普通は誤解されている

会話で気がつくことだが、ある人は他の人の陥るわなをかけようと努力する。これは、人が考えるかもしれないように、悪意からだけではなく、自分自身の滑稽さを楽しむことからなのである。さらにまた、他の人に洒落を言わせるために洒落を準備しておく人々や、他の人が結び目を引き出すために輪を結んでおく人々がいる。これも人が考えるかもしれないように、好意からではなく、悪意からであり、粗雑な知性に対する軽蔑心からなのである。 曙光 351

笑いのレベルに大きな差がある場合、ボケ気質の人でもツッコミ側に回らなければならないというのが典型となっています。

それはどうしても、会話を拾えるスキルというものの差があり、意図した流れに気付かない人がいるからです。

ツッコミというのはある種でノーリスクであり、意図的にボケるということは、それがうまく拾われなかった場合はスベるというリスクがつきまとっています。

そういう構造を踏まえた上で、意図的にボケるということを避け、何気ない会話からツッコめる場所を探すということをレベルの高い人はやらざるを得ないということになります。

「沈黙する」という高等スキル

これは笑いだけではなく商談であっても同じことです。

「沈黙する」という比較的高等スキルに分類される営業技があります。

この場合は、沈黙の心理的圧迫から、先に相手に話をさせて、比較的譲歩されたような「場」を相手発信で形成してから、こちらがそれにツッコむという構造になっています。

相手は、沈黙によって既に形成されている「コミュニケーションの危機」をさらに気まずいものにしないように、たいていは譲歩したような話から切り出してきます。

国際的な交渉に強いとされている国のトップクラスがよく使うやり方です。しかし、それを見抜かれている場合は仕切り直しです。

「何にでもツッコむ」という低レベル

ツッコミ慣れていない人がその場を何とか持たせようとしてやってしまうことが、「何にでもツッコむ」ということです。しかし、そのやり方が「会話に触れているだけ」というようなワンパターンの場合ならば、ヘタに笑いに持って行こうとすると場が重たくなります。

かつて、ツッコミという側は、軽視されがちでしたが、「ツッコんでいるようでボケている」というやり方がある程度浸透してからは、少し地位が上がってきたのかもしれません。

しかし単純に「ツッコめばいいのだ」と思って、同じやり方で少し笑いを意図した会話のキャッチボールをしていると、ひどく空気感が歪んできます。

本来笑いに変えられるツッコミというものは相当の高等スキルになります。一朝一夕で身につくものではありません。

松本人志氏の「遺書」か何かで、浜田氏の凄さについて書いてあった事がありました。出版された当時に読んだので詳しい内容は覚えていませんが、その本を読んでから浜田雅功氏をよくよく観てみると、彼の凄さが身にしみるほどわかりました。

それは、不完全燃焼に終わりそうな中途半端な流れの時は、ツッコまずに会話をうまく流されているという点です。

確か小学生の時でしたが、その時にこの「レベルのツッコミが欲しい」と渇望した事を覚えています。

なぜならば、ボケ気質の人は、自分がボケ気質だとわかっていながらも普段周りのレベルによってほとんどツッコミ側に回らざるをえないという苦しさを味わっているからです。

しかし個人的には、その渇望は満たされることになります。

中学1年生の時、凄まじいスペシャリストと出会ってしまうからです。

しかしながら彼がボケるとほぼ100%スベってくれます。

やはり分不相応なことはやらないほうがいいのかもしれません。

普通は誤解されている 曙光 351


本来ツッコミたるものは、よほど抽象的な視点から最適なものを選ぶという洗練さを要求されるものとなっています。一定以上のレベルとなればツッコミですらスベるというケースすら生じてきたりします。そんな中、低レベルなツッコミは、自分を傷つけなくても良いという側面を持っています。

蓄音機という牢屋

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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