永劫回帰(永遠回帰)とは、「この生が何度も何度も繰り返されるとすれば…」ということをもって今の生を肯定する試みであり、ニーチェがルサンチマンやニヒリズムを脱却するものとして考えた思想になります。
所詮思想の範疇であり、思考実験のようなものでもありますが、西洋文化の中で考えうる思考の限界だったのではないでしょうか。
この概念は、独語の「Ewig Wiederkehren」が訳された語なので、永劫回帰とか永遠回帰というふうに表現されたりしています。なんだか名前がかっこよくて陶酔してしまいそうになる人もいるかもしれませんが、永劫回帰思想は難しく書いてありそうで簡単ですので軽く触れておきます。「狂人と言われるニーチェはそんなふうに考えていたのかぁ」くらいに思っておいてください。
もちろん僕は「ニーチェで生計を立てている人」でもニーチェマニアでも何でもありませんが、サイト内検索で検索履歴がちらほらあったので、リクエストだと思って永劫回帰(永遠回帰)について触れていきます。
まあニヒリズムやルサンチマンについて触れていたので、どうせならそれらを補完するものとして永劫回帰についても書いておこうかなぁと思った程度であり、特に永劫回帰(永遠回帰)思想にとらわれているわけでも何でも無いのであしからず。
またまた基本的なことについて触れつつ、ついでなので永劫回帰(永遠回帰)という発想から何をどう掴んでいくべきかということを勝手に書いていこうと思います。
永劫回帰(永遠回帰)までのプロセスと
ニーチェなりの到達点
永劫回帰(永遠回帰)は、いわばニーチェなりの到達点であり、それに至るまでのプロセスは簡単にわかりやすく示すことができます。
- 何としてでも「生きる」ということを肯定したかった。
- しかし生を謳歌しているローマ人に対してキリスト教を筆頭とした宗教は、「本当は違うんだ」と来世への期待や神学基準でこの生を肯定しようとした。本当の本音を言うと充実した人生を味わいたいにもかかわらず「アイツらは気づいていないけど、本当に正しいのは私達なんだ」ということでやりごしている(ルサンチマン)。それは今の生の肯定にはならない。
- 一方哲学の分野でも、ペシミズムやニヒリズムという「生の否定」がガチガチに論証されている。懐疑論や機械論や予定説を覆すことは難しい。「どうせ全部無価値なんだ、だから意味なんて無いんだ。この生には意味も価値もないんだ」というニヒリズムを覆せそうもない。これでは完全に今の生が否定されてしまう。
- 神への期待でも無価値でもない、生きていることを実感できる力強さはどうすれば感じることができるのだろう?どうすればこの今の生を肯定することができるのだろう?
- (思考実験)質量の保存と無限の時間の中では、もう一度この瞬間と同じ瞬間が繰り返しやってくるのではないか?経験は一回限りではなく、この瞬間が無限の時間の中で何度も何度も繰り返されるとすれば、今のこの瞬間を肯定することができるだろうか?「この時間を耐えて終わり」とはならず、それが何度も経験としてやってくるとすれば、今の自分はどうあるべきか?その感覚、そこで湧き上がる感情こそが、今のこの生を肯定することになる!
という感じです。
で、永劫回帰という言葉は輪廻転生と混同しやすいこともあるようなので違いについても書いておきます。
永劫回帰と輪廻転生は全く異なる概念
永劫回帰は、単にこの宇宙において質量が保存され、そして時間が無限であるのならば、いつかは全く同じ状態になるだろうという発想から来ています。
「時間が無限ならば可能性的にはあり得るだろう」ということがキーポイントです。
そして、あくまで同じ状態になったのならまた「この自分」が同じ経験を認識するだろうという仮定で話が進んでいっています。
一方、輪廻転生の方は、基本的にはバラモン文化にあるヒンドゥー教などの発想ですが、エネルギーが保存されるのであれば、肉体が滅びても「生きたい」という意識的なエネルギーが消えるわけではないので、どこかの肉体に宿るだろうというような発想から来ています。
それでそのエネルギーの質に応じて生まれ変わり先が変わるという発想です。だから金持ちは前世でも金持ちであり、悪人は前世でも悪人だという発想が出てくるのです。
以前の状態が今の状態に影響を与え、今の状態が次の状態に影響を及ぼすという因果律的な発想の上で、「影響を持ったまま生まれ変わり、別物になる」というのが輪廻転生の発想です。
永劫回帰という発想自体は、「今のこの瞬間を何度でも繰り返すとしたら?」というようなものなので、いわゆる輪廻思想とは全く異なるものになります。
「未来への期待」と「今の絶望」から脱却し、今の生を肯定する
まあニーチェとしては永劫回帰という一種の思考実験によって「今の生を肯定したかった」という感じになります。
その背景には、強者に嫉妬を覚えながら宗教的妄想によって「本当は素晴らしい私達」という形でやり過ごしたりする人たち、そして「どうせ何をやっても意味ないんだ」という無気力状態の人たち、その両方を否定し、生きている今を肯定したかったという感じになるのでしょう。
ルサンチマンの洞察
ルサンチマンに関して触れている時は、羨みながらも来世や天国などへ期待を寄せたりしつつ、「本当は自分のほうがすごいんだ」といって自尊心を補っていた当時の世の中へのアンチという感じです。
これは、宗教的な諦めをよりどころとせずに生きるということを肯定したかったということになります。
「スケベ心をもっているくせに、証明し得ないことを根拠かのように思い込もうとして無理すんなよ」
という感じです。
現代で言えば、実は金持ちを羨んでおきながら、「世の中は金じゃない」といって、先祖の墓参りなどに行っている自分を誇らしげに思うような姿に似ています。そうした中、おそらく目の前に大金が積まれればすぐに意志がぐらつくはずですし、もし絶対にばれないとわかれば不正行為も働くでしょう。
もちろん本来大切なものはお金だけではないのですが、それを欲しておきながらそれを隠し、稼げない自分の非力さを見ようともせずに、自分にとって都合の良いように解釈変更を行って自らを慰め、「良いことをしているのだから来世は良い所にいけるはずだ」などと妄想してやり過ごしているような人をニーチェは弱者と呼び、その発想を奴隷精神と呼びました。
「こいつらと同じ発想をしてると、僻み根性のままになってしまう」
という感じで、そういう発想は違うだろうということで別の考え方を模索します。
ペシミズム、ニヒリズムなどへの洞察と展開
一方、両極端とも言えるような発想が、ペシミズム、ニヒリズムといった西洋哲学の発想です。
頭で理解できる範囲、考えられる範囲で考えていったとすれば、「価値なんて相対的なものだし、絶対的にあるようなものではないなぁ」というような発想にいきつきます。
しかし、それは覆せないようなものでありながら、その行き着く先は絶望であり、「どうせ、どうせやっても無駄なんだ」という感じの生の否定のようなものになります。
まあだいたいは、
「生きている意味を探してもどうせそんなものはない。だから生きていることにも意味はないんだ」
というような結論に達してしまいます。
ただ、ニーチェとしてはとりあえず、生を肯定したかったという感じです。
それはもしかすると「生きていることを実感したい」というような本能的な騒ぎだったのかもしれません。
「生きていることには、意味も価値もない」
それをそのまま論理で覆すことは極めて難しい、ということになるので、グズグズ感満載のニヒリズムを受動的ニヒリズム・消極的ニヒリズムとした上で、「何にもないって事、そりゃあ なんでもアリって事」という能動的ニヒリズム・積極的ニヒリズムの方に考えが向いていきます。
この世に期待しながら結局絶望だという雰囲気を持つペシミズム(厭世主義)や「どうせどうせどうせ…」という悲観的なニヒリズムは、グズグズしていて嫌だという感覚のほうが強かったのかもしれません。
「誰も、生存の、労働の、ましてや『幸福』の権利を持ってはいない。個々の人間に関しても、事情は、最も低級な蛆虫に関してとなんら変わることがないのである」(「権力への意志」 759 ちくま学芸文庫ニーチェ全集13 原 佑(はら たすく) 訳)
何とかして論理が曖昧な宗教にも頼らず、絶望に追いやるような哲学から脱却し、この生を肯定したかったニーチェとしては、「では、どう考えればよいのだろう?」ということで思索を巡らせていきます。
そこで出てきたのが永劫回帰(永遠回帰)です。
これが人生か!
よし、それならば、もう一度!
まあどちらかというと感覚的なものになりますが、この現実、本質的なこの現実、今に切り取ったこの瞬間を肯定できる感覚や感情、今のこの生を肯定しているという感覚や感情こそが生の肯定だということでニーチェの中で決着が着きました。
「この今の瞬間を永遠に何度も何度も繰り返すとすれば、この瞬間が再び訪れることから逃れられないとすれば…」
という思考の先に
「じゃあこの瞬間を肯定しよう、肯定できる今にしよう、これこそが今を生きているという感覚であり、今を生きようとするこの感情こそが生そのものだ!」的な感じで、無理な宗教的盲信や哲学的絶望から這い上がったという感じになるでしょう。
権力への意志の中の永劫回帰(永遠回帰)
永劫回帰がはっきりと登場するのは「無神論の聖書」なんて呼ばれる「ツァラトゥストラはこう言った」ですが、ここではニーチェの遺稿集、権力への意志(Der Wille zur Macht)に登場する永劫回帰(永遠回帰)について触れてみましょう。
永劫回帰と権力への意志をよく表しているのは次の部分あたりです。
「この最も偉大な哲学的観点。すなわち
a)生成の、発展のそれ。
b)生存の価値から観たそれ(しかし、ドイツ的ペシミズムという憐れむべき形態がまず超克されなければならない!)―
この両者は私によって決定的な仕方で統合された。
すべてのものは生成し永遠に回帰する、―
このことからのがれでることは不可能である!―
私たちが価値を判定することができるとすれば、このことから結果するのは何か?
力に奉仕するところの、精選しり原理としての回帰の思想(そして野蛮!)。
この思想にふさわしい人類の成熟」(「権力への意志」 1058 ちくま学芸文庫ニーチェ全集13 原 佑訳)
そして次の項目で次のようなことが語られています。
「(1、2 略)
3 この思想に耐える手段、すなわちすべての価値の価値転換。
快感をおぼえるのは、もはや確実にではなくて不確実性。
もはや『原因と結果』ではなくて、不断に創造的なもの。
もはや保存の意志ではなくて、権力。
もはや『すべてのものは主観的であるにすぎない』と謙虚に言うのではなくて、
『これもまた私たちの作品!― 私たちはこのことを誇ろう!』と言うこと」(「権力への意志」 1059 後半抜粋 ちくま学芸文庫ニーチェ全集13 原 佑訳)
「権力への意志」の1058、1059の最後あたりに永劫回帰(永遠回帰)と権力への意志がはっきりと示されているという感じです。
ニーチェの遺した概念のため、訳者敬称略で一応引用しておきました。
永劫回帰(永遠回帰)はこの生への一種の観念
永劫回帰(永遠回帰)を捉える上で、注意すべきはあくまでこの心が今を捉え生をどう感じるかということに関する一種の観念であるということです。
まああまり起こらないとは思いますが、科学偏重主義の人たち、とりわけ唯物論者なんかは物理学とかそうした概念を持ち出して「永遠に回帰するわけがない」ということで別次元で批判に持ち込もうとするかもしれません。
しかし重要なのは現実的に物理世界でどうこうというわけではなく、この思考実験や哲学的施策の中で起こる意志のあり方、「生きる」ということに対する感覚や感情のあり方についての提案だという感じで捉える必要があります。
あまりに自然科学的に考えてしまうと、その観念の中に秘められた重要な示唆を見逃してしまうことになります。
それはドラえもんを楽しめないのと同じです。
この心とは何なのかについては触れていない
ただ、そうして永劫回帰について考え、権力への意志や力の感情と呼ばれるものを発見することはいいですが、この心とは何なのかについては触れていないという面は見逃すことができません。
例えば永劫回帰において、「無限の時間の上では、今現在と全く同じ状態になりうることもあるだろう」というのはいいですが、全く同じ状態になることがイコールで「この心」がそれを捉えるかどうかについては触れていません。そのあたりは「解釈可能性の一つとして一応考えてみた」程度のものです。
「無限の時間の中で繰り返される『全く同じ状態』なら、その時と全く同じようにこの心がそれを捉えるのではないか?」
という感じです。それは期待や妄想、思考実験の範囲であって証明のしようのない範疇になります。
ただ、ニーチェとしては、そうして考えることで、来世への期待といった現実逃避や「僻み根性の解釈変更」を否定し、またこの現実への絶望にもとらわれること無くそれらを乗り越えようとしたという感じになります。
まあ宗教汚染された西洋における哲学の範囲で言えば、最も考え抜いた人物の一人であり、自力でなんとか這い上がった「愛すべきバカ野郎」と愛を込めて評価しても良いのではないでしょうか。
積極的ニヒリズム(能動的ニヒリズム)という一種のパラダイムシフト
ただ、永劫回帰(永遠回帰)からつながっていく権力への意志や超人思想は、ともすれば「ニヒリズム」で触れていた「一生懸命がカッコいい」といった「体育会系解釈」がなされてしまうことがよくあります。
ルサンチマンを否定し、消極的ニヒリズム(受動的ニヒリズム)を否定し、積極的ニヒリズム(能動的ニヒリズム)という一種のパラダイムシフトが起こると、「価値は自分で決めろ、力強くあれ!」という人生哲学を説いているのではないかというレベルで解釈されていくような感じです。
それはそれで、常識に縛られて踏み出せずにいる人、不服そうに生きている人、僻み根性を持つ人やカルト宗教にハマってしまうような人、絶望から廃人状態になっている人にとっては少しはマシな意識状態にしてくれる良い薬になるのかもしれません。
しかし、単なる積極的ニヒリズム(能動的ニヒリズム)という概念は、哲学としてもまだ不完全です。
なぜなら、あくまで「我が為す」という仮観の世界観を前提としていたりするからです。
我が為すという仮観の世界観
一つの視点、一つの立場として、意志決定における指針として、権力への意志の感覚を利用するというのはいいのかもしれませんが、その視点はまだ我が為すという仮観の世界から見る視点です。
「『私』はどうあるべきか?」
の領域です。
だから他人がもたらす常識に縛られたり、嫉妬の感情を持ちながら解釈変更・基準変更したりして自尊心を高めようとするよりはいくらかマシですが、我に縛られている感があります。
その我という概念すらも、我以外から形成された朧気なものであり常に変化しているのでそれが何かを示すことすらできないという中、「我によって我を突破する」という感覚で考えていたりします。
根本的な動機が「この生を肯定したい」という、アイツこと自我がいかにも騒ぎそうな分野になっています。
という感じなので、そのあたりは諸法無我あたりをご参照ください。
ルサンチマンとニヒリズムを突破した永劫回帰から超人思想へ
本来は触れても仕方ないような永劫回帰(永遠回帰)ですが、ニヒリズムやルサンチマンについても触れていたので、あえて軽く触れてみました。
その先はどちらかというと権力への意志、力の感情、超人思想として示したほうが良さそうなので、また改めて別の機会に触れることにしましょう(書いてみました→超人思想と力への意志(権力への意志))。
ルサンチマンもニヒリズムも永劫回帰(永劫回帰)も、力の感情・権力への意志も超人思想も、所詮と言ってはなんですが、主義・思想、思考実験の範囲になります。西洋哲学的な限界を知るという意味では、一度くらいは考えてみてもよいのかもしれませんが、もちろん考える必要はありません。
もちろんニーチェの遺した意味を正確に示せているかどうかはわかりませんし、よりよく知っている人も世界にはたくさんいるでしょう。
ただ、ニーチェを知り、理解したからと言って「それがどうした」ということには変わりありません。
仮に「ルサンチマンの概念をよりよく知っているから、知らない人よりもエライ」ということが起こった場合は、まさにルサンチマンの概念で示されていたような「弱者の怨恨感情による基準変更」そのものであるという落語のようなことになってしまうということには注意しましょう。
仮に「ニヒリズムのことをよくわかっているから自分はすごい」と思ったのなら「無価値なんじゃなかったの?」ということにもなります。
そんな感じで何かに対抗し、何かよりもすごくなければならないという感覚は「すべて恐怖心から起こっている」ということをありのままに観て、その感覚や感情の源流を見破ってこの心の安穏を見つけてください。
最終更新日:
「エネルギーが保存されるのであれば、肉体が滅びても「生きたい」という意識的なエネルギーが消えるわけではないので、どこかの肉体に宿るだろうというような発想」としての
輪廻転生について、bossuさんから見て妥当性がなかったり、変だと感じる部分はありますか?
また、悟りについて、預流果や阿羅漢に至る過程としては、思索にふけること(読書なども含めて)や種々の瞑想で十分だと思われますか?(bossuさんが阿羅漢だと仮定しての質問ですが。)
最後に一応の確認ですが、記事の内容と必ずしも完全には一致しないコメントをその記事の欄に投稿してもよろしいのでしょうか?(例えば今回の二番目の質問など。)それともコンタクトの方がよいのでしょうか?
コメントどうもありがとうございます。
完全には一致しないコメントであっても、「哲学テーマに哲学的な内容」というような感じで、ある程度の一致性があれば特に問題はありません。
輪廻転生については、推論としては一つの可能性を示すものではありますが、いくら厳密に語ろうとも確認し得ないことなので、それを確定的に説くという場合には何かしらの都合による執著の気配がしてしまいます。
妥当性についてですが、生きたいというエネルギー自体が、肉体を含めた外界から形成された状態によって生ずるものであるため、私事といえば私事、他人事といえば他人事という感じになります。
ということなので、対外的には自分の内ではありますが、見方によれば自分が生み出したものではないため、解釈可能性の一つである輪廻転生と絡めて、確認し得ない前世や来世、悪業という「概念」をぐるぐる思考するということには違和感を感じます。絶対性は帯びていないため、絶対視することは概念への執著となります。それは瞬間で切り取れば今の意識的情報状態にしか過ぎませんからね。
さて、具体的な四向四果についての言葉が出ましたので、参考程度に軽めにだけ触れておきますが、思索によって思考の限界に達すると自然と預流果に達すると思います。
しかしそれは思考上の理解というものより、思考の限界に達したとき、情報空間が一種の空白となり、変性意識が解け、いわば物理のみ臨場感が最大になる瞬間を経験することになるからという格好になっています。
ただ、様々な既存の哲学的概念や種々の信念への執著、とりわけ宗教色を帯びたものは、そうした限界への到達を阻害します。なので「なんで病」の幼児や小学生くらいの純粋な哲学的思索が必要になると思います。
また、瞑想と称されるものは、逆に意識的空間への没入という意味で夢の中に入るようなものとなってしまい、危険が伴います。
意識的妄想が暴走してしまい、現実と仮想空間の境目がなくなってしまうという感じでカルトでありがちな状態になってしまう恐れがあります。
それでも睡眠中の夢から覚めた瞬間、夢が夢だったと理解しながら、我の意識が絡みつく日常の思考が起こるまでのほんの一瞬のような感覚が起こると、そんな妄想が妄想であるということが理解できるので大丈夫ですが、基本的には危険です。
やはり何だかんだ言ってもヴィパッサナーのみが安全で確実という感じになりましょう。
言語で示すのはこれくらいが限界になってしまいますので、この程度とさせていただきますが、言葉にはとらわれないように注意してください。
ありがとうございました。