必要な犠牲

「何かを成し遂げるためには、何かを犠牲にしなければならない」

はい。体育会系ですね。

ということで、特に何かを成し遂げなくてもいいですし、何かを犠牲にすることもありません。

必要な犠牲ということで、何かのためには、何かしら犠牲が必要であるという様な論調がよくあります。

それは本当なのでしょうか?

犠牲の必要性を説くために、すぐに有名人を出して犠牲を美徳化しようとします。客観的に見た感想として、すごい時間を犠牲にしたとか、時に青春を犠牲にしたなどなど、何か犠牲と引き換えにすごい人になったというような語り草が好きですが、よくよく見てみるとすごい訓練をしたタイプのトップクラスの人たちも「やみつきになって止められなかった」というのが本音で、何かを犠牲にした上での「努力」という感じではないのが本当のところです。

何かを犠牲にしたり苦しんでやっていると長続きしません。

ブラック企業を代表例とする体育会系においては「必要な犠牲」や「自己犠牲」というものが美しいかのような洗脳を行っています。その上で「トカゲの尻尾切り」のように誰かを犠牲にすることで本体を守ろうというような行動も起こします。

責任感を感じ、自己犠牲などを美徳としている人もいますが、そうした自分に酔っているだけで、そんなものは美しくもなんともありませんし、第一、苦しいだけです。

責任というキーワード

僕を長年縛ってきたものは「責任」というキーワードでした。

「責任感が評価されている」

というある種の縛りです。

必要な犠牲の例として、「誰かが諦めないと数が足りないので何ともならない」というシーンや誰かが犠牲になる形で責任を取らなければならないという場合もありますが、それ以前に、何かにつけてやりたくないようなことでも結局は誰かがやらないと物事が先に進まないということが起こります。

ただ、歳を重ねるにつれて、こうした責任感を煽り、自己都合を押し付ける人や、自分は責任感を感じていても相手はそれに応じるような人ばかりではないということにも気づきました。

そこである時気づきました。

「これは他人による洗脳である」

ということを。

犠牲は美徳だという自己陶酔

世の中では、「私は家族の犠牲になっている」といった感じで、何かを犠牲にしてまで責任を果たしている自分というものに陶酔している人がいます。

犠牲になってまで事をなしているということが美徳であるかのように、「犠牲になってまでやり遂げている」ということに酔いしれているという感じです。

しかし、必要な犠牲というものはありません。

何かしらの目的に沿って事を成している時、そこには犠牲という要素はないのです。

客観的に傍から見れば何かを犠牲にしているかのように見えて、当の本人は、何かをやらないことや意識に上げないことを「これは必要な犠牲であり、犠牲にすることで物事を成し遂げるのだ」という感覚は持っていないはずです。

何かを犠牲にしている、という感じでそうした要素を感じるのであれば、それは我慢や忍耐という属性のものであって、それに陶酔するということは一種の奴隷精神であると考えることができます。

そして、さらに言えば、他者から求められる「責任」など、もっと意味のないことなのです。

責任を果たさなかったらどうなるのか?

ということで、かつての僕と同じようなタイプ、つまり「責任」というものに縛られてきた人たちへのメッセージです。

「責任を果たさなかったらどうなるのか?」

ということを考えてみましょう。

責任感を煽られ「犠牲となれ」と圧力をかけられているということを傍観するように明らかに眺めてみる感じです。

メスの中には、「自分を惚れ込ませた責任を取れ」と苦し紛れに言う人もいますが、そうした局面を想像してみましょう。

社会生活の中でも、権利義務関係を見てみても、究極は賠償くらいですし、会社なら辞職、会社経営なら取引停止くらいです。

こちらが責任感を感じ、自己犠牲とも取れるほど懸命に対応しても、相手はただ自己都合を押し付けているだけということがよくあります。

それもそのはずです。

相手はこちらをなめているからです。

「責任を取れ」と言われて対応する、となると「ということは、私の言うことを聞く人間なのだ」と付け上がってきます。

責任を果たさなかったらどうなるのかということを今一度考えてみましょう。

ほとんどはゼロに戻るだけ。

たったそれだけです。

自己犠牲の精神からの脱却

必要な犠牲 曙光 61

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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