最終的な反駁としての歴史的反駁

昔、人々は、神が存在しないことを証明することを求めた。 曙光 95 序

西洋的な方法論は、論理的な証明をやたらとしたがりますが、最終的に行き着いたポイントをよくよく見渡してみると、世界各国の土着の伝承、民話に隠されたメタファーと同じだった、というようなことがよくあります。

アメリカなどの最新研究の成果としてよく騒がれているような、哲学的な分野や認知科学の分野の方法を見ても、「そんなことは数千年前から既に説かれている」というようなものが多くあります。ただ、その頃の説明は、隠喩的でわかりにくかったというだけで、「何をいまさら」という感じのものばかりです。

例えば「マインドフルネス瞑想」などはわかりやすいでしょう。西洋人が自分たちのものかのように吹聴していますが、そんなものは数千年前のインド地方で既に行われていたようなことです。

新しい付加価値としては、脳波などを計測して、科学的裏付けをした、というところくらいでしょうか。しかしながら、人にもたらす結果自体は昔から変わっていないということになるので、あくまで「他人を科学的に説得したかった」という面のもやもや解消くらいの付加価値でしかありません。

西洋的分析の最大の弊害

西洋的分析の最大の弊害は、「それを証明しない限り採用しない」という観念を作り出すことです。

例えば、究極的には病気が治ればそれだけでいいはずですが、「なぜ治るのか?」という汎用性の高い裏付けがないと、その方法論を認めないということです。

それと同じようなことが社会で蔓延しては来ていないでしょうか?

「なぜそれが良いのかの裏付けを科学的なデータで示されないと認めない」

ということです。

わかり易い例は、巷の婚活のようなことかもしれません。

人をデータ化して、データの上での合理性を優先するあまり、異性同士が気持ちと気持ちで寄り添うことがない、という現象です。

最近では偽薬効果などを認めるあまり、医学分野では若干マシにはなってきていますが、人文科学、社会科学の分野ではまだまだ、変な証明グセが残っています。

その最大の理由は文語体で論理を厳密にして記述してしまうことです。

情報状態が変化すると物理にも反映される

遠隔歯軋り等々、僕はなぜか物理的に触れること無く、生き物を癒やす事ができます。

そのやり方を、言語で示すことはできません。無理やりすることはできますが、厳密に伝えることはできないのです。

そうした癒やしのようなもの、まあいわゆる気功のようなものに関しては、単純に情報状態が変化すると物理にも反映されるということになります。

では、サイババのように砂が出せるかというと、そういうことはできません。

あえて無理やりその理由をお伝えすると、砂という物理状態は変化率が少なく安定しているからであり、生き物の体は、生き物である以上常に生命活動のために体が作り変わっているので、常に変化しやすい状態にあるから、という感じです。

変化をするのであれば、変化の方向性の情報状態を変えればいいだけです。

まあ俗っぽく言うと、緊張している人がずっと緊張している状態で24時間過ごす場合と、緊張がほぐれてリラックスしている状態で24時間過ごす場合と、どちらの方が体調が良くなるか、という感じです。

そこで西洋的分析をしてしまうと、変な方向に行きます。

例えば、病床で手を握ってもらった時にリラックスしていくのをどう説明しようとするのかが疑問です。

科学的な因果関係、物理的な因果関係を厳密にどう説明するのでしょうか?

いいところ、そうしたケースにおいて患者の脳波が落ち着いたとかそうした「統計データ」くらいしか示すことはできません。

しかしそれは「こういう時にこういうことがだいたい起こる」という相関関係であって「これをしたからからこれが起こる」というような因果関係を証明しているわけではありません。

手を握ることで、患者本人が少なくとも安らぐのであれば、科学的な因果関係は不要です。

言語的データというレベルの低い領域で操作しようとせずに、もっとレベルの高い抽象空間で自らが高まり、「自分の世界」における情報の状態を方向づけるだけで十分です。

最終的な反駁としての歴史的反駁 曙光 95

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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