「愛別離苦」愛するものと別れる苦しみ

「愛別離苦」愛するものと別れる苦しみについて触れていきます。愛別離苦(あいべつりく)は、愛するものと別離する苦しみとして、いくら好きで愛し尽くしたとしても、いずれ必ず来る別れからは逃れることができないという苦しみです。

愛する人との死別という形が最もわかりやすいですが、愛別離苦は人との別れだけでなく、人であれ動物であれ生き物との別れというものもありますし、物であれ、環境や情景であれ、好きなもの愛するものと別離することで生じる一切の苦しみを意味します。それは死をもって別れるということも対象となりますし、壊れた、無くなった、どこかに行ってしまった、以前とは変わってしまった、というように何かしら「変化してしまうこと」で起こる苦しみです。

以前どこかで触れていましたが、僕は「精神的な苦しみ」としてはこの愛別離苦が最も苦しいと思っていました。なぜなら、怨憎会苦の場合は、戦って勝つという可能性的な希望がどこかにありながら、究極的には会わなければそれで良いというやり過ごし方があるからです。

昔から特にあまりものは欲しくなりませんし、最も苦しいとすれば、愛するものといずれ別れなければならないという苦しみが一番苦しいだろうということになります。

こうしたことを思ったのは小学校低学年の時から文字通り一緒に育ってきたインコのピーコちゃんなどとの仲間意識があったからです。そして養子のうさぎとの間においても同様です。

ちょうど養子のうさぎが亡くなって一年になります(うさぎの死 さようならわが息子よ)。

ということで命日にあたるこの日に合わせるように愛別離苦について書こうと数ヶ月前から予定していました。

と、「インコやうさぎのことばかりで人間に対する愛別離苦はどうなのか?」という感じになるかもしれませんが、やはり態度を変えないという意味では、動物の方が信用できるという感じになり、愛のあり方も安定していて愛し尽くすことができたというのが本当のところです。

亡くなって涙が出たのはほとんど動物ばかりで、人の死の場合は、感情がそれほど動くことはありませんでした。そしてその感情は即時的で正直なものなので仕方ありません。

ただ、愛別離苦は生き物との別れだけはなく、好きなもの、愛しているものとの別れの苦しみ全てになるので、対象に好意があるのならいかなるものでも対象になります。

僕の場合は動物とのふれあいの中から感じたことが多いですが、人の死や人との決別、物のとの別れ全てが愛別離苦の対象となります。

それでは、まず愛別離苦の概要について見ていきましょう。

愛別離苦の悲しみは怒り

愛別離苦の「苦」も、もちろん一切行苦同様「思い通りにならない」という苦しみであり、愛するものと別離しなければならない苦しみであり、別れるに当たり起こる分離の感覚の苦しさであり、同時にどうあがいてもその構造からは逃れることのできないという苦しみという意味での苦しみでもあります。

諸行無常で触れていましたが、「出会った瞬間に別れることは決定している」という感じになります。何かと会った瞬間にその対象とは別れることが確定しており、いつかは別れることになります。

しかし哲学的に考えると諸行無常なので、瞬間瞬間に出会いと別れを繰り返しているとすら考えることもできます。

ただ、その間で対象に好意を持てば、それは苦しさを生んでしまうということになります。それが愛別離苦のキーポイントです。その好意、対象への愛情がいつか死別などによって引き離されるということが確定していますし、愛着があればあるほど、別れた時の苦しさは増していきます。

僕はある時、精神の上ではこの愛別離苦が最も強いということに気づきました。それは、元々欲よりも怒りが強く、そんな中「悲しみは一種の怒り」であることに気付いたからです。

怒りが強く、そして怒りが強いのだから悲しみも強いという感じで、想像の苦しみで言えば愛別離苦への想像が最も苦しいということに気付いたという感じになります。

別れて涙が出ないような付き合いは価値がなく、
別れて涙が出るような付き合いは苦しい

これは対象がどのようなものでも同じなのですが、「別れて涙が出ないような付き合い」は価値があまりなく、「別れて涙が出るような付き合い」はその分だけ苦しいという属性を持っていると思います。

例えば、異性とお付き合いするにあたっても、別れてしまって涙がでるような付き合いならば、別れてしまったとしても「お互いに良い時間を過ごせた」と思えるはずですが、別れた時に涙も出ないような、感情が動かないような付き合いになってしまうならば、付き合っている間で経験するものは大したことがないものになってしまうような気がするという感じです。

ただ、一方で別れて涙が出るような付き合いに関しては、強烈な執著を生起させてしまいます。

物にしても愛著が無ければ味気なく、逆に愛著があれば捨てるのが名残惜しいという感じになってしまいます。

愛と愛ゆえの苦しみ

愛とまでいかなくても、好きであるものに触れているときこそ充実を感じたりします。好きでもないものと過ごす時間というのは虚しく、好きなものと接している時は気分が良いという感じです。

ただ、どのようなものでもメリットがあればデメリットがあり、良い部分だけを享受することはできません。

知識が増えればたくさんのメリットが生まれますが、同時に固定観念を作り雁字搦めになったり、知的探究心が失われていくというデメリットもやってくるといった感じです。

それと同じように、愛が生まれれば、それを失いたくないという気持ちが起こったり、何かの比較基準ができたりして色眼鏡が生じていくことにもなっていきます。

愛から生まれる差別

愛という概念は多岐にわたり、無条件に対象を受け入れるというようなものから、愛欲、愛執というようなものまでたくさんの種類があります。

そんな中でもだいたいに共通しているのは対象のことを好ましく思うというような点です。

しかし、何かを好きになるということは、同時にその他のものよりも重要なものであるという判断をすることになるので、そこに具体性、具体的な限定が入れば入るほど、少なからず差別が生まれることになります。

例えば、兄弟姉妹の中で誰かが優遇されれば、その他の人たちは相対的に冷遇されることになります。誰かを優先するということは誰かを優先しないということであり、誰かを好きになれば相対的にその他の人々と差が生まれることになります。

一見無害かのように見える好意というものは、裏側で差別の種を生み出しているいう感じです。

好きになることで起こる苦しみ

また、何かを好きになることでたくさんの苦しみが生まれます。理として諸行無常という概念がありますが、全ては変化し、変化しているからこそ生きているという実感があり、変化があるからこそ対象を好きになったということになる一方、好きな対象が変化してしまうこと、自分の気持ちも変化してしまうこと、環境が変化してしまうことなど、関係性が変化してしまうことは避けることができません。

そして、愛著があるからこそ、我が事ではないのに、対象に対して心配が起こってしまい、我が事として煩悩が増えてしまうという事も起こります。

それは一種の拡大した自我意識であり、全てではなく限定された「内と外」という観念が広がって煩いが増えてしまうという感じです。

端的には「相手の状態が気がかりになる」といったことになりますが、愛を持って好ましい状態になったと思ったら、その裏で煩いの原因も増えてしまったという感じになります。

状態や関係が変化する苦しみ

愛別離苦として基本的に想起されるのは、愛するものと死別してしまう時に起こる苦しみという感じですが、「別れる」という意味では、対象の状態が変化し、関係が変化してしまうことによる苦しみとして考えることができます。

もちろん日常で言えば、例えば恋愛関係が破綻になったとか、大好きだった勤め先が倒産してメンバー全員がバラバラになったとか、学校を卒業して仲の良かった友達と離れ離れになってしまったという感じの時に起こる「別離による苦しみの感情」というものもあります。それも愛別離苦です。

そして、例えば、「結婚してから相手の人格が変わってしまった」とか、「憧れのあの人がみすぼらしい姿になってしまった」とかそうしたことも愛別離苦として考えることができます。もちろん望む状態が叶わないという意味で、求不得苦でもありますが、「好きなものが変化してしまい、好きだった時の状態からは別れてしまった」というふうに捉えることができます。

これら全ては、今までの経験の記憶から形成された「こうあって欲しい」という執著が苦しみの原因となっており、変化してほしくないと思っても諸行無常ゆえにそれは叶わないということで苦しみが起こっています。まさに「思い通りにはならない」という感じです。

最悪の煩悩

四苦八苦の中で、精神的な苦しみとして最もひどいのがこの愛別離苦だというようなことについて触れていましたが、それは次のような構造を持っているからこそ最悪の煩悩が起こるという感じです。

「養子のうさぎとの最期」が構造としては最もわかりやすいと思うので、その時を例にして示してみましょう。

それは、養子のうさぎが寝たきりになり、そのまま衰弱して老衰で死を迎えるということには抗えないという構造になっている中、彼への愛が彼への関心を呼び起こし、「いつ、どこにいても気がかりになる」という構造を作っていたことに起因します。

これはある側面から見れば、うさぎへの愛が元で僕は苦しみを得ているという構造になります。しかし、老化、老衰という状態ゆえ、彼が元気になることはありません。

ということは、彼への愛は僕を苦しめながら、一方で愛の対象たる養子のうさぎが僕を苦しめているという構造になっています。

いわば、残酷に言えば「彼のせいで僕は苦しんでいる」ということになります。

一方養子のうさぎ側からすれば、自分のせいで僕が苦しんでいるということになってしまいます。仮に彼の気持ちとしてみれば、自分のせいで相手が苦しむというのは嫌だろうと思います。

そうなると愛し合う両者は、その愛ゆえに苦しんでいるということになります。

さらに残酷に言えば、「彼が死んでくれれば、この苦しみからは逃れられる」という構造になっています。

「愛する者の死を望む」という厄介な構造がどこかしら起こっているという感じです。

「介護を続けたとしても、元に戻ることはない」という形になっているので、同じようなことをいつまでも繰り返し、それに義務感すら感じ、「どこにいようとも相手の容態が気になる」という形になっています。

そんな中、そうした苦しみから脱したいと思うということは、相手の死を望んでいるという感じになってしまい、「愛するものを恨む」という構造すら作ってしまうという八方塞がりが生じます。

一方で、愛するものとは別離したくないという気持ちもあります。愛する者を愛するものとして、最後の最後まで愛したい、愛するものと離れたくないという気持ちがある中、愛するもののために苦しむのはゴメンだというような気持ちすら起こってしまうという残酷さです。

愛別離苦はこれほどまでに容赦のない残酷さを持っています。

愛ゆえに苦しみ、愛するもののために苦しみ、愛するものへの一種の憎悪のようなものすら呼び起こしてしまい、愛と怒りの感情を同時に発生させてしまう中、「死の訪れ」といったどうしようもない状態になるまで心を拘束するというような構造になっています。

世の中では介護疲れという感じで、こうした苦しみを実感している人も多いのではないでしょうか。

「あの人は愛がある」とか「責任感がある」とか善人だ悪人だいった社会的な正しさ云々の話ではありません。

また、実際の手間の問題もあるでしょうが、そうした形の義務的な苦しみだけではないのです。

己の心を縛る愛別離苦の苦しみは、愛と同時に愛を逆手に苦しみすら与えてくるという感じになっています。

時に「愛するものを憎まねばならない」というような、「愛するものを邪魔者だと思え」というような脅迫がその苦しみの根幹であるという感じです。

愛別離苦への恐れ

「思い通りにならない」というのが苦しみであり、愛別離苦はその中でも極めて残酷な苦しみです。

愛するものと別離してしまった後よりも、別れてしまう前のほうが圧倒的に苦しく、そうした苦しさは、今後の愛や経験を抑制してしまうことすらあります。

「悲しむことがいけないわけじゃない。ただありのままの現実を受け入れて苦しむことのないように、その悲しみがこれからの恐怖とはならないように、愛別離苦を恐れ、それが君を制限し苦しめることのないように」

これは、養子のうさぎが最期に僕に教えてくれた大切なメッセージです。

愛別離苦を防ぐということに限って言えば、2つの方向性があります。

一つは、愛著を持たない程度に浅い関係しか作らないこと、そしてもうひとつは、理を観察することによって愛別離苦を恐れないことです。

愛著を持たない程度に浅い関係しか作らない

別れて涙が出ないような付き合いは価値がなく、別れて涙が出るような付き合いは苦しいというようなことを書きましたが、世の中には「愛を持って苦しんでしまうのなら、誰も何も愛さないほうがいい」という感じで、浅い関係性で終わらせている人たちもたくさんいます。むしろそうした事すら思っていないのかもしれません。

接する人やモノが挨拶程度の軽く浅い関係性なら、その人が亡くなったりしても、物が壊れてしまったりしても特に涙も出ないでしょう。感情が動くこともなければ、「別離してしまうかもしれない」という想像に心がかき乱されることもありません。

それが人であれ動物であれ何であれ、誰かと深い関係になれば、愛から起こる苦しさが訪れてしまいます。

それを防ぐためには、「なるべく深入りしない」というのも一つの解決策ではあります。しかしそれは裏から見れば愛別離苦への恐れであり、「傷つかないために避けている」ということになります。

そうした状況にあっては、物事を深く味わうことも深く捉えることもできません。

理を観察すること

「愛するものと別れてしまう」ということは、死に限定されるものではありません。

愛別離苦は、相手や自分や環境が変化してしまうこと、それに対する怒りですらあります。

日常で言えば、愛し合った仲同士の人たちにおいても「気持ちが変化してしまう」ということが起こり、そうなるとやや巨視的に考えたとしても「良い状態だった相手」とは別れてしまったということになります。

いわば、愛別離苦の根幹は、変えることのできぬ理、諸行無常に対する怒りであるということになります。

諸行無常ゆえに愛が生まれたにもかかわらず、諸行無常ゆえに愛に苦しむという形になっています。

しかし理は変えることができません。主義や思想ではなく、そうした理なのだから、頭でどう考えても変更することはできません。

常に変化してしまうことや現象自体を変えることができないのであれば、「思い通りにならない」という苦しみを別の方向で捉えるしかありません。

世界と表現するのが適しているのかどうかはわかりませんが、「この世界のありのままの姿」を正しく観ることが愛別離苦を見破るきっかけになります。このあたりは「諸法無我」あたりをご参照ください。

愛別離苦を恐れ、愛別離苦が訪れないようにと「制限」が加わっていくという構造が生まれれば、それは過去に執著し今以降の経験を制限していくようになります。

相手を愛そうが愛すまいが、全ては必ず毎瞬間に変化していきます。愛することを恐れ、愛して傷つくことを恐れ、愛することによって起こる苦しみを恐れようとも、それを回避しようと浅い関係だけを選択しようと、変化はしていきます。そしてその先には死が待っています。

それら当然の理を明らかに見て、恐れはどこから起こるのかを見破ってしまいしょう。

何かを愛することは、一方で何かを愛さないということにもなりえます。そしてそれが愛著・愛執となり、心を縛る執着となれば、愛別離苦の他に差別意識すら起こってしまいます。

すべての命は、命として等しくあり、すべてのものを愛することは、理屈で言えば執着が無いということにもなります。

対象が人であれ動物であれ植物であれ、目に見えるものであれ見えないものであれ、たとえ一つの対象であっても「何かを好きになり愛すること」ができたのなら、その感覚を大切にして、それと同じようにこの心に映る全てを愛でてみましょう。

何かを愛し「お母さんが自分の独り子を命をかけて護るように」という感覚を得たのなら、そのようにしてこの世の全てに同じ感覚を持ってみましょう。

すると、道端の虫を見ただけで「ああ、この虫もお母さんに大切にされてきたのだろうなぁ」という感想が出てくるはずです。「下等生物であるから価値がない」とむやみに殺したり捕まえたりすることも無くなっていくでしょう。

もしそうした事が起こったのなら、虫けらだと思っていたその虫は自分の教師になります。

世のすべての生き物が仲間であり教師であることが感覚で理解できるようになっていくでしょう。

うさぎの死 さようならわが息子よ

四苦八苦 あらゆる苦しみ

一切行苦

Category:philosophy 哲学

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