「死苦」死ぬ苦しみ

「死苦」死ぬ苦しみについて触れていきます。四苦八苦の四苦「生老病死」の最後の苦しみである死の苦しみです。死の苦しみについて哲学的に書いていきます。

死苦(しく)とは、死ぬ苦しみ、死の苦しみでありながら、死を迎えることからは逃れられないということを示しています。そして、死苦は、死ぬ苦しみ、死の苦しみであると言いながらも、死そのものは経験し得ないため、より厳密に考えると「死に対する恐怖」や「死にたくないという思い」から起こる苦しみを意味します。裏を返せばこの生や生命への執著がもたらす苦しみです。

まず、哲学的に考えると、「生命としての死ぬ苦しみ」、「死の苦しみ」といったものは、矛盾になります。なぜなら死ぬということは生きていないということなので、その経験を経験し得ないからです。

「死の淵から生還した」ということはあるかもしれませんが、その場合は「死にかけていたが死んでいない」ということになります。そんな感じなので、死を経験することもなければ、経験することがないゆえに理解することもないでしょう。

「4と9は縁起が悪い」などと言われる所以である「死」と「苦」だけで構成されている「死苦」ですが、ある種「死んでいるのであればそれを経験し得ない、ということのであれば、何が苦しみなのか?」ということで色々と検討していく必要があります。

また、一応「思い通りにならない」と言った感じで、死から逃れる事できないという面もあります。どうあがいても死を避けることはできないという感じです。

ということを前提として、「死苦」について考えていきます。

死を想像する苦しみ

一切行苦という理から見ると、一切の形成されたものは苦しみであるということになりますが、死という現象を考えると、形成されたものと言うより「形成が解かれたもの」という感じになります。

死を経験し得ぬということで「『死苦』としての死ぬ苦しみというのは無いのではないか?」と思ってしまいますが、死を想像することで起こる恐怖、未来への想像としての恐怖は「今」形成され得るものなので、そうした恐怖心が一種の苦しみとして考えられるのではないかと思います。

もちろん本来固定的な「我」自体が無いため、常に死んで生まれてを繰り返しているという感じで捉えることもできます。

そういうわけで、一般的に想起される死、「我」の「生命としての死」というもの自体が頭の中で起こる現象としてしか形成され得ないという感じになります。

もちろんそうした想像は、今までたくさんの死を観察してきたということを含め記憶や予測が原因となって起こります。

人を含め様々な生き物が死んでいく様を観察して、帰納法的にいつか死ぬと知り、演繹によって自分も死ぬと考えるという感じです。

しかし、いくら考えようとそれを乗り越えることはできません。

死を想起し、死に恐怖を覚えたところで、何をどうすることもできないのです。死は常に潜んでおり、高齢になったからといって身近になるようなものでも何でもなく、全ての生き物が可能性として持っています。

といっても、本来は「今この瞬間」しかありません。今この瞬間すら「そう感じている」といった程度で、「ある」とするのすら怪しいくらいです。

そんな中、今起こっていることでも何でも無い「死」を恐れ、それに感情が苛まれたりします。

すべてが消えていく虚しさ

おそらく死を想起する中、最も中心となる恐ろしさは「すべてが消えていく虚しさ」ではないでしょうか?

幼少期からの思い出、様々な経験や対人関係、残してきた功績のようなもの、その全てが「消える」ということへの恐怖です。

築き上げてきたものも、誰かのために何かを為してきたことも、誰かに何かをしてもらったこともすべて消えていくという感じです。

我慢して、苦労して成し遂げた何かも「何にも無かったこと」になります。愛しい人との素晴らしい毎日も全てが「何もなかったこと」になります。

しかし、その構造から逃れることはできません。そして、何か社会に働きかけ、功績や名が残ったとしても、自分はそれを認識することがありません。

「せめて自分が生きていた証として名前と名誉だけは残したい」と思い、生前に何かを働きかけたとしても、それは生きている間の想像の範疇であり、死後はその残ったものをこの心は認識し得ないので、結局「何も残らない」ということになります。

僕は同級生が過労死した時などを含め、誰かが死ぬたびに「それまでのみんなの愛情も、手間暇も全てが意味なしになったのだなぁ」と思ってしまうことがあります。「学校での勉強や習い事や同級生と遊び回ったこと、将来を語り合ったことも全て意味なしになるのだなぁ」という感じです。

もちろんその人を「情報」として考えるのなら、「誰かの記憶の中では生きている」というようなことにもなりますが、それ以上その人とはコミュニケーションを取ることが無いということになりますし、いろいろと尽くした結果は全て台無しになるのだな、と思ったりもしてしまいます。

しかし、それは「連続性」を考えたからこそ起こる思考です。

諸行無常であり、全ては常に変化していますし、全く同一の状態ということは一度たりとも起こりません。

だから、連続性で考えれば虚しく見えることであっても、それすら一種の妄想であり、あくまで自作自演ということになります。

形成されるものは恐怖感

夢の中で死にかけても死なないのは、死を経験したことがないからと言われることがあります。

「死ぬ瞬間は気持ちがいいらしい」というようなことをいくら言ったところで、その瞬間はまだ死んでおらず生きていますから、死について語っているということにはなりません。

現象として死というものは、その経験を認識し得ないため、それがどういったものなのかいくら考えても想像の範疇を出ることはありません。

しかし、そうしたものを想起することで感情が起こることがあります。いわば死という状態が形成(?)されたとしてもその形成を感受することがないはずですが、そうしたものを想像することで「死への恐怖感」が形成されるという感じになります。

そしてその恐怖感は苦しいものです。そして、いくらそうした感情を思考で克服しようとしてもできませんし、あれこれ考えたところで、そうなる事自体は避けることができない言う感じになります。

生きていることに対するおごりと死への恐怖

死苦は四苦八苦の四苦のひとつであり、仏教としての概念になるため、経典の中から死苦について触れられている点について掲示しておきます。

「愚かな凡夫は、自分が死ぬものであって、また死を免れないのに、他人が死んだのを見ると、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪している―自分のことを看過して、じつはわれもまた死ぬものであって、死を免れないのに、他人が死んだのを見ては、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、―このことは自分にはふさわしくないであろうと、と思って、わたくしがこのように考察したとき、生存時における生存の意気(生きているというおごり)はまったく消え失せてしまった」(アングッタラ・ニカーヤ/増支部経典 中村 元訳)

「『われらは、この世において死ぬはずのものである』という、このことわりを他の人々は知っていない。しかし人々がこのことわりを知れば、争いはしずまる。人々が(ことわりを)はっきりと知らないときには、自分たちが不死であるかのごとくに振舞う。しかし、ことわりをはっきりと知っている人々は、病人たちのあいだにおける無病者である」(サビヤ長老 テーラーガーター/仏弟子の告白 中村 元訳)

自分もいずれ死ぬのに、普段はそれをあまり意識せず過ごしているものの、身内の人なんかが死んだりすると「他人事ではない」ということに気づいて急に「死への恐怖」がやってくるなんてなことがあります。自分はまだ生きているから大丈夫だと思う半面、いずれくる死に恐怖を覚えたり「死にたくない」と思ってしまったり、「死んだらどうなるんだろう」と思ってしまったりするというようなやつです。

そしてそこには「この私」という「この生」に対する執著があります。その執着が死という抗えない者に対して精神的な苦しみを生み出しているという感じです。

恐怖心を忘れるための教義

だいたい世の宗教は全般的にこうした示しえない死後について何かしらの解決策があるかのような演出をして、心を落ち着かせるということをしています。

天国だとか緑園だとか極楽浄土だとかいったような世界観です。

そうしたものは、今現在に起こる「意識の状態」であり、そうした状態を作り出すものも今の恐怖心です。恐怖心をやり過ごすため今現在起こっていないことに対して妄想を巡らせること、それが宗教的な死後の世界に関する教義です。

どうあがいても生きている者が語るということになるので、死後を経験せず、死を経験していない者が語るということになり、死に対するもの、死後の世界に対する教義のようなものは、推測や妄想の域を出ることはありません。

仏教上の「死苦」については、生きている今起こる苦しみであり、死を想起する苦しみであり、「生に対する執著から、生きている今起こる苦しみ」という感じになっています。

まあ死にまつわるテーマなのであえてこうした分野について、そうした教義の主張、そしてそうした思考が起こる構造というものについても少し触れてみましょう。

生命エネルギーと欲とだいたいの宗教に共通している死後に関する教義

欲も怒りも結局胴体は同じであり、不足があると判断すれば欲になり、過剰だと判断すれば怒りになるというような感じになっています。

で、結局生きる力とかエネルギーのようなものは、生存本能なので、欲や怒りの発端となっています。そして生きるエネルギーが尽きる瞬間でも執著によって欲や怒りが残っている状態となります。

そしてエネルギー保存の法則のように、そうしたエネルギーが消滅することはない、という感じで輪廻転生とか天国地獄での生まれ変わりといった発想が出てきます。

エネルギーが消えることはないのだから、欲や怒りが何かと結びつけばそこで生命になるだろうというような感じです。

で、宗教的な発想で言えば、エネルギーはエネルギーだとして、その性質によってどういった形で保存され、再生するのかというような感じになります。

という感じなので、信仰があればとか、心がキレイならば、そのエネルギーの性質は良いものなので、良いところに生まれ変わるだろう、というのがだいたいの宗教に共通している死後に関する教義です。

まあそう思うことで、死を想起して起こる感情を打ち消すという感じになっています。

それでも、これらにはどこか「我」に対する執著があります。

「私は幸せでいたい」という発想です。

固定的な我である「魂」があり、そして魂の状態がデータとして、死後に影響するという発想です。

しかし、「この自分」をよくよく観察すると、体も考え方も環境も全て自分以外で構成されています。

ということで、自分が為したと思っていても、それは様々な情報が自分という地点でまとまり形成されたということになります。

そうなると、自分が能動的に為したとかなんとかいったところで、それは情報が集まってそうなるようになったというだけになり、さらにそれは常に変化しています。

固定的な我が云々といったところで、そんな我は、常に変化し、それも他との関係性の中で今その状態であるというだけになっています。心はただ単なる「認識する働き」であり、「あくまでこの「窓」から世界を覗き込んでいるような構造にすぎないという感じです。

そのような中、なぜ死にまつわる想像を思考で解決しようとするのでしょうか?

考えたところでどうしようもないことなのに、「もしかすると次は苦しいところに生まれ変わってしまうかもしれない」と想像し、恐怖心を覚えているからこそという感じなのでしょう。

意識的であれ、無意識的であれ、死を想像すること自体が苦しみであり、想像がなければ苦しみはありません。「想像してしまうのはなぜか?」ということを脇において、「実際問題としてどうしたらいいんですかね?」なんてなことを思うから霊感商法なんかに引っかかってしまうという感じです。

信念の書き換えと未来についての不完全な論理構造

いくら語ったところで、死を経験した人は一人もいません。経験したという人がいればその人は一度も死んでいない人です。

死を想起することで起こる騒ぎは「迷い」

「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を〈死の王〉は見ることがない」(スッタニパータ 1119 学生モーガラージャの質問 中村元訳 岩波文庫)

宗教においては、「信仰を持てば死後に天国に行くことができる」という発想をよくしますが、それらは全て迷いです。

それは、今現在、今この瞬間に集中し、妄想を妄想だと見破ることで必ず理解することができます。

アイツこと自我が恐怖心を発端として妄想を膨らませている、つまり単なる「迷い」だということが、体感でわかるはずです。

誰がどのように語っても、死後については証明のしようがありません。「それじゃあ一緒に確認しに行きましょうか」といって、再現性を持って確認できるようなことではないからです。あれこれ理屈をこねたところで、絶対的な普遍性や再現性を持ちえない領域です。

問題は「死んでしまうこと」から逃れられないという事実ではありません。生への執著から死を恐れたり、死後の世界に意識が向いて、生きている今、苦しみが形成されるという点です。

「死苦」の本質はそんなところにあります。

「思い通りにならない」ということの全てには、思い通りになって欲しいという望みが前提となっています。

そうした望み、願望自体が迷いであり、そうした望みを持ち、我に執著することで恐怖心が起こること、死を想起して煩うこと自体が煩悩であり、迷いだということになります。

「死苦」と言われる「死ぬ苦しみ」は、こうした迷いから起こる苦しみだということになりましょう。

四苦八苦 あらゆる苦しみ

一切行苦

Category:philosophy 哲学

「「死苦」死ぬ苦しみ」への7件のフィードバック

  1. bossu様、こんばんは。

    前回に言い残した通り、今回は「生死」についてお話しさせていただきたく参りました。

    ちなみにこれは悟りでもなんでもないし、どちらかというと西洋哲学かぶれのコトバ遊びみたいなものです。なので「またアホなこと考えてるなぁ」と思われるくらいで丁度いいので、暇潰しにお聞きください。

    と….予め予防線を張りつつ、本題です!

    さて以前、最後にbossu様からいただいた言葉の中に「生と死という事実は確実に追いかけてきます」とありましたが……

    ズバリ、そうなんです!!
    ◯尾くんのごとく思いました!

    まさに「追いかけてくる」というニュアンスがあまりにもピッタリ過ぎて、なんだかそれが先回りされちゃったみたいで正直驚きを隠せなかったのですが、その言葉が僕の考察した全てだった言っても過言じゃないんです。

    というのも、生と死に関しては、鬼ごっこのようなものだと思ったんですよね。
    そしてそれは、「うさぎとカメ」で例えることができたから聞いていただきたかったのです。

    この場合、
    うさぎ=生(子)、カメ=死(鬼)です。

    で、生は常ならざるものですよね。
    ということで、うさぎ(生)は、スピードにムラがあり、状況に応じて速くしたり遅くしたり止まったり….変動性があります。
    最初はグンっ!とカメと距離を空けるんです。活力のある年の若いケースと似てますね。何かと勢いに任せて無謀したがりますし、死を甘く見てる感じです。

    一方、カメである死は、生きてきた以上は絶対なので、一定の速度を保ったもの。
    それはうざきに距離を空けられようが。永続的で遅くとも絶えずうさぎに向かって歩を進めるような感じです。

    ここで重要なのは、生は生である以上必ず迷うということです。(瞬間瞬間が選択の連続ですので、選択の余地があるというほうがいい?)

    死は迷いません。
    無機質的に見えようがお構いなし、ただ生の足跡たどり、見失うことなくついていくだけです。
    そういった意味でも選択の自由がないので、ある意味「拘束的」であり、生側から見るとなんだか不気味に見えます。(俗的な死のイメージ?変動もなく、血の気のない奴は、一体何者なんだ!?)

    不慮の事故死とかは、ばったりと死角からカメと鉢合わせする感じでしょうか。
    自殺は自らカメに近づいていくようなもの?

    老死や衰弱死は、一方的に疲れが溜まり、もはや鈍いカメの一定的なスピードですら距離を保てなくなってきた状態。
    そして抗う術もなく、ただただ徐々に詰め寄せられて、ポンっとタッチされる感じです。(ここは少し和ホラー的な怖味があるのがナイスですね。カメはカメでカメでしかないのにカメに見えず、恐怖の塊に化けて見えるかもしれません)

    ちなみに子供時代に鬼ごっこして、似たようなケースで勝ってるんですよね。
    しかも鬼だった僕は「終始歩いて」です。
    そこの行動にみんな余裕を感じるのか、アパートの二、三階とか、遠くからおちょくってくるんですよね。

    しかし、ある友達は、この場所なら気づくまい….と、たかを括って隠れていたところを突き詰めて何なりとタッチ。
    ある友達は、物陰から偶然鉢合わせて、ぶつかるようにタッチ。
    そして最後の友達はゲームが長丁場になり、あげく「….ってかお前、やる気ないやろ?こんなんキリないし、楽しくない。もうお前の勝ちでいいわ」と嫌気がさしたのか自ら捕まりに来ました。ちなみに、やる気ないなんて一言も言ってないのにですよ。

    至って健康体なのに、何かに囚われて勝手に負けた気がして、かけがえのない自分を粗末にし、思い切った行為に走ってしまった方々も多いのではないかと思います。
    人間界以外の生き物たちには、到底考えられないですよね。

    そういったわけで、
    生きてるって素晴らしいとよくいいますが、生きているから煩う、といえますよね。

    傷つけば「そっか、生きてるから…」とふいに強く感じさせられます。

    僕は「魂」など無いと思ってますから、死ぬと多分煩わないし、病気にもならないですよね。ただ終わって永遠になるだけですよね。

    なので、どちらかといえば死は生よりも健全で、病的なのは実際は生なのかなぁと。

    「そもそも病的な生がそうさせちゃった」

    そうなると、それが赴かせた死(いわゆる自殺)なども病が極まった状態ではないですか?
    そして悟りの境地にたった者は、そもそも生死どちらも迷いの柵の内であることを学ぶのかなぁと思います。

    とにかく、そういった意味でも我々人間は
    みんな必死に色々やってるけど、

    (もしかして実は、ひたすら煩悩を断ち切ることしか為すべきことがないんじゃないの?)

    と、強く思ったりする次第です。

    そこの君、力を持て余してそうですね。
    もし少しでも足掻いてみたいならば、生きてる間に◯◯◯をすればいいですね。
    ◯◯◯は尋ねないでください、あなたの自由であり本当になんでもいいです。
    それこそ、あなたが意味付けるのならば全てでもって対応させていただきます。

    ただし、どう抗おうとも締めは必ず「死」で結ばせてもらいます。死は理解より早く、認識より先に訪れますよ…..と。

    だって、なにか他にございましたっけね。
    カメに急かされることもないなら、うさぎだってきっと暇を持て余しますよ。
    もはや全てのことが、なんとなく生の悪あがきにしか思えなくなっちゃいます。

    だから結局、何が言いたいんだー!

    ーー死に至った。だけです。
    所詮、肉体などその程度。って感じですかね。
    とまぁ、また振り出しに戻るだけなんですが。笑

    最後にこの論理は、まだまだ思考の余地だらけです。
    まぁ、隙間だらけのジェンガみたいなものですね。押すと崩れるし、抜くとグラつくというか….。ブロックを積み上げるように、ただ楽しくお話しできれば嬉しい限りです。

    1. コメントどうもありがとうございます。
      始まりがあれば、その時点でいつか来る終わりがあるという感じになっています。生死はその代表例です。
      それを捉える時、心を中心に考えると、何に着目するかがシンプルに見えてきます。
      「生にも死にも執著しない」というと、語弊がありそうですが、それはただそれであり、どちらかを望むという事自体が煩いの原因となります。
      ウサギとカメで捉えるとすればその両方を傍観するという感じが、煩いから離れることに繋がってきます。
      「ウサギ」ですら心としては他人事のようなものであり、ひとつの自然発生したエネルギーという程度になります。

      とどのつまり「心に苦を受け取りたくない」というだけなのですから、生において条件を増やしたり、逆に死に意識を向けたりということ自体が、苦を生ずる要因となるという感じです。

      もちろん、「生に執著しない」ということと、生を蔑ろにし粗末に扱うということはイコールではありません。
      中心となるのが「苦を得ないこと」であるため、必然的に苦を得ないための生命としての働きは自然発生します。
      一方そうした「よりよい生のため」にという意志は、身体というものを含め、の外界により形成された我の自然的意志ですが、そのためにと行き過ぎで煩うというのも本末転倒です。
      受け取る働きである「心」の安らぎから逆算して考えると、生と死をどう捉えるかということが見えやすくなります。
      煩う悩みである「煩悩」は、感情や思考上の論理を抑え込むことで消えるものではなく(対象によっては考え方や工夫で和らげることはできるでしょう)、有身見を破り徐々に智慧が現れると徐々に消えていくような感じになります。消えると言うより、「現象は生じても、苦は生じない」というような感じになるでしょうか。

  2. bossu様、おはようございます。
    コメントありがとうございます。

    なるほど….。
    ウサギ側からしても、「なぜ走ったの?」問うて「追いつかれるから」とか仮定すれば、ある種の生の執着として捉えることもできますよね。もっと深い所に原因もありそうですが。

    でも、追い抜こうとするのがウサギなわけで、最終的には追いつくのがカメなわけで、それがないとそもそも「ウサギとカメ」が成立しないわけで。

    ウサギ「それが、僕なんだよ(キッパリ)」
    カメ「それが僕だよ(キッパリ)」
    自分「ならしゃあないな….」になりますね。笑

    だとすると、あまり生死問題に関しても深く関わらない方がいいのかも知れませんね。(というか、そもそも関われないのか)
    僕らの身に起こるとはいえど、あくまでもウサギとカメだけの問題なわけで、自分の生死も他人事のようにみえるかも知れませんが、関係あるようで関係ないですよね。

    つまり、ただの現象という感じでですかね。(そういうものなんだから、みたいな)

    それがbossu様のおっしゃる「生と死に執着しない」ヒントになってくるのでしょうか。

    ただ「お前、生きてくれよ!?台本がそうなんだから、分かるだろ!?」とか肩を揺さぶられるてくるのも、なかなかじれったいものですが。

    そういえば、僕たちは「ウサギとカメ」の演劇を繰り広げる俳優側ではなく、むしろ観客側だった。….本当はこのくらいの無責任感でいいのかも知れませんね。

    1. 生や死については、考えようと思えばいくらでも考えることができます。
      しかしながら、確認できる領域かどうかという点で、いくら語っても語り得ぬ領域となる部分が出てきます。
      なので、「語り得ぬところかどうか」ということを論理で導きつつ、生や死についてどう捉え、どう取り扱うと良いのか、というところを発見するしかありません。
      心が受け取る「視点」は、基本的には「ウサギ」となります。しかし、ウサギの視点から見ているというだけであり、ウサギと心はイコールではありません。
      もちろんウサギもウサギの視点もただそれだけであるというだけであり、排除するようなものでもありません。
      しかしながら、そうした生の保存に意識が向き過ぎたり、死というものを語り得ぬ領域まで思考することは、心に無駄な苦しみを送ることになります。

  3. 返信ありがとうございます。

    死について思考することは、出口のない迷路を彷徨うようなものかもしれませんね。

    ある作品に、全く別の作品を持ち込んだクロスオーバー企画くらいにとどめておきます。

    まぁ今回は、あくまでも例えばなし程度でしたので、死はこれくらいで….。

    また他のテーマから何かあれば、ぜひお邪魔させていただきます。

    またひとつ学ばせていただき嬉しいです。
    今回も、ありがたきお言葉をありがとうございました。

    1. 死は必然的に思考の対象になります。生という自己保存の目線から見れば、最も恐怖の対象となりますし、生き物として考えることができるのであれば考えざるを得ないような対象となるでしょう。
      そのように、生きていると、死について考えたり空想したりすることは、自然発生的に起こりますし、死というひとつの「確認できない対象」は、確認できない対象であるからこそ思いが生まれるというような感じになっています。

      また何かありましたら何なりとご連絡いただければと思います。

  4. こんにちは。

    死については、ちょうどいいところに「毒矢の例え」もありましたね!
    すっかりうつつを抜かしておりました。

    生である以上、体現できない境界線。
    それに重ねてbossu様のおっしゃった通り、生であるからこそ思考の対象にもなりえる。
    なんだか相反する課題の狭間に立たされてしまうようにも感じます。

    死への思考ってなんだか皮肉めいたものなのかも知れませんね。

    ただ、遅かれ早かれ生きとし生けるものは確実に死に至りますよね。
    ブッダの入滅時に嘆き悲しむアーナンダに、自らの死をもってして最期に彼へ説いた言葉も思い出さずにはいられないところです。
    その時、師も無常であるのだと感じ、彼も改めて「死」というものも思い知らされたんだと思います。

    アーナンダ「あぁ、なんだ….」と言って。

    ・・・・・・・。

    ….すみません、今のは忘れてください。

    とにかくお後がよろしいようで、ちなみにこのコメントの返信は結構でございますよ!
    それでは、お言葉に甘えさせてもらい、ぜひ別のテーマからまた楽しくお話しさせていただきたいです!

    この度も、本当にありがとうございました!

    失礼致します。

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