最も古い道徳的な判断

われわれの身近で或る人間が行為をした場合、われわれは、実際どのようにするか?さしあたりわれわれは、われわれにとってその行為がどんな結果になるのかを注目する。― われわれはこの視点下においてのみその行為を見る。 曙光 102 序

本当は違うはずですが、人は外見や行為で人に判断されます。

真の意味での行為について判断されるのであればいいのですが、それを親なり何なりに肩代わりしてもらいつつ、外からの評価を得ようとする人もいます。

しかしながら自分自身は騙すことができません。

僕はゴルフをやりませんが、ゴルフが紳士のスポーツだとされる理由については、次のように考えています。

ゲームの性質上、誤魔化し放題ながらも、もし自分のミスのようなものを誤魔化した場合は、その心理の揺れによって次以降のプレーに影響が出る、という感じです。

このような理屈はだいたい世間で認識されているとおりだと思いますが、誤魔化すことができるものの、そのセコさが次の一打のブレを呼ぶという感じになるため、紳士的になるスポーツだということのようです。

だからこそ、ゴルフは紳士のスポーツではありますが、ゴルフをやっているからと言って紳士であるというわけではありません。そもそもゴルフ場に向かう前に「これは仕事だ」と家族を誤魔化している時点で紳士ではないからです。

それはさておき、ここでわかることは、現実的な成績を本当に支えるものは、自信であり自己評価であるということです。

他の人に作ってもらった取り繕いで少しは相手を騙すというか誤魔化すことはできるかもしれませんが、その奥に「本当の自分はすごくないんだ」という意識があると、結果的にそれが行動の結果に現れます。

あまり良い感じはしませんが、変に取り繕っているくらいなら、根拠なきの自信のもと、調子に乗って傲慢であるくらいの方が、物事がうまくいく場合がよくあります。

しかし本質を紐解いてみると、その究極は心が静まっている状態になっているというものが最強です。

なぜなら、「自分から働きかける必要がない」とすら思っていると、あれこれ偉そうにする必要も無いからです。

世間は外見や見せかけの行為で物事を判断しますが、そんな世間の評価すら、自己評価には影響を与えない、という境地が理想であると考えることができます。世間の評価で自己評価が変化してしまうということは、世間の評価が自分の評価よりも重要であるということになってしまうからです。

だから、人に評価されるために外見を整えたり、人に評価されるために行為をなすことが「必要ではない境地」こそ最も高い境地として考えることができましょう。

(2017年12月17日にこの投稿の投稿忘れに気づき、気付いた日に書きました)

最も古い道徳的な判断 曙光 102

Category:曙光(ニーチェ) / 第二書

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