懐疑から救済されて

甲。他の人たちは、不機嫌になり、弱気になり、腐蝕され、むしばまれ、それどころか半ば喰い破られて、一般的な道徳的懐疑を脱する。― 僕はしかし、以前よりも勇敢になり、健康になって、獲得し直された本能で持って脱する。(略) 乙。君は懐疑家たることをまさしくやめたのだ!君は否定するからだ!― 甲。だが同時に僕はもう一度肯定することを学んだのだ! 曙光 477 要約

懐疑を脱するということも二つのパターンに大別されるでしょう。

一つは盲信してしまうということ。一つは錯覚が無くなっていくということ、という方向性です。

前者は、よくあることです。「疑いを持たない」ということで言えば新興宗教にハマっている人でもよくしていることです。しかしながら「信じる」ということは性質上できません。

「信じる」ということ

信じているということは、実は数パーセントは疑っていて、信じようとしている状態です。

少しわかりにくい表現ですが、100%信じていれば、当たり前すぎて、議論の対象にもならないはずです。

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「信じている」ということは、「信じようとしている状態」です。

100%信じていれば、信じているという言葉とは別のものになります。

オスに聞きます。

あなたは自分がオスであるということを信じていますか?

「は?」という感想を持つでしょう。

それが100%信じているという状態です。

無理なもんは無理

「疑いを持たない」とはこのようなことです。

そうなると、盲信していても、それが解ける可能性を内在しているということです。なぜなら「信じている」からです。まだまだ確定していることではないということです。

信仰心には必ず懐疑心がある

ですから「信仰心」というのは、必ず「懐疑心」があるからこそ生じるものです。

すべての懐疑から脱したなら、考えが変わることはありません。

しかし信仰によって懐疑から脱しているつもりでも、それは弱った思考や気力を何とか信仰心によって埋めているだけのこと。

ですから偽物です。「懐疑から脱している」という意味では必ず偽物です。

嫌でも事実を突きつけられることはよくあります。というか避けられません。急に大病などを患ったりすると、それまで疑問に思ってもみなかったことが急に気になったりするのでしょう。そんな時、急ですから、ひとまず急ぎ足で何とか騒ぐ心をなんとかしようと焦ります。

そういう時に飛びついたものは一瞬疑惑を取り払ってくれるかのように思いますが、おそらくその時の基準は「気持ちがほっとした」という感情的なものです。

それは誰が落ち着いたのか、それは騒いでいたアイツです。

落ち着いたという感情をもって、自分には疑いをかけさせないようにという感情戦略です。

ですから偽物です。

祈りや勤行のようなものは、アイツの騒ぎを落ち着けるだけ、しかしながら、その後にそれを条件としてアイツの内側に取り込まれていきます。「いわゆる古典教育

「祈りが必要だ」という緊張、「祈りがうまくいっているか?」という緊張、いずれそれらが手枷足枷になってしまうはずです。

罪としての懐疑

懐疑の懐疑

懐疑家を安心させるために

懐疑から救済されて 曙光 477

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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