「怨憎会苦」嫌いなものと会わねばならぬ苦しみ

「怨憎会苦」嫌いなものと会わねばならぬ苦しみについて触れていきます。怨憎会苦(おんぞうえく)は、四苦八苦のひとつであり、人を含め嫌なもの嫌いなものと会う苦しみです。字面を見ても「怨む、憎む、会う、苦しみ」という感じなのでわかりやすいと思います。「怨み憎むものと会う苦しみ」で怨憎会苦です。

対象が何であれ「好きか/嫌いか」とか「そのどちらでもない」かといった感じの感想を持ってしまいます。いわば判定であり反応です。もちろん、「好きな部分と嫌いな部分がある」とか「好き具合、嫌い具合」というものがあったり、好き要素と嫌い要素の比重があったりといった感じで、二元論化して考えることはできません。

しかし、少なくとも「嫌だ」、「嫌いだ」というような感想、感情が起こったりはします。触れる対象が人であれ物であれ情報であれ、それを嫌いだと判断し嫌な感情が起こるという感じです。

そして、生きているということは、だいたい何かに触れざるを得ません。この五感も意識も基本的には常に働いているので、望まなくとも何かしらを感じてしまうので、感じたからには何かの反応をしてしまうという感じになっています。

怨憎会苦とは、そうした「触れる対象」について、嫌なものと会う時に起こる苦しみ、嫌なものと会うということを想像する苦しみ、そして嫌なものを思い出す時に起こる苦しみです。

それが未来への想像だとしても、過去の記憶を思い出すということであっても、今現在そうした意識状態に「触れている」ということになりますので「今起こる苦しみ」です。

そして気にしないでいようと思っても気になってしまったり、嫌わないでおこうと思っても嫌いであるという感情はなかなか消えてくれません。なんとか捉え方を変えて嫌わずにいようとしたり、好きになろうとしたり、気にしないでおこうとしたりと、怨憎会苦に対する克服のようなものを試みてもだいたいは失敗します。

そのような感じで「嫌いなものと会う」ということについて、「思い通りにならない」という苦しみが怨憎会苦になります。

僕は元々怒りが強い気質ですので、人の百倍は怨憎会苦を実感していました。ということで、哲学テーマながらまずは日常に置き換えて、怨憎会苦について見ていきましょう。

怨み憎む人に会うこと

幾度となく触れていますが、僕は少し上の体育会系に激しくに嫌われます。そして、嫌われるだけでなく僕も相手のことが嫌いです。怨憎会苦は、怨み憎む人に会うことによる苦しみが基本となりますが、僕も「お互いに嫌い合う人」がいっぱいいたという感じになります。

相手としては「歳上なのだから自分は敬われ優遇されて当然だ」という観念を持っており、僕は「無条件に敬うのはおかしいし、先に生まれたくらいしか誇ることのない弱者なのだな」という観念を持っているので、当たり前のごとく衝突します。

「年齢による上下関係が正しい」と相手は思っていますが、「年齢による上下関係はおかしい」と僕は思っているので、お互いに嫌い合うことになります。相手としてはその観念によって無条件に自分の都合が叶うと思っており、僕としてはそのような意味不明なことを根拠にされても困ると思っているので、必然的にお互いが嫌い合うことになります。

社会に出てからも、勤続年数みたいなのでそうした雰囲気を出す人たちがたくさんいました。「中途採用で、僕より二ヶ月前に入社した人」なんかは、仕事ができないことを棚上げして、あからさまにその「二ヶ月」を根拠に八つ当たりなんかをしてきました。挙げ句、体育会系上司は、「二ヶ月でも先輩は先輩やぞ」などと言って相手に加勢するのですからたまったものではありません。

相手にとっては年下で後輩である人が少し活躍したりするだけで、勝手に怨んだり憎んだりしてきて、その中で自尊心の補償ということなのか「自分は先輩なのだから持ち上げろ」というような雰囲気を出してきます。

個人的には小学生の時から年齢や経験年数などで評価されることは、自分の人格や能力は脇に置かれてしまうということを思っていました。もちろん今でもそう思っています。

年齢などをもって優遇されたり敬意を示されたとすれば、それは自分自身が評価されたということにはならないので、どちらにしても逆にバカにされたということになるのではないかということを思っていました(このあたりは京都の皮肉文化が影響しているのかもしれません)。

ということで、そんなことに付き合ってはいられませんし、それが会社社会なのであれば、そうした空間からは早く出ようと思いました。そうした要因が起業した理由の3割位を占めているというのが本当のところです。

そんな感じで10代から今まで過ごしているので、日常のいたるところで嫌な人と会わねばならない苦しみというもので満ち溢れていました。

相手が勝手に怨んだり憎んだりしてくるのだから、当然に僕も相手のことが嫌いです。好きになるはずがありません。

嫌いと無関心

といっても、相手を説得するとか自分の正しさを主張するということもありませんでした。なぜなら、相手のことが嫌いだからです。

嫌いは好きの裏返しということで、相手に関心があるからこそ嫌いだというような面もありますが、本当に心の底から嫌いなのだから、相手に「気付いて欲しい」とか「改心して楽になって欲しい」ということすら思いませんし、野垂れ死のうが怒りに自爆しようが、自業自得だろうということを思っていました。

嫌いという感情を保持するということは、「相手に関心がある」ということになりかねません。相手の存在を自分の中で重要なものとして位置付けることになり、その相手に変わって欲しいと思うことは、自分は相手にコントロールされているという構造を持つことにもなります。ということで、抵抗するとただでさえ嫌いな相手に自分の感情がコントロールされてしまうことになりなねないので、完全に「無いもの」として扱っていました。無関心がちょうどよいという感じです。

まあそんな脳筋体育会系に限らず、自尊心が揺らぐとか、承認欲求に駆られているといった状態の人がその状態にあるのは、僕の責任ではありませんし、その人自身の責任です。しかしその人がその人格になってしまったのは、その人の責任ではありません。

そのような感じなので、特に相手を責めることはありませんが、相手にすることもないのです。

相手を嫌い、抵抗すること

相手を嫌い、抵抗すると、相手の怒りに反応したことになります。

いわば相手に反応させられている、相手にコントロールされているという状態になってしまうという感じです。

そして、嫌いな相手、怨み憎む相手と直接会っているときも嫌な感情が起こりますが、その相手を思い出したり、次に会うことを想像すること自体も苦しみです。

ただでさえ嫌いな相手に、感情や行動をコントロールされるというのは徹底的にバカらしいはずです。

現に会っているその場でも嫌ですし、その場を離れた後も自分の人生に影響を与えてくるとなると、まさに馬鹿らしくて仕方ありません。

ということで、相手に抵抗すらしません。

そこには相手への「期待」もあるということになってしまい、期待が裏切られるとさらに嫌な気持ちになってしまうというリスクもあるからです。

嫌な人に抵抗して戦わなくても、好きな人とだけ付き合えば良いという感じになります。

「悪と戦う姿がかっこいい」

というのは少年ジャンプの世界観です。

世界にはたくさんの人がいて、多種多様な景色があって、たくさんの経験が用意されているのだから、わざわざ嫌いな人と会って抵抗している時間はありません。

しかし、どこかしら嫌いな人に出会ってしまう確率というのは常に潜んでいます。

一度怨み憎む相手と出会うと、その人のことを嫌うだけでなく、同じようなタイプの人と出会ってしまう可能性すら嫌になっていきます。

そうした意味で怨憎会苦は単に具体的な「嫌いな相手」と会っている時、それを思い出す時、また会うことを想像するというだけでなく、同じようなタイプの人とどこかで出会い、また同じような感情を味わうことを憂うという面も含まれています。

諸行無常ゆえ全ては変化していきますし、自分も周りの人も常に変化していくので、相手が好きな人、好きでも嫌いでもない人であっても、いつどこで「嫌な要素」が出てくるかもわかりません。そしてそれに加え、道を歩いているだけで嫌な人に会ってしまうとか、店員さんの入れ替えがあって嫌な奴が新しい店員さんとして担当になることもあるとか、嫌いな人と顔がにている人と出会ってしまうといった感じで、「ああ、思い通りにはならないなぁ」という感じになります。

しかしながら、少なからず怒りは、その裏に期待や固定観念があって、目の前の現象がそれに合致していないという感じのところから起こったりします。いわば執著です。

またそれ以外にも、固定観念が云々を越えて生理的に嫌悪感を覚えてしまうという対象もあります。

子供の奇声やクチャラー、おばさんの口臭などですね。

ということで、次に怨憎会苦のうち、人に限定されない嫌な対象と接触してしまうことについて見ていきましょう。

嫌な対象と接触してしまうこと

怨憎会苦のキーポイントは、何も「人」に限定されることなく「嫌な対象と接触してしまうこと」にあります。

そして嫌な対象の判定にはいくつかのパターンがあります。

一つは、先に見た期待や固定観念が原因となっているものです。年功序列思想を持っているからこそ、それが叶っていない有様を見て怒り狂うという感じですし、僕の側から見れば、「年功序列思想=脳筋体育会系儒教思想」自体が狂気だという観念があるので、そうした人たちに対して嫌悪感を持つという構造になっていたという感じです。

基本的に怨憎会苦は精神的な苦しみであり、接触と接触の記憶から生ずる何かしらの執著が軸となって起こる苦しみです。しかしながら、その他、生理的に嫌悪感を覚えてしまう対象というものがあります。「芸術的に許せない」というのは先程のパターンですが、生理的に嫌悪感を持つものとして五感に直結したようなものはだいたい対象に入ります。

うるさい、臭い、感触が気持ち悪いといったような感じです。

ただ、これらには適応による耐性というものもあるので、ある人にしてみれば生理的に過剰に反応するという場合もあれば、慣れているので特に気にならないというような感じになる場合もあります。

また、少し異なるパターンとして、無属性のものが何かと関連付けられていて反応してしまうというパターンもあります。嫌な体感と対象が関連付けられていた時、対象に触れただけで無駄に嫌な感情が起こってしまうという苦しみがやってくるというやつです。これは、トラウマのように自分でも気づかないうちにそうしたパターンが出来上がっているかもしれないという感じで、知らぬ間に条件づけが成り立っている可能性もあります。

そのような感じで、生きている限り何かを認識してしまう中、嫌いな対象に触れてしまう可能性からは逃れることができないという意味で、怨憎会苦です。

日常で言えば、何か好きな仕事に就いていたとしても、上司が嫌だとか、稀に嫌な客が来るとか、転勤してきた人の口が臭いだとかそうしたことが常に可能性としてあるという感じです。

怨憎会苦の構造

怨憎会苦の構造をよくよく観察すると、そのうちの大半は期待や固定観念、こだわりなどが怨み憎むものと会う苦しみを生み出しているという感じになっています。

怒りの中には期待があり、期待が無くなれば嫌な感情は消えていく

「これはこうあるべきだ」という観念を保持すればするほど、怨憎会苦が高まってきます。

そしてそうした観念は記憶によって支えられています。

しかし、主義や思想の範疇にあることなど所詮主義や思想であり、普遍的な理というわけではありません。

怨憎会苦は接触から記憶までのプロセスを経て形成された「あるべき姿」への執著、固定観念への執著が発端となって起こる精神的な苦しみです。怨憎会苦としての苦しみが起こるという構造は理としてありますが、何かの主義を持ってそれを克服したり解決したりすることができるという「考え方」の範疇では無いということになります。

怨憎会苦解消の誤謬

怨憎会苦は苦しみだということで、その解消や解決方法を模索するということは古今東西様々な形で検討されてきました。

「対象を根本から叩き潰せ」という感じの闘いはもちろん、怨恨感情の解決策としての「ルサンチマン」から「力への意志」「超人思想」というような感じでニーチェも思索を巡らせていたりしました。

「不倶戴天の敵を殲滅する」という発想から、「私達のほうが素晴らしいのだから、相手になどしなくていい」という解釈変更によって怨みの感情を解消するという発想まで、様々な考え方を持って怨憎会苦を解消・解決したり、克服しようと試みてきました。

日常で言えば、嫌いな相手をボコボコにするとか、吊し上げたりいじめ通すことで会社から追い出そうとか、相手と違う基準で自分を評価して嫉妬の感情を解消しようとする、というような感じです。

ただ、どれもこれも「客観的な世界の実在」が前提となっており、視点が近視眼的になっていたりして、結局自発的で能動的な何かを求める形になっています。

しかし、本質的にそれらは全て「自作自演」です。

よくよく考えてみると、そうした感情は「映画の中の悪役」に反応しているのと特に何も変わりありません。

仮に「自分が受け取る世界」を全てデジタルデータだと思って考えてみれば、ストーリーの変更はできませんし、情報の状態がただ変化しているだけで、自分はただ受け取っているだけにすぎないということが何となく分かるはずです。

しかしながら、いくら情報的なものであると分かっていても、一過性の情報状態だということが分かっていても、日常は「嫌な相手と会わざるを得ない」ということになっていて、毎日のように反復してしまうということ、そしてそれを想像してしまうことということからなかなか逃れることはできません。

ただ、逆に考えると、固定観念の元となる記憶や明日への想像というものが止まると、反応である感情も消えますし、怨憎会苦が起こりえないという感じになります。

怨憎会苦の構造として、直接的に会っている時も苦しみなら、想像すること、思い返すことも苦しみです。

しかし哲学的に考えると「連続性」がその苦しみの原因となっています。「今」に切り取ると、そこには無属性な状態しか展開しておらず、怨憎会苦すら起こりえないという感じになります。

旧来から怨憎会苦の解決策として、相手を倒すとか、解釈変更を行うとかそうしたことが思い浮かべられてきましたが、そうした「外への働きかけ」や「思考上のやりくり」などは必要ありません。

今に集中することで時空の彼方に解き放つ

「今」に集中することと今をスタートとすること、などで触れていますが、「思考上のやりくり」で解決しようとせずに、単純に今という瞬間に意識をシフトし、全ての現象をラベリングしていくことで、「虚像」であることが見破れるようになってきます。

「一切の形成されたものは苦しみである」ということで、「嫌なものと会う苦しみ」は苦しみですが、嫌なものとすら会っていないのに意識の上で再会し、苦しんでしまうのはバカげています。

苦しみには原因があり、原因が無くなれば苦しさもなくなる、という感じですが、そうした原因は客観的な対象にあるわけではありません。

それらに触れ、それらが何であるかを判断し、固定観念を含めた記憶によって比較やさらなる判断をするということが起こらないと、苦しさという結果は起こりえません。そういうわけで、原因はもっと近くにあるのです。

対象を破壊したりすることで原因が消えるというわけではありません。「結果が消える原因」として、接触や判断、それを支えるものが直接的な原因であるということになります。

このあたりはまた「五種の執著の素因」に関する、五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦)で詳しく触れることにします。

怨憎会苦と虚像

怨憎会苦は、嫌な人で会う苦しみであり、嫌な対象に触れる苦しみです。嫌いなタイプの人と会うのも苦しみなら、その人と会わねばならないと思うのも苦しみであり、その人との思い出も苦しみです。

ただ、人だけでなく、劣悪な環境にある場所に行かねばならないのも苦しみなら、意図せず急に臭いにおいに遭遇してしまうことも苦しみであり、そうした可能性は常に潜んでいて「思い通りにならない」という感じで全て苦しみです。

生理的な反応もあるので、嫌な対象と遭遇してしまうという可能性からは逃れられないという面はどうしようもありませんが、嫌な対象の範囲は、己の持つ期待や観念が大きく影響し、また、同時に世界をどう捉えているかという視点によって大きく変わってきます。

「怨憎会苦は自作自演の虚像である」ということを見破るに越したことはないという感じです。

苦しみの原因は、対象物の機能や属性にのみ依存しているわけではありません。

「それをどう捉えるか」という己の心に大きく依存しているということになります。それは「考え方」といった表面的な思考上の範囲にとどまらず、意識・無意識の全ての領域における状態に依存しています。

そしてそうした領域については、何か思考上のやりくりで一つずつ虱潰しにするという方法は得策ではありません。

そうすると

「何かの条件や行動が必要である」

というアイツこと自我の罠にハマってしまいます。

そういう感じなので、自らをよりどころとし、体感でそれを見破っていくのが良いでしょう。

四苦八苦 あらゆる苦しみ

一切行苦

Category:philosophy 哲学

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