支払いの痛みと効用の逓減

普段特にキャッシュレス的なものは利用せず、できる限りの現金利用を続けています。

20歳前後の時は「カード類を持たなかった」とか、「使い方があまりよくわからなかったから」という理由で、使えても通販で本を買う時くらいしか利用はしなかったという感じですが、その後は意図的に「なるべく現金」という姿勢をずっと続けています。

その理由は単純で、一種の視覚化と「支払いの痛み」をしっかりと観るということが、トータルでは最も合理的であるというようなことを思っているからです。

「同じ支払いであればポイントのつくカードや電子マネーの方が合理的だろう」

ということはわかりますが、問題はその購買行動自体が合理的なのか否かという点です。

「どうせ買うなら」ということの合理性を考えれば「数パーセントでも還元され実質費用が少ない方」を選ぶとか「支払いの労力やキャッシュフロー的には楽」という方を選ぶのが良いですが、根本的にその買い物自体が合理的なのかということが棚上げされがちなってしまうというような背後の問題があります。

支払いの痛みが少ない支払い方法

会社のいろいろな経費の支払いや備品購入に際し、個人アカウントで立替払いをしていたら、数万円分のポイントが付いたりしました。

その内訳として期間限定のポイントものもあるのですが、オンライン購入にしか使えないと思っていたら提携店舗での支払いにも利用できるようだったので、ささっと使ったりしてみました。

普段はポイントカード的なものを使うにしても、「貯まる方」の局面において提示するのがほとんどで、「使う方」の利用は、かなりのスパンが空いてからという感じでしたが、今回は数万円分もありますし、期間限定ポイントもあったので短期間の間にポイント支払いをする機会が多くありました。

それもまたいずれ使う消耗品などの購入に当てたため、特に無駄遣いをするというようなことは無かったものの、やはり「支払いの痛み」という点に限って言えばほとんどゼロという感じでした。

ポイントの利用ということで金銭の出費ではないため、当然といえば当然の感じですが、この痛みがない感覚に慣れることは危険であるというような印象を受けました。

支払いの痛みがあるからこそ、実質的な効用を含めた合理性を検討する動機が生まれるからです。

効用の逓減による気づき

また金銭と財・サービスとを交換するのは消費者余剰があるからというような大原則があります。効用が支払いを上回っているからこそ買うというような感じです。そうでない支払いは、フリーライダーを排除するための強制的な徴収のようなものくらいしかありません。

その効用には、物理的で具体的なプラス面と、精神的で抽象的なプラス面があり、それらが複合的に組み合わさって成り立っています。

視点を変えれば使用価値や交換価値というような分類もありますが、個人の効用に限って言えば、現実的な使用価値と精神的満足というような分類が基本になります。

そこで考えてみたいのが、個人的な効用の逓減です。

支払いの痛みと効用が天秤にかかるわけですが、一応歳を重ねると所得が増えて支払いの痛みは減っていきます。しかし、もう一方で慣れ等により効用も減っていきます。

そんなことを一番最初に実感したのが、飲み会のようなものに対する価値です。

20代前半の頃は、「今後もっと所得が増えれば自分は毎日飲み歩いているだろう」と思っていましたが、現在僕は飲み会に参加することもなければ家ですら酒を飲みません。

根本理由としては、「心身ともに酒を欲しいと思わなくなった」という点ですが、それ以前の20代後半の頃を思い返しても、その数年前の「今後もっと所得が増えれば自分は毎日飲み歩いているだろう」という印象すら変化していました。

その理由は、「それほど楽しくない」とか「特に得れるものがない」というようなものでした。

若ければ若い時ほど、そうした集まりのようなものは、バカ騒ぎや出会いや新しい刺激でいっぱいで、楽しさの塊のようなものとなりますが、知らぬ間にどんどんその楽しさが逓減していきます。

話し方も敬語になり、会話内容も社交辞令的になりという感じで、オープンさは無くなっていきますし「勉強させてもらいます」的な新しい発見もどんどん無くなっていきます。

ということで、効用の側がどんどん低下していくわけです。

同一金額の支払いだとしても、手持ちの資金に余裕があるので、所得に対する支払額を割合で換算すれば「支払いの痛み」も減っているはずですが、それ以上に効用の方が減っているというような感じです。

経営者の集まり等々は、取引のチャンス(それだけを目的としている人もどうかと思いますが)や経営相談的な別の効用があったりするので、普通の集まりよりはプラス面があるような気がしますが「飲み会」というものそのものに限って言えば、もはや自分の中では「枯れている」くらいの立ち位置です。

仲の良い友人たちとも結局飲み屋ではなく銭湯に行ったりしているので、よほど効用を感じていないということになります。

そんな感じで、「あれ?以前ほど面白くないぞ」ということは、面白くない分マイナスに思えそうですが、その効用の低下は、浪費の抑制や、より良い金銭消費のあり方等々、いろいろな気づきをもたらしてくれるため、捉えようによってはプラスであると考えることもできます。

なぜ面白さが減っているのかという点に着目すると、人から聞く話等々による「新しい刺激」が、刺激となりえないほど自分の精神や知識などが成長しているという証と捉えることもできます。

「へぇ~」と思うことが減っていけばいくほど、面白さは減っていきますが、その分成熟を示すバロメーターにもなるわけです。

支払いの痛みや効用の逓減が本質へと導いてくれる

そういうわけで、支払いの痛みや効用の逓減は表面的に見るとデメリットばかりという感じに見えますが、それらは精神を程よく軌道修正してくれるようなものであり、本質へと導いてくれる羅針盤のような機能を持っていると捉えることもできます。

個人が「自分の精神のために支払いの痛みを回避している」というよりも「痛みを回避させることによってトータルの消費を多くさせる」という企業側の戦略に乗っているだけという場合がよくあります(また、ポイント付与に執著させ、何かしらの情報提示をさせようというような意図を叶えるということにも一役買わせようとしているのでしょう)。

少しの還元や値引きで、痛みの感覚の少ない支払い方法に慣れさせ、「合理的に生きている」と思わせた上で、よく見ると中長期で総消費が多くなっているという結果を望んでいるような感じです。

これは冒頭の「どうせ買うなら」と「根本的に必要なのか」という点につながっています。

買わなければ還元や値引きどころではないほどのお金が浮きます。

いつも例として用いますが、これは「どの携帯電話会社にするか、どのデバイスにするか」というところからばかりが検討対象となり、「根本的に携帯電話を持たない」という選択肢が棚上げされているというようなものと同じような構造を持っています。

転んで痛みを感じることで、転ばなくなります。

必要な痛みは必要な痛みとしてただそれだけの役割を全うさせた方が総合的には理に適った行動ができるようになります。

利用する時は利用してそれに依存しない、空間に飲まれないということが肝心です。

空間の遮断

「空間に飲まれているなぁ」と思った時は、ひとまず全ての関連空間を遮断するというのが一番です。

あるアプリケーションは「空間を遮断させない」ということを意図してのアプリケーションかもしれません。

ということで、そんな時は、ひとまず短期的にでも削除する方が良いでしょう。

「めんどくさい」と思ってしまうかもしれませんが、それをめんどくさがると資産面でもっとめんどくさいことが待っているかもしれません。

Category:finance お金に関すること

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