明日や未来が見えない時の対処法

人が絶望する時、それは「明日や未来が見えない時」がほとんどです。

うつが語られる時、世の中では体調とか考え方とかそうしたものが中心になりがちですが、「ぽっかり空いた何か」をどうすればいいのかということについては、ほとんど示されません。

体を良くするとか現状をハッピーにするということはいいですが、そうしてネガティブ要因を何とかしたとしても、それでも「この先どうすれば良いのか?」ということを誰も教えてくれません。

人生において「嫌だ!」と思う瞬間はたくさんありますが、その中でもとりわけ「こんな毎日がこれからも続く」という明日や未来への想像が人を大きく苦しめます。

特に何か騒ぐほどの嫌なことでなくても、「若干嫌だなぁ」という程度のことであっても「それがこの先延々と続く」という未来への想像が毎日を苦しいものにしたりします。

そしてそれは若干の嫌なことが解消されれば解決するという問題ではありません。それが解決したとしても、「その先、どうすれば良いのかわからない」ということがよく起こるからです。

未来を想像することで起こる苦しみ

未来を想像することで起こる苦しみに関してもいくつかの種類があって、想像にたやすいのは「未来に起こるかもしれないことへの不安」というものですが、「今とさして変わりないような毎日が続くこと」を想起する苦しみというものもあります。

「別に取り立てて騒ぐほどの苦しみでもないが、それでもつまらない毎日」が、あまり変化せずにずっと続いていくのかということを思い浮かべる苦しみです。

非常に苦しい思いをしたときは、その強い苦しみから脱することが一種のゴールとなり、その状況から脱却することを生きがいとして毎日を過ごすことができます。

それはそれで一種の苦しみはありますが、生を充実したものとして捉えることができたりもするので、肉体的、環境的には苦しくても、精神の上では、楽しみすら見出だせたりします。

ところが「かなり危ない状況」からある程度回復してきて、ひとまずは落ち着いていられる状況になると、次は目指すべきものを失った人のように喪失感に苛まれたりします。

完璧な状態とは言えないにしろ、ある種目標を達成してしまったので、「明日から何をすれば良いのかわからない」という感じになります。

そうして目的や目標を失った後は、微妙な毎日が続きます。

そしてそんな微妙な毎日が「これからも続くのか」と思えば思うほど変な苦しみがやってきます。

環境的・物理的には問題がなくとも

まだつぼみ段階の切り花がその後花を咲かせる様子を観ていると、「私はただ花を咲かせるだけですよ。そして可能であれば実を結ぶのです」というような感じがします。

動物と異なり動くことはできないので、今ある環境の中で可能な限りそうするしかありません。そうするしかないといえばそうするしかないのですが、そのシンプルな構造ゆえそれ以外のことを考えたりして苦しみを感じることはありません。

しかしながら人は、例え環境的・物理的には問題がなく、生命維持のための条件が揃っているにもかかわらず、未来を想像して悶え苦しんだりします。

それはいずれこの環境が叶わなくなるということだけではなく、「何かをしなくてはならない」というような焦燥感や、現状を受け入れ続け、微妙で代わり映えのない毎日をずっと繰り返すのかということを想起して煩うという感じです。

まして周りとの関係において不可逆性のあるような関係性であればなおさらです。

高校生の時からの友人にしてみても、いまなお友人であっても高校生の時の友情感はもう味わうことができません。かつて熱い想いを持って触れ合っていた配偶者との関係性が惰性になれば、元の熱い想いをもう一度ということはかなり難しくなります。

最初は楽しかった仕事にも慣れ、特に異動もないままあと何十年と同じような仕事を繰り返すのかということについても同様です。

そうしてかつてあった良き状態が慢性化してつまらないものとなり、何かしらの状態に変化した後、「もう元には戻れず、この惰性が続くのか」ということになれば、これから続く明日や未来に期待を持てなくなります。

明日や未来に、特に何も見出だせない

落ち込んだ気分が続くこと、その状態から脱するためにはということで、よくストレス要因を無くしていくということが語られます。

しかし、表面的なわかりやすいストレス要因を無くしていったとしても、「明日や未来に、特に何も見出だせない」ということについては何の解決ももたらしません。

精神のことという分野になると、どうしても強烈なプレッシャーがあったのだろうとか、何か嫌なことがあったのだろう、ということなりがちですが、「明日や未来に何もないこと」という一種の絶望についてはあまり考えられることがありません。

「遊びに行けばいい」

ということが言われたりしますが、それはそれでその人にとって一つの大きな一歩として大切なことです。

しかし、病中の僕は「それは何の根本解決にもならないだろう」というようなことを思っていました。

「今あるイライラを短期的に何とかするということではなく、何かしら未来に希望を持ちたい」

そんなことを思っていました。

まあそれでも僕の場合は、「この世のすべての謎を解き明かす」「一切の苦しみから脱する」というような、果てしない到達点を持っていたので、まだマシでした。

それはそれで置いておいたとしても、少なからず「何かしら未来に希望を持ちたい」というような雰囲気はありました。

意図せず脅迫する人たち

世の中には、たくさんの「成功するぞ系」の人たちがいます。そうした人たちも例外なく精神の分野について語ったりしています。

「社会の中で成功しよう系」の人たちになりますが、その人達としても良かれと思っていっているのでしょうが、なんだか意図せず「社会の中で、のし上がらないといけない」というような脅迫をしているように見えるときがあります。

「ウジウジしていないでやりたいことをやれ」

というのも、あと一歩踏み出せずにいる人達の背中を押すように善意で言っているようなことなのでしょうが、その裏には「そうして踏み出せないことはいけないことである」というような脅迫じみた雰囲気があり、さらに社会の中で評価されるような人間にならないといけないというような脅しがあるような気がします。

「人の役に立つこと」というのはいいことですが、「人の役に立たなければならない」という前提を作ってしまうというような感じです。

もちろん人に限らず他の存在の役に立つことに越したことはありませんが、それ以外のことがいけないことかのように説いているフシがあります。

この世界のささやかな全て」で触れていますが、特にわかりやすいものでなくても、自分が意識をしていなくても誰かの役に立っていることはありますし、意図して何か善行のようなものをしなくてもお互いがお互いの役に立っているということはよくあります。

それを見落としながら、あたかも「人の役に立たないものは不良品だ」というような脅しを裏に潜ませていたりします。

遊びに行ってもつまらない時

遊びに行くことは、気を楽にしてガチガチになった思考を解きほぐすということに繋がることがありますが、「明日や未来が見えない」という一種の絶望の状況にあって、それでも「何かしら未来に希望を持ちたい」という思いを持っている時、遊びに行ってもつまらないと感じる場合があります。

「こんなことをしている場合じゃない」

というような変な脅迫がやってきたりするからです。

それが療養中であれ、仕事を続けている中であれ、同じような毎日が続き「明日や未来に、特に何も見出だせない」という状況にあっては、付け焼き刃のような遊びは気晴らしにすらならないという時があります。

「何か違う」

そんな感じの感想がせいぜいです。

特に責任感が強く、さらに社会的な評価や人の役立つことが良いことであるという観念が強ければ強いほど、逆に気が張ってしまいます。

そんなときは一体どうすれば良いのでしょうか?

小さな一歩

たとえ傍から見れば些細なことであっても、本人がそれまでの枠組みから一歩踏み出したとすればそれはすごいことです。

しばらくの間一歩も外に出なかった人が、近所を歩いてみたとかコンビニまで行ってみたというのであれば、それは小さくてもすごい一歩です。

そのような感じで、他人との比較ではなく、昨日までの自分、先程までの自分より何か少しでも歩みを進められたのならば、それは想像以上に評価すべき事柄です。

久しぶりに遊びに行ったり、読んだことのない本を読んでみたり、部屋を掃除してみたりと、そうして少しずつでも歩めることは素晴らしいことですが、どこかしら「明日や未来が見えない」「明日や未来に、特に何も見出だせない」という雰囲気がやってくる時が訪れるかもしれません。

「幾分マシにはなったが、それでも未来は絶望だ。何をしていいのかわからない」

という時です。

そんな時には「大量の情報と最高のリラックス」を用いること、そして「環境は同じでも新しい世界を想像してみること」をおすすめしておきます。

本来、過去や未来に意識を置かず、妄想を止めるだけで十分なのですが、それでも集中を飛び越えて「何かをしなくてはならない」という騒ぎが起こることがあります。

そのような時には「何かをしなくてはならない」という騒ぎに付き合うことでアイツの暴走を沈下させることができます。

大量の情報と最高のリラックス

「自分のしたいことを見つけよう」とか「好きなことをやろう」というのはいいですが、その「やりたいこと」自体が見つからない場合があります。

「常識に縛られずに自由に生きよう」

というのはいいですが、そうは言われても何をしていいのか検討もつかず、それが明日や未来への絶望を加速させてしまうということがあります。

「起業したい」という思いを持ちながら、「結局どのジャンルで起業すればいいのかわからない」という思いを持った人も同様です。

そんな時は、現状持っている意識の中の情報から無理に組み立てようとせず「いろいろと知ってみたいなぁ」という感じで過ごしてみましょう。

情報源は書籍でも映画でも漫画でも、人との会話でも散歩して街を眺めるというのでも何でもいいので、ひとまず「現状の自分には見えないだけかもしれないなぁ」という感じで、松下幸之助氏並みの素直さで過ごしてみましょう。

「持っている情報が少ないんだから今は仕方がない」と思えれば気楽ですし、「我以外皆我師」といった感じで過ごしていると、人からもそれ以外の生き物からもたくさんのことを教えてもらえる上に好かれるようにすらなります。

ささいなことを教わりに行ったり、仕事で伝説を作ったり、頼まれごとを引き受けたり

また、頭をほぐすという意味を込めて、些細なことを教わりに行くというのも良いかもしれません。

例えば、「お母さんの作るあの料理の味は、お母さんがいなくなったら味わえないのだなぁ」ということを思い浮かべたとしましょう。

ということで、そんな時は自分が大好きな料理の作り方を教えてもらいに行くということも新しい刺激になります。料理を作ったことがない人であればなおさらです。

そしてまた、日常代わり映えのない仕事についても、あえて「伝説を作る」とか「自分の最高記録を作る」という感じで、限界を超えてみるのも面白いはずです。

「どうせ代わり映えがないのなら、一度くらい倍速でやってみるか」

という程度で構いません。

あえて「倍速でこなす」という感じで不可能そうな目標を持っておくと、それまでは見えていなかった工夫が見えてくるかもしれません。その上、概ね職場の人達からは重宝されるようになるので一石二鳥です。

それとは別に、普段は面倒で断っていたような「頼まれごと」を引き受けてみたり、頼まれてもいないのに代わりにやってみるというのも良い刺激になります。

普段行くことのない場所に行くことになって新しい刺激が入ってきたり、眠っていた自分の得意分野を再発見できることもあります。

人のわがままにすら付き合ってみるというのも面白いかもしれません。以前どこかで触れていましたが、考えてみると歴代の画家や音楽家も発注主の貴族のわがままに付き合っていたからこそ、新しい領域を見出だせたのかもしれないということを思うことがあります。

基本的には面倒ですが、新しい分野を知るきっかけとして利用してみるのも面白いと思います。

最高のリラックスにチャレンジする

そんな感じで新しい情報や刺激でわんさかになってきた後は、「最高のリラックスにチャレンジする」ということをしてみましょう。

森林浴→温泉→(マッサージ→温泉)→爆睡

を3Daysくらいで堪能しましょう。

一種の廃人になるくらいの脱力感を味わってください。

「ちょっと疲れが取れればいい」

という程度ではなく、

「緩みすぎて気が変になりそうなほどの最高のリラックス」を味わってください。

なお、テクニック的な面になりますが、温泉療養中、同じ手ぬぐいを使用し続けて、アンカリングを行うと、「手ぬぐい」がその後のリラックスモードのトリガーとなります。

ただし濡れモード乾きモードという差が出たりするので、水分による影響のない代替物を使用する方が良いかもしれません。

そんな感じで最高のリラックスを味わうと、特に頑張る必要もなく「お、ええんちゃう。それええんちゃう?」というようなアイデアが浮かんできたりします。

心底リラックスして「明日や未来への希望を見つけようと頑張ること」を手放すと、勝手にそれが見えてきたりします。

楽しみにしておいてください。

環境は同じでも新しい世界を想像してみること

さて、明日や未来が見えないと感じる時、惰性で続いているような、同じような毎日への辟易がある場合があります。

それは、特に変化のない「予測できてしまう今日一日」への辟易です。

もちろん急なアクシデントというものはありますが、概ね今日一日や明日や明後日がほとんど完璧に予測できてしまうと、ただそれを「こなす」という感じになってしまいます。

そうなると何だか奴隷のようで嫌になってくるはずです。

誕生日のプレゼントにしても、義務感からその日を「こなす」という感じになり、ただお金を使うだけのような感覚になってしまいます。仕事にしても、ただ職場に行って勤務時間に業務をこなすだけという感じです。

そして「以前はもっと楽しかったはずなのに」ということで哀愁に包まれてしまったりもします。

しかし、以前と同じような感覚を取り戻そうとすると、そこには無理が生じてしまうかもしれませんが、現状以降で新しい世界を作り出すことはできます。

対人関係であれ、仕事などの活動であれ、仮に惰性で続いているような関係なのであれば、あえて今をスタートとしてどのような関係に変化したいかを想像すれば面白みが増します。

元に戻すという感覚ではなく、これからどう変化していくかというところに着目するという感じです。

そういえば勤め人時代、「変人のおじさんに挨拶してもらうという目標」を立てたことがありました(最初に病が治った思い出の地へ)。

「一切口をきいてくれないおじさん」に対する業務としては、書類のやり取りをこなせばそれで終わりですが、そこに別の目標を立ててみるという感じで過ごしました。

「このおじさんの声を聞いてみたい」という感じです。

そのような感じで、例えば久しく笑顔を見ていない親や配偶者から「爆笑を勝ち取る」というのも一つの新しい世界です。

特段危険な状況にあるわけでもないのに明日や未来が見えない時、その時は緊張によってより良い意図が制限されています。

新しい世界を思い描くにあたって、単に情報が不足しているということもありますが、緊張によって意識が固まり、盲点だらけになっているということがほとんどです。

個々人に対する「これから先どうすればいいか?」という具体的なことは、各々の環境が異なるため指し示すことができません。

しかしながら、

「今に集中し、思考を止めて未来への妄想を止めても、その時はいいが、やっぱりやりきれない」

という時、

「ひとまず落ち着いたが、何をしていいのかわからない」

という時は、ひとまず大量の情報を得て、最高のリラックスをしてみてください。そして傍から見れば大したことがなさそうなことでもいいので「面白いこと」を選んでください。

一瞬「面倒だなぁ」と思うようなことであっても「面白いかもしれない」と思ったことはどんどん手を出してみてください。

現状のまま無理に意識で考えるよりも、ずっと楽で、かつ、より良い方向に事が進んでいくはずです。

Category:うつ、もしくはうつ気味の方へ

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