「求不得苦」求めても得られない苦しみ

「求不得苦」求めても得られない苦しみについて触れていきます。求不得苦(ぐふとっく/ぐふとくく)とは、読んで字の如く求めても得られない苦しみであり、欲が満たされないことに煩い悩むことです。四苦八苦の七番目の苦しみです。

もちろん求めるからこそ時に思い通りにならず、求めるものを得ることができないという苦しみが起こるという感じになりますが、日常の欲だけでなく生理的な欲求というものもあります。そうした体の都合としての生理的欲求への対応も求不得苦といえばそうですが、どちらかというと生苦(生きる苦しみ)の方になると思います。しかし全て苦しみなので明確に区別する必要はないでしょう。

この求不得苦は、日常でもよく実感のあることだと思うので馴染みやすくわかりやすい苦しみだと思いますが、根本には不足としての「欲」があり、その欲が満たされないことで起こる苦しみ、思い通りにならないという苦しみという感じになります。

それではこの求不得苦について、日常を交えながら心理的に、そして哲学的に見ていきましょう。

欲したものが手に入らない苦しみ

求不得苦は、すごくわかりやすいところで言えば、食べに行こうと思っていたお店が臨時休業だったとか、恋仲になりたい人と恋仲になれなかったとか、お金がなくて買いたい物が買えないとか、そうした感じで自分が不足を感じたりして、対象のものが手に入ったり、何かしら期待した状態が訪れることを望んでいる「欲」に対してそれが満たされないこと全てが対象となります。

根本とたどると欲も怒りも同じものであり、不足を満たすという方向性なら欲、対象を排除したいという方向性なら怒りという感じになります。

「怒りの解消という欲」、「欲の解消としての怒り」という感じで考えれば視点の違いくらいしか無いという感じを理解しやすくなるでしょう。

では、世に想像される「欲」や「怒り」は全て悪いものなのか、ということが疑問として浮かび上がってきます。

「あの人は欲深いから悪い人だ」とか、「あの人は怒りっぽいからきっとロクでもない悪人だ」といったような感じです。

しかし日常ではそうした善悪基準、倫理的な視点で欲や怒りが語られたりしますが、求不得苦にしろ、怨憎会苦にしろ、結局は「それは思い通りにならないという苦しみである」ということを指しています。

善だとか悪だとかそうしたことではなくて、「この心にとって苦しみとなる」というところがキーポイントです。

傍から見ていて欲深い人を嫌な目で見るということもありますが、他人事などどうでもよく、欲が自分の心を蝕んでしまう、それが求不得苦です。

「欲したものが手に入らない」

そうしたことが起こるには、大きく見ても2つの要素が必要になります。

それは想像にたやすいですが、「欲すること」と「現実としてそれが手に入らない」ことです。

更に分解して考えると、「欲すること」にはもちろん合理性の検討なども含まれつつ自然発生的な「動機」が必要になります。そしてその動機はどうして生まれたのか、というところから具に観察していかねばなりません。

一方、「現実としてそれが手に入らないこと」についても、「それがそれであるという認識」とか、「欲の内容との照らし合わせ」などが必要になります。

妄執・渇愛 渇望のタネ

最低限の生理的な「体の求めに応じてやらされていること」は生苦という感じですが、求不得苦は、生理的な欲求の範囲を超え、意識的に「手に入れたい」と思う欲の範囲になります。そしてそれら欲についてはもちろん動機の発生があります。

ではそうした動機発生の要因は何なのかということになりますが、もちろんそれは今まで培った体感記憶やそれを思考上で取り扱うことといった形で形成されています。

妄執(もうしゅう)・渇愛(かつあい)と呼ばれる、Taṇhā(タンハー)は、「のどが渇いた時の感じ」のようにそれを求めることを意味します。この妄執・渇愛は、根底は生存本能でありながらも、意識の奥底に体感の記憶として保存されている多種多様な成功体験や失敗体験が要因となって発生しています。

「褒められて育ってきた」という人は、褒めてもらうことが嬉しくてたまらないという快感の成功パターンが形成されています。だから、嘘でも褒めて欲しくて夜の街に行ったりするという感じになります。

みんなから「かわいい」と言われ評価されることに喜びを感じた人はそれにしがみつきます。そうした評価を受けることが体感としての快感となっており、そうした評価を受けないことは嫌な体感を呼び起こすものとして形成されているという感じになっています。

持ち上げて叩き落とす自我

よく有名になった後で下火になり、精神疾患に陥ってしまう人がいますが、それは他人からの評価に喜びを感じさせられていて、それがどんどん叶わなくなってきたからこそ不快感が増し、限界を超えたところで精神がおかしくなるという感じで捉えれば簡単に理解することができます。

まあ単純に言えば、「持ち上げるだけ持ち上げておいて、ある地点に達したら奈落の底まで叩き落とす」という感じになります。

そうなると、様々な快感・快楽、そしていわゆる夢のようなものすら、その嬉しさの体感が執著を呼び起こし「後に叩き落とす」という苦しみの布石にすらなります。

よく「結婚は詐欺である」という感じで捉えられることがありますが、それはまさに「持ち上げるだけ持ち上げておいて、ある地点に達したら奈落の底まで叩き落とす」という感じの要素でいっぱいです。結婚前に夢を描いていた理想の生活とは裏腹に、お互いに意図せず裏切るような形で、別の人間になってしまったりします。別々に住んでいた人たちが一緒に住んだりといった感じで環境が変化するので、人格が変容してしまうのは当然なのですが、経験則的にお互いがお互いに期待を寄せている分、そうした変化に困惑したりします。

「期待させるだけ期待させておいて活動させ、ある程度期待が叶ったら奈落の底まで叩き落とす」

というのがアイツこと自我の基本です。

ただ欲するように仕組まれているだけ

求不得苦、つまり求めても得られないという「思い通りにならない苦しみ」は手前に、妄執・渇愛・渇望があります。そしてそれらのタネは、嬉しかった体験、怖かった体験などから発生しています。

タチが悪いのが、「嬉しかった体験」を元に苦しみがやってくるということです。

嬉しさ、楽しさ、面白さが、そのまま「以前とは違う」とか、「もう一度経験したいのにそれが叶わない」という印象を作ってしまうという感じです。

以前は美味しかったお店の料理が、不味くなっていたという感じでも捉えることができます。

自分の中では「いつもの味」を求めて嬉しくなりたいからそのお店まで行くという行動を取ったのに、いつもの味が出てこない、と。

そしてそれは、単純に料理の作り方が変わったとか素材が変わったというような「お店の方針が変わってしまった」というパターンもありながら、自分自身の加齢による味覚の変化、内臓の状態といったこの体的なもの、そして「一緒に店に行った人が鬱陶しい」といった間接要因など様々な要素があります。

では、そんな美味しい料理が原因となるのだから料理自体が苦しさの元凶なのか、嬉しい体験自体が苦しさをもたらすのかということになります。

が、本来すべての現象は無属性であり、その経験もその瞬間に流れていきます。ということで、苦しさは対象との接触が素因とはなりますが、それを記憶の連続性で捉えてしまうところに苦しさの原因があります。つまり執著です。

そう考えると、様々な動機や動機に基づく行動は、体感記憶を元にただ欲するように仕組まれているだけであり、それを満たしたところで束の間の安心や満足しかもたらされないという感じになります。

手に入っても束の間の充足

世の中では「価値」や「評価」として、社会的な都合の良さが基準になっていることがあります。しかしながらこの世界を捉えるのはこの心という間口しかなく、「この視点」からしか見渡すことができません。

そのような中、動機が起こって何かの行動を起こし、それを叶えたとしましょう。

「で?」

という感じがしないでしょうか?

確かにその瞬間は嬉しい体感がやってくるかもしれません。

その上で、

「で?」

と考えてみましょう。

社会的に評価されるとかそうしたことは、「その評価をもって自分が嬉しい体感を得ている」ということになり、自作自演の領域です。

ということを踏まえて、我が事として、この心のあり方として、

「それで?」

ということをとことんまで考えてみましょう。

アドルフ・ヒトラーに告ぐ

ということを、仮にアドルフ・ヒトラーを元にして考えてみましょう。一応近代の歴史上の人物実際の彼がどのような人だったかは知りませんが、一般に想像されているアドルフ・ヒトラーを元にして少し考えてみましょう。

不倶戴天の敵を殲滅したとしましょう。それで、優秀な民族だけの国家ができたとしましょう。

「で?」

という感じがしてこないでしょうか?

「その思いは彼の心を苦しめていた」

というものしか残らないはずです。

彼が夢見た世界、それが実際に叶ったところで、

「で?」

という感じになってしまいます。

そうなると、そうした夢自体が無ければハナからその苦しさはなかったということになります。彼の場合は、怒りとしてそれが出ていましたが、結局思い描いた世界を求め、それが現実になっていないという求不得苦の領域になります。

それは強烈な動機と行動力を生み出しますが、叶ったからといってマイナスがゼロに戻るだけです。マイナスがなければ、それを埋める必要もないということには気付いていなかったという意味で、「天才でありながら史上最大の憐れな愚者」ということになります。

ただ、彼への非難の前に、なぜ彼がそうした夢を抱いたのかという方が肝心です。何も無いところからは何の発想も動機も生まれません。それを棚上げして、彼を悪人だとして終わらせるのはもったいないという感じがします。無差別テロカルト宗教にしてもそうですし、原理主義過激派にしても同じです。

その行動の結果の社会的評価などではなく、その心にとってどうあったのかとか、その動機や発想はどうして生まれたのかというところを捉えていくほうが良いでしょう。

自由意志などあてにならない

良心への期待というのもいいですが、所詮自由意志などあてになりません。ナチスは暴力で支配したわけではなく、一応民主主義の下成り立っていたので、民主主義の欠陥も自由意志のなさや良心の曖昧さについても良い示唆を与えています。

関係性で生じている世界において、万人の恐怖心が、姿かたちを変え、ある人の地点に集合してその人の人格を形成したという感じで捉えておくほうが無難です。

何かを叶えて「やったー!」となってもその瞬間だけ。そしてその後の未来を想像する時に快い程度のものです。

生存本能が姿かたちを変え、過去の体感の記憶から動機を生み出し、それに対応して生きているだけであり、そのような構造の中「求めても得られない」という苦しみを与えてきます。

生存本能が姿かたちを変え体感記憶を頼りに「それを求めなさい」と命令してきて、それを叶えたところで束の間の充足しかもたらされず、さらにそうした経験を次には比較の材料として利用してきます。

そしてさらなる苦しみを与えてくるという感じになっています。

嬉しい体験を材料に

「求めるものを手に入れることができない」という感想を持つためには、記憶と想像が必要になります。

記憶があって、その方向性で快感を得ようとする発想が生まれてきて、「どうすればよいか?」という想像が生まれてくるという感じです。

ということで、嬉しい体験すらもそれが記憶となれば、対象を比較して不満をいだいたり、自分は満たされていないという感想を持つ「求不得苦」の材料となります。

欲に対する対峙の仕方

生きているということは欲があるということになります。生存本能が働いているということは生きるエネルギー、生きようとするエネルギーがあるという状態であり、それに対応して欲は自然に発生します。

「欲を消しましょう」「欲を無くしましょう」なんてなことを言っても、思考で欲を生み出しているわけではなく、無意識領域から欲は発生し、「思考」はそれをどう解決するかということを検討するツールにしかすぎないという感じで捉えてみましょう。なお、ある動機とある方法論が関連付けられており、あまり意識することなく行動を起こすということもあります。

欲による苦しみを解決するには、欲を満たすか欲を無くすかという感じで捉えられたりしますが、「欲を無くしたい」ということ自体が一種の欲であるという矛盾があります。

欲を満たそうとしても束の間の満足しか与えられず、また不足を生むという構造があり、際限なく欲を満たす条件が高まっていくという形にもなりえます。ということで欲を満たすということは、薬物中毒と同じような構造になっています。

一方、欲を消し去ることと我慢することが同じように扱われると悲劇を生むことがあります。我慢による不完全燃焼が後に欲のエネルギーの爆発を生むことがあるからです。

「欲は苦しみを生む」ということを理解しているのならば、快楽や快感は欲の原因となり、苦しみを生む素因となるということがわかってくるので、どんどん特に何も欲さなくなってきたりします。しかしその裏に「我慢」があればそれは似て非なるものとなり、エネルギーを抑圧するだけになってしまいます。

こうした逃れ難き求不得苦の苦しさに対しても、この瞬間への集中によって自我の働きの本質を見破ることが最も適しています。

思考上で欲の良し悪しを検討したりしても徒労に終わるはずです。「欲を無くしたいという欲」というように論理上の矛盾がたくさん出てくるからです。

ものを欲すること、手に入れること、手に入れられないことは、「この心としては苦しみを受け取ってしまう」とどう関係しているのかというところを動機を観察して、本質を見破っていくしかありません。

そしてこれら全ての苦しみは、生きているからこそ起こり、対象に触れてしまうことから起こります。

それについては、五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦)で触れていきます。

四苦八苦 あらゆる苦しみ

一切行苦

Category:philosophy 哲学

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