有身見とヴィパッサナーと諸法無我

有身見とヴィパッサナーと諸法無我といった感じで、ご質問のご連絡を受けた中から諸法無我に関連したものを一般化して残しておきます。

「有身見を錯覚であると見破るヴィパッサナー」、「自己観察中の自分は一体何者なのか?」、「ふたつの心が同時に生まれていることになるのか?」、「諸法無我に関する哲学的・科学的な構造の理解」、「五感で得た情報をありのままに捉えられず、自我によって演算してしまって、悲しいという意識が生まれたのか?」、「自我がない状態では、五感で得た情報から悲しいという意識が生まれず、心があるがままの情報を認識することになるのか?」、「記憶は脳にストックされているのか?心にストックされているのか?」、「サマタ瞑想とヴィパッサナー」、「思考や感情をその場において、過去に流す」といった質疑応答について記載しています。

有身見を「錯覚である」と見破るヴィパッサナー

ヴィパッサナーについてですが、いくつかコツはありますので少しご紹介しておきます。

ヴィパッサナーは、ひとまず有身見を「錯覚である」と見破るという感じが中心になります。究極的な部分は集中力を必要とするので、すぐには習得できないと思いますが、息を数える数息観あたりで何となく感覚を掴んでいただいてからのほうがやりやすいかもしれません。

有身見とは、「この身が有るという見解」といった感じで、まさに自我の実在の感覚です。諸法無我は無我と表現されていますが、非我(我にあらず)とも表現されることををヒントに、有の対義語である無ではなく、それらを統合した空であるという感覚を掴んでいただければと思います。

「我が無い」などと言ってしまうと、「じゃあこの考えている私は何なんだ!」といった感じになってしまいますからね。

「悩む自分」という自我と一体になっている状態、それをありのままに観て、「自我」が勝手にやっていることを傍観するという感じで捉えてみてください。

自我は制御機能でもあるので、睡眠中に見る夢や寝起きの時など自我が薄まっている時は、制御することができず暴走することがあります。でも、それは様々なものが自動で発生しているということがつかみやすいという側面も持っています。

例えば、知人が自分と全く関係のないことで悩んでいたとしましょう。そうした悩みをいきなり相談されるというシーンを想像してみてください。

自分とは関係のないところで、その人は悩みだし、その人のタイミングで悩みを話してくるという構造になっているはずです。

その時悩み話を聞く時、自分には直接の利害がないので、おそらく冷静に聞けると思います。ただ論理的な事実を頭で理解するのみにとどまり、感情的には落ち着いていられると思います。

それを「いつもの自分」を「客観視体制の自分」が観察するという感覚で、想起したことや動作にラベリングしてみてください。

勝手に起こって勝手に反応しているという有様を観察するという感じです。

もしそれどころではないという状況の時は、サマタ的に眼球を瞼の裏で固定し、呼吸を整え、呼吸を観察し、「今そんな事が浮かんだ」とラベリングしてみてください。

コンマ単位の今現在に意識を向けて、その現象が流れていくのを観察するという感じです。

自己観察中の自分は一体何者なのか?

諸法無我を理解、体得する上で「いつもの自分」が勝手に騒いで いるある関数によってアウトプットを出す”自我”だとして、それを見ている「客観視体制 の自分」、「自己観察中の自分」というのは、何者になるのでしょうか?

「客観視体制の自分」がやっぱりまた、騒いでしまったら、「客観視体制の自分Ⅰをさらに客観視する自分Ⅱ」がいたりするのか?とも思ってしまいます。

上記の自分というのは、五感の認識から何かを感じる心と同じもの でしょうか?

もし、同じだとすると、いつもの自分の心と、客観視体制の自分の心と、ふたつの心が同時に生まれていることになるのでしょうか?

ふたつの心が同時に生まれていることになるのか?

「もし、同じだとすると、いつもの自分の心と、客観視体制の自分の心と、ふたつの心が同時に生まれていることになるのでしょうか?」という部分が諸法無我を思考で紐解こうとした時に必ず引っかかる部分です。

こうした部分があるため、言語では示しえずという感じで、伝えにくい部分であると捉えていただければと思います。

「客観視体制の自分」という認識が起こっている時は、まだ自我の内側にいます。

内側にいるという表現も変ですが、おっしゃるとおり、ふたつの意識があるような状態になります。

心はあくまで認識する働き

ただ、心はあくまで認識する働き、受け口だけであり、意識からの情報を受け取っているだけの対象であるという前提で、検討してみると、最初は「客観視体制の自分」が普段の自分を見ているような感覚になりますが、集中力が高まり、今現在の流れに合った瞬間どんどんそれらの「主体」が消えるような感じになります。

だから2つの心(この場合は「意識」)すらも外界で起こっていてただ自動的に受け取っているような感覚になり、最終的には受け取りだけになるという感じのイメージをもっていただければと思います。

ですので、「2つの視点からの情報状態を心が受け取る」という状態は、中間地点であり、主体となる自我の感覚がなくなるまでの間の「はしご」のような感じです。

ただそれは消えるといっても「ある」と「ない」を統合した空であるということを体感するという感じです。

感覚や体感と言うとそれを得る主体としての自我が「ある」と論理上は考えてしまいますが、様々な動き、働き、つまり感情や感覚、思考を含め「形成されたもの」が他人事のように常に変化して流れているのを傍観するかのように「ただ自然に心が受け取っているだけ」という領域になります。

あくまで心は認識する働き、受け口であるという前提で、その心に「いつもの自分」と「客観視体制の自分・自己観察中の自分」という2つの意識の状態が流れ込むというのが中間地点の状態であり、その状態から今現在に起こっていることに意識が完全に向いた時、それら「自分」が無効化されて、ありのままの現実を心が受け取るというイメージで捉えてください。

受け取りの「心」と、情報を演算し出力する「意識」とを分離して捉えていただけると理解が早まるかもしれません。

諸法無我に関する哲学的・科学的な構造の理解

また、おそらく哲学的でなくとも何かの構造の理解や裏付けがないと自我が騒いでしまうタイプの方もいます。

その場合、理由を見つけ、それに対して対処するという形で働くのではないかと思います。

そんな中、感覚重視でヴィパッサナーに取り組めと言われてもしっくりこないという感覚は理解できます。

「何もしないというのもなぁ」という感じや「それでいいという根拠がわからない」という感じで思考の罠に陥ってしまう感じです。

その場合は、哲学的・科学的な構造の理解をしてしまうほうが早かったりします。

そういうわけなので、次のようなイメージをもってヴィパッサナーを行われるとよいのではないでしょうか。

「この私」の中にも様々な次元で関数があり(身体領域を含めた物理領域、言語領域を中心とした意識・考え方・感情的な反応といった情報領域など全てです)それぞれ、入力すれば何かが出力されるという感じになっています。

また、他の人にも動物にも植物にもその他全ての存在にもそれぞれ様々な次元で関数があります。

その中で、運動エネルギーは保存されるというようなイメージで、何かは常になされているという感じでイメージしてみましょう。それが止まることはありません。

そうなると、あるエネルギーが関数を通って何かを出力します。それを捉えた他の関数のボックスは関数に応じてまた何かを出力します。

そのような感じで世界がぐるぐる構成されて運動している中、この私は「この私」という自我の関数を持ちながら、外界からやってきた情報状態とエネルギーという入力を受けています。そして「この私」が持つ関数により、入力されたものは変化し、外界と心に出力がなされます。

そのような構造の中で、この私はこの私というその視点で心に世界を映し出しているという感じです。

でも関係性の変化により関数自体も変化していきますからね。

固定的な関数というわけではないという感じで、捉えていただければと思います。

関数がないわけではないが、固定的なものであるというわけではないという感じです。

というようなイメージを持ちながら、今起こったことを観察してみてください。

諸法無我が体感領域で理解できるかもしれません。

五感で得た情報をありのままに捉えられず、自我によって演算してしまって、悲しいという意識が生まれたのか?

意識、心、自我の関係がもやっとしているのですが、五感で得られた情報から、いつもの自分が悲しいという意識を持ったとして、それは、五感で得た情報をありのままに捉えられず、自我によって演算してしまって、悲しいという意識が生まれたのでしょうか?

その通りです。意識の影響を受けた変性意識という情報状態が心に投影されています。

例えば視覚一つとっても、重要であると判断している対象はよく見え、無関係だと判断しているものはあまり目に入りません。

それは自我(ここでは人格と言ったイメージの方がわかりやすいかもしれません)の重要度の関数によって、「光の信号の感受から意識のフィルターを通して心に映るまで」の間、視覚情報の中から取捨選択が行われているということです。

道を歩いていて自分の乗っているものと同じ車が通れば、それはよく目に映りますし、どの車種でどんな特性を持っているかすらわかるレベルで一瞬で捉えることができると思います。

ただ街を歩くだけの行為であっても、イラストレーターの人であれば、街の何てことない看板の配色やフォントに目が行き、植物学者ならほとんどの人が名を知らない野草に目が行き、何かの植物かというところまで瞬時にわかります。

そのような感じで、たくさんの物に囲まれている中や人混みの中にあってもそれが重要度が高いものであれば、必ずそれを見ることになり、それにまつわる様々な情報が一気に想起された上で、対象の現在の状態などを読み取り、何かしらの感情まで生起され、心に映ります。

自我がない状態では、五感で得た情報から悲しいという意識が生まれず、心があるがままの情報を認識することになるのか?

自我がない(空)の状態では、五感で得た情報から悲しいという意識が生まれず、心があるがままの情報を認識することになるのでしょうか?

その通りです。変性意識がゼロの状態がいわゆる無我の状態です。

変性意識とは、意識の影響を受けて心に現実が映ることであり、その影響の強さは状態によって様々ですが、常日頃多少なりと変性意識状態にあります。

変性意識状態が強ければ、それに比例して意識の空間へのリアリティが強まりますし、意識の産物である妄想が幻視となって現れたりします。逆に変性意識の要素が全くなければ、現実がそのまま見えます。

無我と言っても二元論的に「自我が無い」というわけではありませんので、人格が未来永劫消えて無くなるというわけではありません。

厳密に五感のみの情報であるということは、例えば目の前の景色もただの光の情報状態になるため、いわば「絵」になります。そして全てを平等で観ることになるため、そこに判定が生まれなくなります。

つまり意識の影響を受けて取捨選択や判断を加えた世界ではなく、あるがままの世界を観るということになります。その他の感覚でも同様です。

五感で得た情報に加えて、過去の記憶から、あらぬ妄想をしてしまう(望ましくない意識が生まれる)ことがあると思いますが、五感の情報+記憶の情報=妄想(意識)だとすると、記憶は何が引き出してくるのでしょうか?

意識という一種のチャネルがあります。通常、外界からの情報を得るとそれを判断し、何かしらの反応をするようになっています。情報の入力は絶え間なくあり、関数があるため自動で吐き出されるという感じです。

ただ、もし単純化するならば、意識というチャネルは、「言語的思考の領域」であると捉えていただければと思います。
どちらかというと「五感の情報+意識=心に映るもの」という感じですが、妄想は広い意味での記憶と今の情報が組み合わさって起こるものなので、「五感の情報+記憶の情報=妄想(意識)」というふうに考えても良いと思います。

ただ妄想に関しては、追加情報が入らなければ止まるのかとも思ってしまいますが、思考の領域になるので、かなり前に起こった意識的エネルギーが他の記憶とぶつかって、連鎖的に意識的活動が起こることがほとんどです。

妄想が暴走している人であれば、イメージとしてはプルトニウム発電のような感じで、中性子を飛ばして他を不安定にさせるということの繰り返しで増殖するという感じになっています。

記憶は言語的な記憶とイメージとしての記憶、そしてもちろん言語的・視覚な記憶だけでなく体感覚としての記憶などもあります。

体の状態が意識に影響を与え、他のチャネルの記憶を呼び起こすこともあります。

(腹が弱っている時は弱気になり、その体感覚記憶から何か失敗した時の記憶を想起させることもあるという感じです)

記憶は脳にストックされているのか?
心にストックされているのか?

記憶は脳にストックされているのでしょうか?
心にストックされているのでしょうか?

心は単に「一方的に受け取るだけの認識する働き」であるため、記憶は脳に、そして記憶の定義にもよりますが、おそらく体そのもの、細胞にもストックされています(究極的には細胞の状態自体が記憶状態でもあります)。

心が何かというのは、認知できるレベルでは示すことができないと思いますので、語ることはできませんが、物理レベルで考えた場合、脳とほとんど同じだと考えても差し支えないと思います。

”集中力が高まり、今現在の流れに合った瞬間どんどんそれらの「主体」が消える”
“ただそれは消えるといっても「ある」と「ない」を統合した空であるということを体感するという感じ”
”今現在に起こっていることに意識が完全に向いた時、それら「自分」が無効化されて”

このあたりは言語で示すのが難しい領域になります。

先程のお話の延長でお話すると、記憶はほとんどすべてが無意識にあります。

表面上の意識は本当にそれら無意識が表面した端くれです。

ですから意図的に行っていると自負していても、無意識にやらされているだけという感じです。その無意識の記憶には生存本能としての関数も含まれています。

いわばヴィパッサナーは、それら無意識で行っていること、無意識から形成されるものを意識に上げるというものです。

両手を離して「フルオートマで瞬間的な生滅を繰り返している」ということを観る視点に到達するまでの間は「この私の集中力を高めること」に専念するという感じです。

その地点にまで行けば、受け取りの「心」だけになり、「この私」が消えるという感じです。

サマタ瞑想とヴィパッサナー

単純に五感だけの領域になろうと思えば、サマタ瞑想で体感することはできます。

そしてサマタ瞑想で非想非非想処までいけば、何もないことすら認識しないということが起こります。

ただ、それでは元に戻った時にまた無意識の奴隷になります。

サマタ瞑想は集中力を高めるのに良いですが、自我がどんどん抑制されるにつれて、無意識の妄想が暴走することがあります。だから本来はサマタである程度集中力を高めてからヴィパッサナーに移行するのがいいのですが、危険性があるためあまりおすすめできません。

逆にヴィパッサナー単体だと、気付きが非常にゆっくりですが、危険性なく進めることができます。だから一般向けにはヴィパッサナーの紹介しかされていないという感じなのでしょう。

今現在に意識を向けながら単純に自己観察してもいいですし、若干集中力を高めたりする場合であれば、まずはリラックスして、それから暴走を防ぐために可能な限り慈悲の観念で頭を一杯にしてください。

そして、目を閉じておでこのあたりに眼球を固定し、呼吸に意識を集中してください。吐く時に力を緩めるとリラックス度が高まるので、できればそんな感じで進めてください。

一番わかりやすいところでいいので、体の一点一箇所に緩みを感じたら、その場所を中心として広がっていくような感覚で緩みを全身に広げてください。

その上でヴィパッサナーを行ってみてください。吸います吐きます系でも構いません。

座っている状態であれば、「右のお尻が限界に来たので若干左に体が動いた」というような無意識の動作を観察してみてください。

何かの想念が浮かんだら「妄想」とラベリングして、その場に置いていくという感じで進めてください。

思考や感情をその場において、過去に流す

時間は未来が現在にやってきて、現在が過去になっていきます。
自分が未来に向かうのではなく、未来が自分に向かってくるという感じです。

なので、妄想が起こっても、それは未来の何かが現在の自分を通過して、過去に流れていったということになります。

そんな感じで思考や感情をその場において、過去に流していってください。

諸法無我は、極めて理解しがたい理になりますし、具体的に記述しようと思うと、論理の罠にハマり、逆に抽象的に印象を語ると抽象的すぎてそれが掴めないといった感じです。

あくまで言葉や概念に縛られないように、また何にも依存すること無く、ただ当然の理と自分をよりどころとしてあるがままの現実を見破ってください。

諸法無我

真我の否定、心と意識の違いと諸法無我

「今」に集中することと今をスタートとすること

Category:質疑応答

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語のみ