもしれません。

洗脳の結果としての消費行動

浪費 曙光 290

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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