洗脳カルト宗教の勧誘に来た人を逆に説法して脱洗脳を試みてみました。宗教勧誘を論破して撃退するという感じではなく、相手のフレーム合わせて、対機説法をしてみるという感じです。
普通は宗教勧誘に対して上手く断るという感じだったり論破して撃退するという感じだったりするでしょうが、僕の場合は目的が少し違っていて、追い返すことではなく、短時間で脱洗脳のタネを撒いておくことです。
先日、X(Twitter)でこっそりつぶやいてみましたが、ほんの少し前の休みの日に我が家に宗教勧誘の人がやってきました。
それで玄関先で話すことになったのですが、やんわり断るというわけでもなく、結果的に1時間くらい話して脱洗脳を試みてみました。わざわざこちらから声をかけるということはありませんが、我が家にやってきたのでついでです。
感情を一切なくすことで、相手を感情的にさせず、冷静で理性的に洗脳・マインドコントロールを解いていくにはどうすればいいのかという一種の修行(?)です。修行というよりも慈悲の実践という感じでしょう。
なお、本ブログの常連さんにはご周知の通り、僕は一切の宗教に属していませんし、宗教まがいの変な団体にも属していません。
宗教勧誘と詐欺の違い
さて宗教勧誘の人は、詐欺師と違って、本当に相手のためを思って勧誘にやってきています。
詐欺師の場合は、相手を騙してお金を払わせようというような意図を持っていますが、宗教勧誘者の場合は、相手の幸せを願って勧誘にやってきています。もちろん信仰の実践というような自分都合の面もありますが、一応相手の事を考えているという面を含んでいます。
詐欺は自分の利益のためとあらば、相手を騙すことを厭わないという感じですが、宗教勧誘は、自分の利益と複合して相手の利益を望んで行われるものです。
「あなたと一緒に幸せになりたいの」
「お前にも幸せになってもらいたいんだ」
そのような感じで、僕自身も若い頃は当時の彼女や友人から宗教勧誘を受けたことがありますし、僕の家族もその友人などから勧誘を受けた経験があるなど、日常のいたるところでこうした宗教勧誘と出くわす可能性はあります。人生において数回くらいは経験することなのかもしれません。
宗教勧誘は一応相手の幸せを思って勧誘している
特に宗教勧誘に関しては、相手の幸せを思って勧誘行動をしてきます。だからこそ、人間関係が希薄な場合では強い気迫での勧誘は起こりにくく、逆に深いコミュニケーションを取った仲、より仲睦まじい間柄である方が、本気で勧誘にやってくることが多いという感じになります。
これは私事ではありませんが、僕の家族は、その親友から宗教勧誘を受けた時に次のようなことを言われたそうです。
「お前に真実を伝えることができないと、お前を地獄に送ってしまうことになるんだ!」
その親友は、涙を流し、胸ぐらをつかみ、そう訴えかけてきたそうです。
「お前が大切だから、お前を地獄には行かせたくないんだ!」
そう言って、ある意味で心の底から相手の幸せを望み、訴えかけてきたそうです。
ということで厄介です。
相手に本当に幸せになってほしいと願っているからこそ、それが情熱になっています。問題はその方向性であり、解釈の仕方です。だからいくらカルト宗教だからと言って本人を責める必要はありません。
ということで、騙すつもりはないので頭ごなしに怒るというのは少し違うのではないかと思っています。
カルト宗教に対する対機説法
という感じなので、宗教勧誘にやってきた人に対機説法を行うことで、脱洗脳のきっかけを作ってみました。
これは、僕の考えや「証明できない『真理』と思い込んでいること」をマインドコントロールによってある種上書きするというものではありません。
通常脱洗脳と言うと、洗脳手法を持って「洗脳の上書き」をする方法が用いられますが、別に何かの観念を新たに植え付けることを試みたわけではないのでご注意ください。
で、対機説法というものですが、これは相手のフレームに合わせて理を説くという感じです。
画一的で一方的で教科書的な理論を説くという感じではなく、相手が持つ世界観に合わせて言葉を選び、理を説いていくということです。
カルト宗教にハマっている人は、そのカルト宗教の教義の目線からしか世界を解釈できない状態になっています。
それがキリスト教系なら新約聖書の記述に沿った話でたとえ話で気付いてもらう、仏教系カルトなら根本経典となっているような経典の話を元に話をしてマインドコントロールを解いていけばいいのです。
でないと、そうした認識に関するフレームから逸れたことには耳を貸さなかったり、耳を貸したとしても感情的に反論してくる可能性があり、結局伝えたいことは伝わらなかったりします。
ということで、今回我が家にやってきたカルト宗教は、まあ有名な所ですがキリスト教系の新興宗教だったため、新約聖書をベースとして対機説法を行い、脱洗脳のきっかけを作ってみました。
宗教勧誘の始まり
それでは「洗脳カルト宗教の勧誘に来た人を逆に説法して脱洗脳を試みた」の第一話です。
このカルト宗教の勧誘は、数ヶ月前からちらほら来ていました。
二人組で玄関にやってきて、挨拶を交わしたあと冊子を渡していくというタイプのやつです。
で、最初の頃は女性二人組でやってきていましたが、ある時おばあさんが独りでやってきて、「聖書をお読みになったことはありますか?」と聞いてきました。
まあ聖書と言っても旧約聖書と新約聖書がありますが、冊子の内容からこの場合は、新約聖書のことを指していると思ったので、「4福音書に限って言えば100回以上ありますけど」と言ってみました。これは本当ですからね。
「そうですかぁ!」とおばあさんはかなり喜んだ様子でした。
で、例のごとく冊子を渡されて、その日は帰られたのですが、それからしばらくして、おそらく「このエリアの強者」のような人を連れて我が家にやってきました。
しかし、僕はその日の前日深夜まで仕事をしていて眠かったため、ひとまず帰ってもらいました。
それからしばらくは何もなかったのですが、先日休みの日に、その「このエリアの強者」の人が単独で我が家に宗教勧誘にやってきたのです。
カルト宗教勧誘者に逆に説法する
「洗脳カルト宗教の勧誘に来た人を逆に説法して脱洗脳を試みた」の第二話ということで「カルト宗教勧誘者に逆に説法する」です。
おそらく宗教勧誘に比較的好意的であることと、新約聖書を読んだことがあるということでカルト宗教に「脈アリ」判定をされた僕に対して、カルト教団は宗教勧誘の畳み掛けとして、「そのエリアで少し偉い人」ということなのか、強者を単独で派遣してきました。推定40代の男性です。
どうせならその宗教の教祖くらいがやってきて欲しいのですが(教祖を脱洗脳できたら、その教団の全ての人の錯覚が消えますからね)、ひとまずは地域の責任者的な感じの人が本気で勧誘にやってきました。
もちろん相手は、僕のためを思ってやってきています。ということで彼のために、単なる論駁でもなく、感情的な攻撃でもなく、彼を脱洗脳・脱マインドコントロールすることを目標として、お話をしてみました。
ということで、ここからは会話文でお楽しみください。本題とあまり関係のない会話は省いて書いていきます。
ピンポーン
宗教勧誘者「先日は、お休みのところすいませんでした。近くでイベントがありますのでぜひご参加いただきたいと思いまして」
bossu「イベント参加はしませんよ。というより団体に属するということ自体しません」
「では、新約聖書をお読みになったとお聞きしてますが、どのような信仰をお持ちですか?」
「まずね『信仰』というもの自体が、疑いを含んでいますけど、どうでしょう?」
「と言いますのは?」
「事実当然のことには疑いを持ちません。あなたが今生きているということ自体を疑ったことはあるでしょうか?
少なくとも、生きているということがどういうことか定義できなくても、今、目の前に僕がいることを認識しているということは疑っていませんね?」
「はい」
「それが、目からの情報であろうが、マトリックスのように電気信号的に送られたものであろうが、ひとまず何かは感じていますね?」
「はい」
「では、信仰とは何でしょうか?」
「聖書の真理を信じることです」
「ということは、その真理は、信仰を持たないと成り立たないということですね?
事実当然のことは信じる必要がありません。信仰で支える必要がなく客観的な証明も必要なく、今すぐに確認できることと『信じる』という事をもってしか支えられない領域の差です」
「では聖書に書かれている真理についてはどう思いますか?」
「聖書の記述自体の正当性は何によって支えられていますか?」
「真理です」
「先程言ったように、真理というからには、それが絶対確実でなければなりません。
聖書は文字で書かれたものです。ではその書かれた内容が、絶対に正しいという根拠はどこからやってくるでしょうか?
真理が書いてあるから、というのは理由になりませんよ。
それはもうご理解いただいていますね?」
「そうですね…」
「別にあなた達の教団に限ったことではありませんが、聖書自体を盲目的に正しいと考えるには根拠が不足しています。
聖書を編纂したのはパウロなどですね?
そしてパウロが編纂したのはイエスの没後かなり経ってからです。
ということは、イエスの言葉でもなければ、イエスを直に見た人の言葉でもありません。口伝を集めただけです。
仮にイエスが神の言葉を説いたとしても、その内容が正確に伝わっているかはわかりません。その時々の人たちの目線で解釈した言葉が、人伝いに伝達し、内容が多少なりとも変化していないという確実性自体が疑わしくないですか?
特にギリシャ語で書かれた新約聖書ではなく、1600年代のキングジェームズ版以降は、その内容が変化している可能性があります。
いずれにしても、なぜ記述自体に真理があると思うのでしょうか?」
「そうですね…
その書物自体の正しさはどこかで変わっているかも知れません」
「真理であるか否かは、あなたの解釈に委ねられています。そこに絶対的な真理であるという保証はなく、時の編纂者や聖職者の解釈によって内容が変化している可能性もあります。
あなたはそうした絶対性を持たないものを『信仰』によって支えている。ということは、疑いが入れる余地があるということです」
「信仰ではなく疑いを持つことが大切なのですか?」
「疑いを持つという表現が気になるのであれば、本質を見ようと思うことです。盲目的にならずに、あなたが確実に確認できることだけを頼りに、もう一度聖書をお読みになってもいいと思いますよ」
「どういうふうに読めばいいのでしょうか?」
「例えば、新約聖書中にイエスは『私は例えてしか話さない』と言っていますね?
例えて表現している所に注意してください」
「では、イエスが起こした奇跡についてはどう思われますか?」
「弟子が授けられた『悪霊に打ち克つ力』とかですか?」
「そうです。病気を治したり、悪霊を退散させる事のできる力です」
「それはキリスト教独自に見られる現象ではありません。
中国で言えば道教に見られる気功をはじめ、仏教でも仏教者は病気を癒やしたりする力があったと伝承されています。
まあそうした伝承自体はどうでもいいですが、それらは特に不思議な事ではありません」
「どういうことですか?」
「例えば、ストレスで胃潰瘍になったりしますね?
物理的な因果関係とは別に、精神状態、もっと言えば意識の情報状態が、物理的な肉体にも影響を与えるという良い例です。
では、そのストレスの原因が無くなれば、結果である体の不調も治りますね?」
「えらく現実的で科学的ですね」
「例えば、ある人が、夫の性格に対して不満をいだいていて、その精神的ストレス、意識の状態が良くない状態だったとしましょう。
で、その影響で胃が悪かったとします。
そんな中、通常は夫の性格自体の改善を目指しますが、そうではなく、不満を抱く原因となる期待や縋り根性という意識の中の法則が変化すれば、ストレスはなくなり、体は改善します。
そして、そうした意識状態というか情報の状態の変化は、考え方を言語で伝達しなくても、非言語領域で伝達することができます。
なんだか癒やされる人と一緒にいるだけで、特に何もしなくても癒やされたり、日光浴をしたら気分が良くなったりするでしょ?
それらは非言語ですね?
たったそれだけです」
「では、悪霊は実在するのでしょうか?」
「たとえそれらが目に見えたとしても、見えたと認識しただけで、物理的実体として存在している根拠にはなりません。
ということは、悪霊が見えるという人にとっては、何か見えているのかも知れませんが、それは実在というわけではなく、そうした情報状態を感じているということです。
それが、『悪いもの』であっても、その情報状態が変化すれば、消えて無くなったり、変化したりするでしょ?
それだけでいいじゃないですか」
「では、死後の世界についてはどう思いますか?
この世界が終わり、死者も復活し信仰のある者たちが楽園で生活するという点についてはどうお考えですか?」
「まず第一に、この心は、今しか捉えることができず、今しかありません。そういうわけで、未来についての想像は、想像でしかありません。
ではどうして、未来についての想像をしてしまうのでしょうか?
それは未来に対する今現在の生存本能としての不安があるからです
もし、幸福を感じたいということであれば、そうした未来への不安というもの自体に対する認識をしっかりとしたほうがいいと思いますよ」
「死後の生まれ変わりについては?」
「死後というものには、いくつかの概念が含まれています。それはこの物理的肉体や生命現象としての死というものもあります。
そしてさらに、例えばあなたが、信仰を持つ前と持った後では、ある種別の人間になっているはずです。
ということは信仰を持つ前のあなたは既に死んでいるはずです。
それどころか、今というものに認識をシフトすれば、常に死んで生まれ変わっていると考えることもできます。
そうした中で、新約聖書中『例えてしか話さない』と表現されている点に、もう一度着目してみてはいかがでしょうか?」
「私は自分自身で神の完全を示す必要があると思っています。
世界中の貧困であえぐ子どもたちや戦争についてはどうお考えですか?」
「まず、例えばテレビでそうした報道があったとしましょう。その内容が事実であるかどうかはわかりません。
単にテレビという媒体を介して、そうした状況を情報として受け取り、頭でそうした情報を解釈したに過ぎません。
その上で、それはただの情報です。そうした物を見ようと思えばそうした情報が入ってきます。
もし目の前で起こっていて、自分が関われることであれば、自然の流れの中で必要な行動を取ると良いでしょう。しかし、わざわざ、そうした情報を探して対処する必要はありません。
それはその場所にいる政治に関わる人やそのエリアの人達に委ねられているものであり、私たちは、今自分の目の前で起こっていることにだけ意識を集中すると良いと思いますが、いかがでしょう?」
「では、どうしてこのような社会状況になるのだとお考えですか?」
「あなた達の思う『完全』にも似たようなところがありますが、次のようにご説明させていただきましょう。
あなたにも、もちろんご両親がいらっしゃると思いますが、それらの方々を道端の蟻とを比較した場合に、重要度、重要性が少なからず異なっていると思います。
そして目を向けていないだけで、報道対象となるエリア以外にも人や動物を含んだたくさんの生き物がいます。
それらの中で自分が見える範囲しか対象となっておらず、かつ、自分と関係性が強いものを大切だと思っているのが普通です。
完全であるならば、すべてのものに対する重要度がフラットになるはずです。
もし社会の人たちの認識が完全に近づいていけば、自然とそのような状況は無くなっていくでしょう」
「どうすれば完全になれますか?」
「あなたは完全になることよりも、未来に対する恐怖を持っていませんか?
恐怖に対する対処として完全にならなければならないということを思っていませんか?」
「信仰を持って私は救われるでしょうか?」
「例えばですが、『信仰で救われる』ということを考えた時、あなたの行動で、あなたの信仰で神を動かせるということになります。
あなたは、ただ、未来に起こるかもしれない出来事に対して恐怖を感じている。そして、特定の行動を起こさないと、未来に恐ろしいことが待っているという不安を持っています。
しかしそれは何かを読んだ内容や誰かから聞いたりしたことです。その正しさを絶対的に証明することはできないのです
未来に意識を向けず、今に意識を向けて、その恐怖心を今解消するなんてのはどうでしょう?
だっていつでも『今』しかないですよ」
「では私はどうあるべきでしょうか?」
「あなたが今持っている信仰を否定はしませんが、書物や聖職者の解釈を拠り所とせずに、それをきっかけとして自分自身を頼りに、『信仰を必要とせずに確認できる事柄』を頼りに自分自身で何かを掴んでいってください」
「あなたは既に真理を知っているのですね?」
「目を開ければ何かが見えたと、この心は受け取り、今の瞬間はそれを感じていても、次の瞬間にはそれはもうどこにもないということです」
「ありがとうございました」
最終更新日:
すごくおもしろかったです、アリと両親という視点はなかなかのもの。このような現実主義的な証拠と矛盾のスキを突けばほとんどのカルト宗教のようなものは、存続できないような気がします。もっと現実主義的な思考法を広めていくべきですね、ただし、人間というのは弱い生き物なので、楽な方に行きたがりますからこのような地に足のついた考え方は、避けたがるでしょう。だからカルト宗教が存続できるともいえるのでしょう。要は人間の心の弱さがそのようなものを生むのかもしれませんね。
コメントどうもありがとうございます。
おっしゃる通りに、矛盾を突いたり、不確定要素を論理で示せばある程度ガードになると思いますし、世のカルトもてんやわんやになるでしょう。
しかしながら、世のカルト宗教は理論ベースよりも「神秘体験」や「人との絆を感じられる」と言ったような体感ベースで人を洗脳していくことが多いので、その面も注意する必要があります。
「体験講座」とか「悩み相談」などなど、入口はぼかしてありますが、何だかんだで人の持つ弱さにつけ込んでいきます。
といっても洗脳する側もその手でカルト宗教に入信したので「つけ込んでいる」という意識はなく「善行を行っている」くらいに思っているのかもしれません。
強烈な変性意識を呼び起こして行う「神秘体験」で、体感としての証拠のようなもの(「自分を超越できた」とか「ほら、神と一体になっただろう?」的なもの)を経験してしまうと、それを信用してしまったりします。
で、その上で教えた側の人達は「私は神なのだ」とか、「神に近い存在なのだ」なんてなことを相手に行ってハメていくという感じなのでしょう。
「そういうのは、そのやり方でなくてもできるし、そんなものは根本解決にはなっていない。そういうわけで、それがどうしたというのだ?その人は何者でもないじゃないか」
ということを伝えることができれば、カルト宗教への盲信を防ぐことができるでしょう。
ただ、おっしゃる通りに人間の心の弱さがそうしたものに縋ろうとさせるという感じになります。
本能レベルからくる恐怖心、その弱さと「誰かに縋ろう、救ってもらおう」というような弱さがカルトを存続させていると言っても過言ではありません。
その弱さを自覚していようがいまいが、最低限「どのような話を聞いても、どのような経験をしても、自らを拠り所とする」という感覚さえ持てば、おそらく「カルト宗教にハマる」ということは無くなるのかもしれません。
まさかの返信ありがとうございます。
ふと初めて立ち寄らせていただいたところ面白かったのでコメントさせてもらいました。
神秘体験ですね、なるほどです。このサイトを知ったのもその流れなんですが、実はニュース記事になっているとある女性芸能人がそういうスピリチュアル的なものにハマっているということで、紹介されていたひとのブログを初めて見たのですが、おお・・これはかなり・・すごいね。というようなブログでして、神やら何やら。
その人の上げられた動画を見ると、完全にマインドコントロールの一種である3要素がそこに存在していました。ブログランキング上位でしかも対面でのセミナーも大好評のようです。おっしゃるとおり体感的な要素も取り入れつつ、すごく巧妙になっていると理解しましたし、それらを受講した人が喜びの声とともに、媒介になって伝染していく、お金も集まる。読んでいるとこちらが分かっていても脳に入ってくる感じがありましたね。bossuさんのブログをみて我に返った気がします。
くわばらくわばらな世ですね。
そうでしたか。コメントどうもありがとうございます。
新興宗教だけでなく、そうしたスピリチュアリズムも名称が違うだけで同じような構造ですから要注意ですね。
もちろん語られている内容の全てが嘘というわけでもないと思いますが、ある角度から見れば確からしいことであっても、蓋を開けてみれば矛盾だらけだったりします。
で、憧れの人に会ったとか、好きなアーティストのライブに行って感動した、というレベルの感情を何か形而上学的なものと結びつけていたりするだけだったりします。
女性芸能人がハマっているとのことでしたが、特に女性は共感力が強いですからね。
共感による一時的な感情の高ぶり、恍惚感や安心感で判断するのは危険です。
そういうものに感化されそうになったときは、ひとまずその空間からしばらく離れてみると冷静になります。
ずっと同一の空間にいるとより一層感化されてしまい、カルトにハマったようになってしまいますが、しばらく離れてみると、ただ興奮していて、不安感を忘れていただけだったということに気付けるでしょう。
余談ですが、スピリチュアリズムが好きな人がよく話をするような「自我を離れ、神の声を聞いた」とか「本当の私の魂からメッセージが来た」とか「宇宙からやってきた私の天命」といった手の話についても、その「神」も「魂」も「宇宙」も「自我による演出」ではないと証明できるのかということです。
一度冷静になって検討してみると良いでしょう。
「概念」は意識の内側で形成されています。
全ては自作自演なのです。
それすらも自我機能であり、自我を離れているようで、自我の内側だという感じです。
私自身無宗教の20代前半の女ですが、現在職場にJの方がいるので調べていたところたどり着きました。洗脳を解こうと思っているわけではないですが、非常に面白い記事でした。
コメントどうもありがとうございます。
宗教団体名はイニシャルにさせていただきました
(JなのかYなのかははっきりわかりません)。
今回の宗教勧誘の件は、まさにその宗教団体の方でした。
悪徳宗教や社外問題にうんざりして
新たに宗教のようなものを立ち上げた者です
悪徳宗教が蔓延する理由関連ではとても核心に近づいて居られるように感じました
Twitterで活動しているので私を信じられない場合は私を信じる人がこれ以上増える前に
bossuさんが代表して論破しに来てください
待っています
しかし私は論破され考えを修正するほどに
教祖さえたどり着かなかった真理にたどり
着くと考えています
真理とは一人で見つけるものではなく話し合いの末気付くものだと思います
対話にはものすごくたくさんの気付きの要素があるのでたくさん会話するのは良いと思いますが、思考の領域には思考の罠がたくさん生まれてしまいます。
そして概念に対する執着が生まれ心を縛ってしまいます。
あらゆる思考は、概ね解釈可能性の一つとしては成り立ちますが、排他性のある「普遍性と再現性を持ったもの」ではありません。
そして、他の人を説得したり、他の人から承認を得ないと成り立たない論理は、その範囲の論理となりますし、宗教においては「信仰」という一種の疑いや無理な力をもたないと支えきれない領域で思考が展開しています。
推論や外界の状況によって支えられること無い「当たり前で納得できること」を頼りに、安らぎを見つけてください。
それはどこか遠くにあるものではなく、何かをして手に入れるというものでもありません。
宗教勧誘がきたとき矛盾を突いてアタフタさせることはできても、相手の考えを改めさせる方法はなかなか無いので興味深く読ませて頂きました。
人にもよると思いますが、基本的には悪意で宗教勧誘にやってきているわけではなく、相手と論争をするというのもなんだか違うと思うので、相手の信念と特に競合しない、より抽象性の高い地点からお話したりしています。
見て聴いて自分が体験してないことを体験していない側が否定するのはとりあえずは良くないかなーと思いました。
同じ土俵にのぼって、それが本当に洗脳なのかそうじゃないのか、論より証拠・百聞は一見にしかずで確かめた後じゃないと論破することにあまり意味がない気も。。
特に、勧誘に来た相手が信用のおける友人だった場合は、自分の理論で論争しないで、とりあえずそこに行ってみて、論破するならそれからだと思います。
(信用に値する人だった場合に限られるとは思いますけど)
でないと”自分の勝手な思い込み”ということについては両者違わないし、結局一方の立場からしかその理由付けを探そうとしない思考回路になるので解決しないなーと思いました。
体験していないことについては、人って思いたいように思って批判することが、日常で多々あるものですから、、宗教に限らず、
何かの教義や主義のようなものは、不完全であるからこそ決着がつかず、論争の種になっていたりします。
何かの都合でそうしたものの中の一つを採用し、他者にも何かを要請するということになっていたりします。
それは不安であったり怒りであったりしますが、そうしたものの原因を外界にあるものとし、その解消を求めて何某か行為により打ち消すという構造は、心に苦しみを生み出します。
論理的整合性や客観的証明というものに着目しがちですが、それらの一つに固執しても「裏付けの裏付け」という無限の迷宮に迷い込むのみとなりますし、他の解釈可能性がある中で絶対性を帯びることはできません。
なので論理や証明の不完全性や他の解釈可能性を根拠に論駁するよりも、「息を吐いたら吸いたくなる」というような、明らかに確認できるものだけを頼りに「理」を観察して概念への執著を解き放つのが最適だと思います。
「私は息を吐いても吸いたくならない」という人がいたら「そうですか」としか言えませんが、そうなると根本的に話が通じないので基本的にはどうすることもできません。
「ずっと吐いています」と主張する人に対して、「ほら、今吸ったでしょ?」と言ってもいいですが、そうした主張に固執するには何かの動機があるという点に着目して、その主張への論駁には執著せず、それをきっかけとして、この心のこととして「この意識」のみを観察するのが良いと思います。
すこし関係のない話かもしれませんがその町の責任者から勧誘者まで言い方は悪いですがまだ常識がありそうな人で良かったですね!私も勧誘を受けたことがありますが外国人か!って思ったぐらい日本語や、一般的な(日本の)、常識が通じませんでした。すべては覚えていませんが亡くなった人に会えるといったものでしたがそれに対し科学的根拠はありますかって聞いてもそもそも会話が通じなく相手側はずっと亡くなった人に会える~~~~なんてことをずっと言っていました。その後なぜか好奇心で宗教に行って見学したのですがやはり亡くなった人には会えませんでした。これに対してやっぱ会えないじゃないですかといったのですがそれはあなたが心?がダメみたいなわけのわからないことを言われ、ここに入信すれば先祖や好きな人(亡くなった)、に会えると言われましたがみんな会えてるですかと聞いたら一般人には理解のできないことを言ってきました。それと長文失礼します。
コメントどうもありがとうございます。
亡くなった人に会えても目や耳や皮膚から情報を得るという程度ですので、それが直接頭の中で起こっているだけだと思いますよ。
「それはあなたの心が…」というより「あなたの催眠状態が」とか「あなたの被暗示性が」、というふうな表現が正しいような構造です。
それに仮に亡くなった人に会えても、会っただけじゃないですか。
むしろ重要なのは、会いたいという渇望、執著の方です。
会わなくても心が平穏であるか、会わなければ心が騒ぐかで言えば、会わなくても平穏であるほうが良いはずです。
何かしらの不足を妄想で充足するという程度ですので、その不足を感じてしまう条件の源流を観察して虚像であると見切るに越したことはありません。
ただ、そうした妄想の状態にある人に普通に話しても通じない上に、感情的に遮断されてしまうことになります。なので、通じる範囲を見つけて、穴を開けていくしかありません。
人生の中で辛すぎることがあったとか、誰かに感化されてマインドコントロール状態にあるとか、何かしらの理由でそのような状態になったというだけなので、慈悲の心で接するのが一番です。
そうですね。返信ありがとうございます。で返信してくれた内容とはすこし脱線する話なのですがやはり一回宗教についていくとなぜか別の宗教勧誘がやってきて(完全に別の宗教)が、やってきて今度は永遠の命を天国?であずかれる?みたいなことを言わたのですが前回同様できないのはわかっていたので、ついては行きませんでした。それと全く関係のない話になりますがああいう宗教勧誘者は最初に来る人はおばちゃんですが派遣社員みたいなのを雇っていると聞いたのですが本当ですか?(知らかったら申し訳ありません)
永遠の命や天国などの言葉は常套句ですね。
勧誘されていらっしゃる姿を誰かが確認していたのでしょうか…
宗教勧誘者が派遣社員という話は聞いたことがありませんね。少なくとも僕が今までに直接会った人たちは、おそらく信者の人だと思います。
玄関先に勧誘にやってくる方々を見る限り、言動はもちろん、目が宗教的(という表現も変ですが)になっていたりしますので、仕事としてやっているという感じは感じられませんでした。
しかしながら、直接的な訪問勧誘ではなく、キャンペーンのスタッフとして派遣されてみたら宗教がらみだったとか、少し変化球になりますが科学カルトなどだったという場合もあるかもしれません。
どちらかというと派遣会社の派遣の仕組みを利用して、スタッフとしてやってきた方を集団勧誘するということの方がありそうな気がします。
嘘か!って思われるぐらい今日たまたまだとは思いますが2回も宗教勧誘来ました、で今日この宗教洗脳を解くっていうの試したのですが相手が理解してくれませんでした(汗)。
再現ですが(勧誘者)ピンポーン、(僕)はい、(勧誘者)Jです、(僕)宗教の方ですか)、(勧誘者)はい、(僕)内心であっ今日勧誘者の洗脳を解き方見たから試してみよ!(勧誘者)今日は~~~~(僕)この方法を試した後・・(勧誘者)えっと今日は~~~(僕)話聞いてないのか(汗)、っていうのが今日2回続きました。なぜか一つ不思議なのは宗教勧誘する人は決まって話を聞いてくれません。記事をたたいているわけではありませんが、この方法を使ってもうまく誘導できませんでした。昔から言われるのですが僕は結構素直に聞くタイプ(自分で言うのも非常識ですが真面目系)な口調でしゃべるのでけんか相手や変な人対応も困りました。ここで本題?ですがこういった人をうまく誘導するときはうまく聞きながら反論?もするのが一番の手でしょうか?(誤字や脱字があったら申し訳ありません、長文失礼します)
それはまた奇遇でしたね。
相手の話や疑問点を聞いてそれに対応する対機説法という形が一番です。しかし、構造的にそうであればよいというわけではありません。
ただ相手の言うことに対して反論するという場合、見落としがちなのが、「相手に反論している自分は何がしたいのだろう?」という部分です。
相手が理解し屈してくれたということを通じて、心が煩悶から平穏になるということを叶えたいというのであれば、相手の状態に自分が依存していることになり、この心は部分的に相手のコントロール下にあるということにもなってしまいます。
また、論理的な穴を突いても「証明もできないが否定もできない」という部分が出てきます。
解釈を行う空間の違いにより定義に齟齬が生まれる場合もありますし、哲学領域になると「相手は証明ができないから私の勝ち」というわけにもいかないことが多々あります。
「現実」の解釈が宗教的な情報によって構成されており、いわば常識と表現されるような共通認識の部分が一致しない場合、共通認識として必ず一致するような空間から話をすれば良いということになるでしょう。
非常に興味深い内容でした!
勧誘者と筆者のやりとりは実際にはフィクションだと思いますが、宗教的構造の中に生まれる矛盾?を上手く説明したストーリーでした!
あまり詳細を記述すると宗教団体を特定することになるので省いている部分はありますが、一応フィクションではなく実話です。
実際はもう少し専門的な領域についてもお話しました。
会話は全内容ではないため、宗教勧誘をしてきた方とのやりとりについて削ぎ落としている部分はあるものの、脚色などはありません。
はじめまして。
興味深く読ませて戴きました。
冊子を渡し、頻繁に訪れる宗教と言えば、ほとんどの方が一つの宗教を思い浮かべるのではないでしょうか?
世界で最も伝道活動に励んでいる宗教です。
またその宗教はよくカルト宗教と呼ばれています。
最初にその宗教であることを匂わせておきながら、肝心な相手の信仰や教えの言葉の部分などを削ぎ落としてしまうのは、脚色になるのではないでしょうか?
善良な人に対する、善良な遣り方であるとはとても思えません。
彼のあなたに対する意見は、削ぎ落とされた部分にあったはずです。
彼が自分の信仰を語った部分こそ、この記事で大事な部分であり、信仰を持つ人間が簡単に折れないことを証明する為に省いてはならない部分だと思います。
一昨年のことなので正確に記憶にないかもしれませんが、このような記事を書くのであるならば、相手の言葉を削ぎ落とすべきではないのではないでしょうか?
彼はこのような記事を公の場で載せられていることを知らないでしょうが、もし知れば、傷つき、悲しむと思います。
最も傷つくのは、自分の言葉を削ぎ落とされてしまっていることかもしれません。
もしあなたならば、自分の語った言葉を、相手の都合よく削ぎ落とした形で、ブログに公開し続けて貰いたいですか?
イエスは自分のしてほしいことだけを他者にもしなさいと言いましたが、あなたは今後自分のしたことと同じことを誰かからされるかもしれませんし、既にされているかもしれません。
ですが文句を言える立場ではありません。
返事はなくて結構です。
ですが、今後このような記事を書く時に、わたしの言葉を今一度思い出して戴けたならと感じます。
あなたが人に敬意を持っていたならば、このような記事は書けなかったはずです。
ましてや相手はあなたを救おうとして訪ねた人です。
因みにわたしは信者ではありませんが、わたしの亡き母は敬虔なJでした。
信仰が真に人を救うのかどうかは、わたしにもあなたにもわからないことです。
さようなら。
「肝心な相手の信仰や教えの言葉の部分などを削ぎ落としてしまう」ということですが、実際にそれらのことを相手から言われていないので、削ぎ落としているとは思っていません。
大事な部分を削ぎ落としたという証明もできないと思いますが、削ぎ落としていないという証明もできません。
要約文のため、少なからず削ぎ落とし要素はあると思いますが、削ぎ落としていないという証明もできないですから。
一方的に言われても、証明責任の転嫁ということになります。
「彼が自分の信仰を語った部分こそ、この記事で大事な部分であり、信仰を持つ人間が簡単に折れないことを証明する為に省いてはならない部分だと思います」ということを思われるのは個人の自由ですが、どのように不足があるのかが不明瞭です。
削ぎ落としたのだろうと思われる部分や、いわゆる大事な信仰の部分を明示していただかないと、詭弁の範疇になります。
また、「文句を言える立場ではありません」ということならば、どうしてあなたは文句を言えているのでしょうか?
ということにもなります。
不足点や「反証に対する反証」、主張に対する根拠の明示がない限り、感情的な否定という程度になってしまいます。
「信仰」は、再現性と普遍性が絶対ではないからこそ自己欺瞞的に自己説得をなさねばならないものです。
僕としては、自分が語ったことに対してきちんと論証されたアンチテーゼが示された場合、物事に対する理解としてより高い地点に向かうための材料を得たと喜びます。
論理に対しての明確な否定そのものは、競争や勝ち負けではなく、形而上学的理解や発見の材料となるからです。
感情的思いやアイデンティティと、理は別物です。
また、感情が騒ぐ要因となっているものは、不完全な証明・概念に対する執著です。それが、余計な意識的苦しみの原因となっており、救うどころか苦しみの材料になっているというのが本質です。
もし傷つくとすれば、それは意識的概念がもたらした痛みであり、概念への執著がもたらしたものです。
必要な痛みがないと痛みの原因を発見することもできません。
僕は、既に感情的に傷つくという範疇を脱しているので、傷つくことはありません。そしてこの心のみが、証明不要で現実を受け取っているという事実を見切っているので、概念に対する執著もありません。対外的に認めてもらう必要もありません。
ただ「行為が残る」というままに、対機説法的に普遍性と再現性のある理を説いたというのみになります。
敬意がないわけでも蔑ろにしているわけでもなく、また、敵意や害意があるわけでもないのであしからず。
(名無しさんへ。恐縮ながら言語表現によってコメントはフィルタリングされてしまいました)
意志の形成においては、環境要因が大きな比重を占めていますので、傍から見れば迷惑ですが、宗教の領域にいる人達も、その他を選ぶ意志決定要因がないという構造になっています。
過剰に感情が反応するということは、逆説的にそうした宗教絡みの人たちにある意味で心の主導権を握られているという構造にもなり得ます。
なので、現実的に直接接して実害があるのでない限り、そうした人達の状態に心が反応しないように心がけてみてください。
相手がどう傷つこうが、自分が良ければそれで良い。
そういう記事なんだと想います。
あなたが何を言おうが、相手が傷つくことに対して弁明はできません。
つまりそれ相応の報いをあなた自身が伴うということです。
わたしが言いたいのはそういうことです。
相手からの評価や感情は操作することができません。
そしてまた、傷つくという感情的な側面だけで語ることはできません。世の中には、宗教によって生まれた悲しみもあるでしょう。そうなると、そうした宗教の内側にいる人も、自己都合で誰かを傷つけたことになります。
しかし、そうした観念に対する不一致による感情の動きは、形而上学的領域を支えるものとはなりません。
概念や観念への執着よって、怒りが生じているという程度ですので、「傷つくから」といって言葉を留飲することも弁明することも必要もありません。
再度コメントを頂いたようですが、URLを含むものは全て表示させないようにしています。
抜粋で言葉を削ったとされる場合は、再度そうしたお知らせを含まないものを再掲してもらってもいいですが、ひとまず、部分的にご回答しておきましょう。
あなたは、jを間違ったもの”として捉えているため、”脱洗脳”という言葉を使うのではないでしょうか。
でも何故…?あなたにそれがわかるのですか。
それとも、あなたがそこまで”洗脳”に拘り続けるのは、あなた自身が何かに洗脳されているからなのでしょうか。
僕は世のすべての「宗教」を間違ったものとして捉えています。自我を崩壊させて上書きする強制的な洗脳とまではいかなくても、全てが瞬間的な現実、そしてこの「心」以外に意識が向く妄想を含んでいるからです。そして、それは証明不可であり、また、信仰と言われるようなものは「疑いを無理に見ないようにする」という属性を含んでいるからです。絶対確実なものは、信じる必要がありません。
別に僕は洗脳という言葉にこだわりはないですし、概念や観念への執着もありません。
相手がどう思おうが、「そう思っているんですね」という程度で、「正しさの証明をしないとこの心がかき乱される」ということはありません。
洗脳への違和感としては、論理的に解を示しえない二律背反の命題に対して、その一方に執着している様を見るからです。なので、反証等々にきちんとした論証がない場合は譫言にしか思いませんよ。そしてそこに普遍的な絶対性がないならばなおさら「そうですね」とはなりません。
ただ、意志の形成においては、「それまでの環境」によって生じるものであるので、どのような意志を持ったとしても、それはオリジナルではなく、またその意志を持つその人自身にある意味での責任があるわけではないと思っています。
ただ、情報の集合である意志や人格であるならば、その意志の集合、意志の形成に「こんなのはどうですか」という程度で情報を放り込むという感じです。
といっても、それらは外界で起こっていることです。
この心のこととして一切の無駄な苦しみを得ないようにということに対して、完全性を証明し得ない理屈は不要だということです。
文脈が変になるので、途中からの抜粋文になりますが、「親の愛を信じたいと願う切実さがどれほどのものであるのか、あなたにも想像することはできるのではないでしょうか」
ということであれば、愛を信じるということではなく、愛を必要とせずに安穏にたどり着くという方向で考えてみてはいかがでしょうか。親等々は外界であり、外部を条件としています。その空間での解決策を模索するよりも、その空間を飛び抜ければ、「その空間での問題」が問題とはならない、という構造になっています。
愛を欲して快い体感を手に入れるというような構造は、愛が手に入らずにもがき苦しむという求不得苦を生じさせます。
というようなことを理解していただかなくても、僕は安らぎの中にいます。
それは体感領域のため、対外的な証明が不可能であり、なぜそう言えるのか、という言語的証明も不可能です。
しかしながら、安穏の中にいるので「この心」としてはそれで何の問題もありません。
理解させなければ己が心が苦しむというのであれば、その執着と対峙してみてください。
何かを、”間違っている”とするのは、それ以外に選択肢は”在る”のだと、自分で決定づけているからではないでしょうか。
しかし選択肢が、”無かった”ならば、どうでしょう?
例えば、多くの人は”死”、つまり永遠の消滅が存在していると、なんの根拠もなしに想っています。
何故でしょう?
何故、他の選択肢はないと考えるのでしょうか?
でも真実は、違うかもしれません。
実は真実は、”死”のほうが、存在しない、”死”を選択するという選択肢は、”無い”のかもしれないのです。
論理的な「不可知」という帰結によって、「確定的ではなく示し得ない」ということに気づくことはできます。
その中で、「間違いであるかどうか」というところに焦点を当てるのではなく、「『普遍的であり、絶対確実であり、正しい』ということを示し得ないのに固執している」というところには着目できるわけです。
もちろん示し得ないことについては、同語反復的に誤りであるということをも示しえません。
その中で「そのうちの一つ」に限定し得ぬものを無理に信じようとすること、それこそが誤謬であるということをもって、間違いであるとしているわけです。
すべての可能性を統合して抽象化した先に「そのどれが正解かは不可知であるとしても、今、どうあるべきか」というところを見出すことはできます。
返信が遅くなり、ごめんなさい。
「僕は安らぎの中にいます。」とbossuさんは言いましたが、わたしはそれは嘘だと想います。
安らぎのなかにいる人は、こんな記事を書くことはありません。
この記事によって、だれも幸福に辿り着くことはないからです。
わたしは宗教を愛しています。
彼らは、みずからの拷問(贖い)によって、すべてを救おうと信じている人です。
もし、そうでないならば、わたしのなかで宗教とは言えません。
bossuさんにも、それがわかる日が、きっといつか来るだろうと願っています。
この世界は愛がなければ、なんの価値もありません。
わたしはそう感じます。
bossuさんは、人をどれほど傷つけてもこの記事を書かねばならなかったほどの堪え難い不安があるからこそ、この記事を書かねばならなかった。
わたしはそんなあなたの不安を愛しています 。
安らぎについては対外的に示せるものではないので、どのように判断していただいても結構ですが、語ったことはただ語ったことにしかすぎませんし、ある情報入力に対する出力にしか過ぎません。
「僕は」とは表現しましたが、より狭義に示せば「この心」は安らぎの中にいます。
そして、僕は単に哲学的な「理・法則」を示したにしかすぎません。
「AをBであると判断しているものは狂人である」というようなことを論証したわけではなく、「AをBであると考えている中でも、Cによって『AはBである』の不完全性が見えると思うので、解釈可能性を限定することはないと思いますよ」という程度です。
それによって傷がつくとすれば、不完全性を持つ「概念への執著」であり、苦しさの原因は概念への執著です。完全であるのならば外界の反応の認知を理由として傷はつきません。
そしてこの心の安らぎは、概念としての何かが充足しているというものではなく、概念としての不足要因がない、必要とする条件がないという構造に基づきます。よって不安もありません。
愛のお言葉はありがたく頂戴しますが、概念や観念のついた愛は、求不得苦を筆頭とした不満足としての苦(ドゥッカ)をもたらすことになります。
その他者への愛を抽象化した印象として捉え、概念による制限のない形で全てに広げていってください。
bossuさんこんばんは。
わたしにとっては、あなたの”安らぎ”とは”虚構”です。
まるで宗教に洗脳された信仰者が、辿り着く安らぎによく似ています。
人をどれほど傷つけ、悲しませようが安らぎを得ているのです。
『不完全性が見えると思うので、解釈可能性を限定することはない』というのはわたしも考え続けていることだと感じます。
わたしは人類の”肉食”という習慣に不完全性を見出したので”動物性”のものを食べなくては人間は健康になれないという限定を離れ、ヴィーガンとして生きているのだと想います。
わたしは人間の”悲しみ”を何より愛しています。
悲しみはある種の”苦”であります。
わたしはその苦を存在する何よりも愛しているのです。
その時点でbossuさんと話を噛み合わせるのは難しくなりますが、悲しみを愛しているとしても、自分の愛する親の信仰をこういった表現によって公の場で”全否定”されることに、”耐え難い苦しみ”が生じていることが確かです。
話が戻りますが未だにずっと、”選択”とは本当に人類にとって自由なのか、そうではないのか?ということを考え続けています。
それで1981年生まれのわたしが超話題作の「マトリックス」を初めて今三部作見終えたのですが、深く考えさせられるテーマが幾つもこの映画にはあります。
一つはメロビンジアンという男が言う台詞について。
『すべては選択から始まります。』Everything begins with choice.
と言ったモーフィアスに対して、メロビンジアンがこう答えます。
『「なぜ」が唯一の真の動力源であり、それなしでは無力です。』“Why” is the only real source of power. Without it, you are powerless.
多くの人間が、苦しい”何故なのか?”というみずからの問いの果てに行き着いた選択によって、物事を選択しているかというと、ほとんどはそうではないのではないでしょうか。
例えば、また”肉食”の話になりますが、ほとんどの人間は、”何故、人間にどうしても肉が必要なのか?”という問いの果てにみずから肉食を選択して肉食を習慣にし続けているわけではありません。
では何故?多くの人は肉食を”なぜ”の問いなく、それを選択し続けているのでしょうか?
答えは、それが”正しい食”であるのだと、”世間(社会)”に信じ込まされ続け、それをみずからの問いの果てに導きだした答えである根拠もなく信じ続けているからです。
これと同じことが、”宗教”にも言えるのではないでしょうか。
特に”二世”の人たちは、自分の親によって物心付く前から”最も深い洗脳”を受けて育ちます。
そこに”何故?”という問いが生まれる余地が、ほとんどにおいて”ない”ことは、年をとってもなお多くの肉食を正しいと信ずる肉食者たちが証明しているのではないでしょうか。
自分のすべての選択が”何故なのか?”という熟考の問いの結果による選択によって自分がこの人生を生きてきたのか?それを省察するに良いテーマであると感じます。
言語表現には限界があり、直接的に表現することはできませんが、ここでいう安穏とは「『私』の安らぎ」というものではありません。
自我機能が自我機能の内側で安らぐというものではありません。
感情が落ち着くというようなものではなく、また、思考上で納得したり、盲目的に自惚れているから、感情が落ち着いているというものではないのです。
これは論理的な思考領域ではなく体感領域でないと捉えることはできません。
愛というような思いや感情と論理を同一化してはなりません。
そして人格の全てを否定しているわけではありません。
ある人格の中で中心となるものであっても、その部分がより一層の無駄な苦しみを形成し、
論理的な非合理性を持つのであれば、それは個人的感情としての否定などがなくても、論理によって必然的に否定されます。
そうした人格の形成、意志決定にかかわる関数、自由意志については他の投稿でたくさん触れています。
決定論的に考えると、意志の形成において外界からの情報が集合し演算のもととなる関数を生み出しているため哲学的には本人に責任はありません(しかしながら、帰属や帰責について社会的な分野では別の取り扱いをする必要があります)。
こうした構造がある中、個人についての意志形成に仕方のなさがあったとしても、そこで形成された意志、人格、論理については否定要素があれば否定せざるを得ません。
それはその人達の意志の形成に他者からの情報が関わったように、「論理としての可能性」から、他の「外界からの情報」として関わらざるを得ないということになります。
それを感情問題と混同されないようにしてください。
そして思考上で感情が反応するのは、記憶による執著、苦しみのもととなる我執からの苦しみです。
外界の現象は無属性です。それをどう捉え、どう反応するかという自らの関数部分に目を向けなければなりません。
辛い話ですが、良かったら聴いてください。
何故、すべては自らの選択によって生きているわけではないのではないのか?という問いが在り続けるのは、以下のような事実を目の当たりにした時に、どうしても、この選択を自らの選択によって選んだ結果であるのだと信じることができないからです。
(URLは削除させていただきました)
このような拷問地獄の経験をみずから望んで経験する人が本当にいるのでしょうか?
もし、そうではなく、人類はすべてを自分で選択できないのだとしたら、一つの宗教を信仰し続けて死ぬことも同じくみずからの選択によってではないことであるということになります。
つまり、みずからの選択ではないものを、自らが選択でき得ないことに対して、”間違っている”と断定することはおかしいことになるのです。
他者のその選択を”間違っている”とするのは人間はすべてを自分で選択する自由が存在していると信じているからです。
わたしは殆どの人々が動物たちに拷問を与えつづけて生きているこの世界に生きて、すべてがそれを自ら望んで選択しているとは信じたくないのです。
ではどこかで、”エラー”が起きてしまっているのではないのかと、考えることは非現実的な考えだとは感じません。
外界の情報によって形成された意志、人格に対して、その個人の存在自体や全人格を否定しているわけではありません。
その個人を形成するもののうち、ありのままの現実に則さない迷妄たるものに対して、迷妄は迷妄であり、現実は現実であるということを明示しているに過ぎません。
それが宗教的な教義であれ、社会的な主義であれ、それら持っていたとしても、それを持つに至ったプロセスがあり、意志形成に本人は不在であるため、それは本人の自由な意志で決定したことではなく、外界からの情報が収束しただけなので、それによって全ての人格が否定されるというわけではありません。
意志の形成と自由意志から検討した場合、自らの選択においてもその決定要因は全て外界のもので構成されているため、社会学的には本人に責任が及んでも、現実として本人が自由意志の上で作り出したり、採用したものではありません。
ただその中においても、それが形而上学的な領域において、絶対的な普遍性、再現性を持ったものでない場合で、本人がある偏りに執著した場合、その心を苦しめるものとなります。
「心を苦しめることになる」ということは何かしらの自我が主義として採用したり、独断で決めるということではありません。そうなる先験的な法則性が働いているというだけです。
それを示すことと、巷のカタルシス的なものとを同一視されませんよう。
追伸:前にも同じことを言っていたらごめんなさい。
”何故”?わたしがこの世で最も”悲しみを愛しているのか?
それにはちゃんと理由があります。
本当に深い悲しみこそが、何よりも美しいとわたしが感じるからです。
わたしが悲しくてならない人生を自ら選択しているのはその理由があるからです。
ではわたしの母は、違うのでしょうか。
多くの人に”間違っている”と言われ、果てはカルト宗教と罵られる宗教を信仰し続けて死んだわたしの母の人生とは、あまりに悲しい人生ではないかと感じます。
わたしの母が”本質的”に一体なにを求めてJとして死んで行ったのか。
あなたにわかるはずもありません。
1986年にこの世を去ったわたしの母は今でも、どこかの次元でたった独りで悲しみ続けているかもしれません。
何のためにでしょうか。
言えるのは、わたしはただただ、そんな母を愛していますし、誰からも母の選んだ人生を”間違っている”だなんて言われたくはないのです。
一切の形成されたものは苦しみとなります。
そしてそれは、記憶の中にあるものであり、また一般に言う現実に起こっているということも、五感と意識を五蘊によって識知し自我の関数による影響を受けながら心で受け取ったものにしか過ぎません。
他人や記憶の中の誰かを拠り所とせず、目を開ければ何かが見えるというような必ず確認できる理を頼りに自分の足で立ってください。
bossuさんこんばんは。早速の返信をありがとうございます。
昨夜はあなたからの返信に気づかずに寝てしまいました。
どのような種類の”安らぎ”であったとしても、わたしにはそれが愚かなものであるように感じられます。
人間は苦しみがないのであれば、生きている価値などありません。
例えば家畜たちは毎日拷問を受け続けています。
その世界に同じ生命として生きているわたしは、どのような安らぎも在り得ませんし、それを欲することもありません。
愛を感情と誤解なさっていますが、愛は感情ではありません。
愛とは神であり、すなわちわたしたちすべての原点です。
すべてが実は愛なのです。
ですが人間にはそれを理解することが難しい。
始まりも終りもない時間のない世界で、ただ愛が広がり続けているのです。
人間に「無駄な苦しみ」が存在するとすれば、それは家畜が受け続けているような拷問の苦しみだけであると感じます。それ以外で、人間がみずから求めて与えられる苦しみについて何故、他者が「無駄な苦しみ」だと断定できると想っているのですか?
「本人に責任はありません」と何故言い切れるのでしょうか?
”肉食”はわたしにとって社会的な罪に当たると考えています。
似たものでは死刑に賛成する人が多い社会も同じく社会的な罪となります。
この罪(カルマ)に対して、個人個人よりも社会全体で償ってゆく必要があります。
その社会に生きている以上、一人ひとりに責任があるからです。
否定要素がある人間など、ほぼすべてです。
あなたには何一つないのでしょうか?
何故、自分自身の否定要素に目を向けずに、他者の否定要素を公の場でブログで否定することに必死になっているのでしょうか。
何故、わたしは感情問題を訴えているのにも関わらず、あなたは一人の人間の耐え難い悲しみの感情について一切の同情も共感も、理解しようという想いも寄せず、ただただ論理的に説明することしかできないのでしょうか。
「迷妄」だと何故あなたに言い切れるのですか。
ではあなたに言います。
肉食者のすべてが「肉は必要だ」という迷妄のなかに動物を大量に殺し続けて肉を食べ続けています。
その迷妄から覚めたわたしにとって、それは生きる上でまったく必要のない、ただのおぞましい「動物の死体」でしたし、またそれは「自分自身の死体」であり、「わたしの愛する家族の死体」であったのです。
わたしは肉食者の人格を否定しませんが、その”行為”について、最早肯定することはありません。
Jは大量に人々を虐殺し続けているわけではありません。
ですが肉食という行為は動物を監禁して拷問の苦痛のなかに虐殺し続ける大量虐殺の肯定になります。
何故、自分の行いから目を背け、人の行いについて論破しようとしているのですか。
「苦しみ」を否定するならば、すべての生命の苦しみを否定してください。
わたしは「すべては自由である(自由意志のなかですべてを自ら決定している)」と考えるなかに、では何故、終りの観えない生命の拷問地獄がずっと続いているのか?という苦しい問いの狭間にずっと生きています。
Jは誰かを拷問にかけて殺し続けているのでしょうか?
そうでなければ何故、動物を拷問にかけて虐殺し続けている人間たちによってこんな風に否定され続けなくてはならないのでしょうか?
「ある偏りに執着しない」のであれば、人間とは何の為に生きているのでしょう。
何かを特別に愛し続けることから個性や創造性が生まれるのではないでしょうか。
例えば”死体愛好者”によって素晴らしい作品が生まれた時、そこにある苦しみこそが彼にとって、作品を創造するのに必要なものであったのです。
「自分の足で立ってください。」とあなたに言われる筋合いはありません。
あなたこそ、このような馬鹿げた記事を公表し続けるのをやめ、他者の苦しみにこそ、目を向けて目覚めてください。「悲しみこそ」を愛していると言っているわたしの言葉を全く理解して貰えていないようなので、最早、返信は必要ありません。
わたしは「他人や記憶の中の誰かを拠り所」とする人間の悲しみこそを心から愛しているからです。
わたしはただわたしという一人の人間の悲しみを知ってもらいたかったのです。
ですがあなたには、人間の悲しみを知ろうという気持ちがないようです。
わたしに言わせればそのような状態にある人間は、”死んでしまっている”状態にあるのです。
「傷つく」というような部分はすべて感情の領域であり、精神領域です。
よって感情の問題を哲学的領域に持ち込んでいます。
そして同時にそれは広く社会関係性の領域であり、「他者の状態を通じで己の精神の状態を操作しようとする」と言う意味で他者への依存であり、自らの足で立っているということにはなりません。
迷妄や不殺生については他の投稿で触れています。
なのでこの場で再掲することはいたしません。
五蘊苦は、生命が続く限り起こる苦しみです。
しかし、それに執著が加わることで起こる無駄な精神の苦しみが五蘊盛苦です。外的なものに依存することは迷妄です。
たくさんの点において論理が矛盾しています。
怒り、悲しみ、苦しみそのものに良い面はありません。
あるとすればそれを無くすための気づきのきっかけとしての痛みくらいです。
それら感情は、外界を識知し、記憶の中の観念との相違があるとき執著によって苦しみが生まれます。
感情を理解しても理解しただけです。
他者の共感、理解を欲する事自体が他者への依存であり、己が精神の根本解決にはならないというということを知ると良いでしょう。
たとえもし、僕が「理解した」と言えば、「本当には理解していない、理解したふりをしている」とし、「理解していない」と言えば、「理解もできない低俗なもの」であると判断するでしょう。よって詭弁であり、感情的理解を持ち込むのは形而上学的で論理的な領域にナンセンスです。
個性や創造性についても、社会的価値の領域であり、この心(認識する働き)に関しては特に直接的な影響を与えません。
また、「本人に責任はありません」と言う言葉は、社会的にカルト信者とされる人々に対しても適用されるという意図をもったつもりですが、そうした点も伝わっていないようです。
ある主義を持つ人、それに固執し執著する人たちについて、社会的な非難を与えているのではありません。
意志形成の面から言えば、そうした「観念が生まれること」は、外部の環境によって起こることであり、哲学上は本人に責任がないという構造を持っているからです。
そうした執著が、観念への執著による無駄な苦しみを生み出し、心が苦しみを受け取る要素となるという構造を示すにとどまります。
ある主義の不完全性を示す事自体に対して、「傷つく」ということをもって抑制が求められるのであれば、ある宗教に対して社会的関性の変化が起こることで傷ついた人もいるため、宗教勧誘活動すら抑制されなければなりません。
単純に示せば、親しい人の入信によって関係性が壊れた経験を持つ人は宗教勧誘という活動そのものが継続されていることに傷つくかもしれません。
そうした部分に対して「伝道は正しいから」「真理に基づいた正しい行動をしているのだから」とするのは宗教の教義の内側の論理です。
よって傷つくなどという部分を哲学的な論理に持ち込むことはナンセンス、つまり論理の構成要素とはならないということになります。
この矛盾を突破できない限り、議論にすらなりません。
「お母さんへの愛の渇望と社会的な状態への依存」と「形而上学的領域での論理、再現性、普遍性を持った理」とを混同してはなりません。
以下、他の閲覧者の方の混乱を避けるために少し詳しく記載しておきます。
たくさんの矛盾とは、つまり、延々と述べられている観念への執著、怒りが、そのまま宗教の教義にも適用されるという論理の中、何故か宗教の教義には適用されないというような格好になっているという点です。
狭義にカルトとは狂信的と言う意味を持ちます。
それは原理主義的であり、かつ、不可知領域に当たるものに対して解釈可能性の一つに観念を固定化し、そして他の解釈可能性については排他的な行動を起こすという部分が狂信である、つまり、カルトである定義しています。
換言すれば、「絶対的で確実かどうか」が確認できないような領域で、たくさんの解釈可能性があるような領域において、確実ではないものを「信じようとすること」によって支えようとすること、が第一前提となります。
そして、なぜ不可知領域に対して「真理である」と言えるのかという部分に対して「盲信的であること」であり、主義に従って解釈が分かれるところを他者に強要しようとするところがあれば狂信となります。
これをカルトと定義し、それが宗教領域であればカルト宗教と定義ています。なお、反社会的なカルト宗教については、破壊的カルト宗教と呼んでいます。
「感情的騒ぎには付き合わない」という点と、主義の主張を展開されることは論旨からズレますので、以後、コメントは遮断させていただきます。