微かでも大きな果報

因果応報という言葉は、どうしても胡散臭いカルト宗教などに利用されがちです。なので、あまり使いたくない感じがしますが、比較的最近、父から聞いた話で気づいた、しんみりした微かでも大きな果報について触れていきます。

うちの寡黙な方のおばあちゃんが存命の頃、二人でよく食事に行きました。おばあちゃんは、特にグルメであるとかはしゃいで騒ぐという感じではなく、静かに黙って食べるような感じでした。

十代の頃、おばあちゃんも含め家族数人で行った時に、ほとんど黙ってふんふん言いながら、食事をする他の家族の姿を見るおばあちゃんを指して、父が「これはこれで結構楽しんだはるんやで」と言っていました(このおばあちゃんは母方の祖母です)。

十代だったので、騒ぐわけでも美味さに唸るわけでもなくという感じなので「楽しいというのは本当なのだろうか?」と思っていました。

その後、株で収益が上がったのか、普通にそこそこ給料があったからかなのかは忘れましたが、ある時おばあちゃんに天ぷらか天丼か何かをごちそうしたことがあります。特に就職したからとかそうしたタイミングではなくて、何の気なしに行ったような記憶があります。

自分でもそうした思い出はほぼ忘れていたのですが、父に聞くところによると、

「痴呆が進んでからは、その話ばかりするようになった」

ということのようでした。

自分としては受けた恩恵の何万分の一くらいの軽いお返しくらいで、あまり覚えていないくらいの出来事だったのですが、痴呆が進んでからは「ごちそうしてくれてね」という話を、会うたびにしていたそうです。

自分としてはそれほど大したことはしていないと思っていますが、痴呆になって頭を埋め尽くす思い出が、何となく良いものであったということは、微かでも大きな果報であるような気がしました。

それと同時に「同じような記憶ばかりが蘇るのであれば、嫌な思い出よりも良い思い出ばかりの方がいいなぁ」ということも思いました。

この点は「爆笑して起きてしまうゆかいな夢」で触れていた「仮に制御できない無意識の世界だけで埋め尽くされるとすればどうなるのだろう?」という問いと同じような感じです。

痴呆になる前からその話をうちの父にしていたそうですが、その後はその話がかなり頻繁に出てくるようになったという感じなので、「自分としては何とも思っていなかった出来事であっても、おばあちゃんの記憶の中に強く印象づいていて、そればかりが繰り返されるのであれば、良い思い出を作れてよかった」と僕も強く思えてきます。

ということで、ちょっとした行為が、相手をほんのり幸せにして、そうした幸せが何倍にも膨れ上がってまた自分に返ってくるということになる、ということはまさに良い果報という感じで思えてきます。

僕としては一緒に食事に行った時点で喜びは完結していたはずが、まわりにまわって増幅して返ってきたような感じです。

なので、大したことがなさそうでも、全てにおいてより良い方に意識を向けるに越したことはない、という感じになるでしょう。

Category:miscellaneous notes 雑記

「微かでも大きな果報」への7件のフィードバック

  1. お久しぶりです。先日はコメントのお返事ありがとうございました。すっと胸がすく気持ちがしました。

    小さい頃から僕は人の顔を伺う傾向があったと感じております。それは両親仲が悪かったことが起因していて、今現在でもその顔色を伺う傾向は強いです。だいぶこれでも変わったと思いますが根本は未だ変わりません。
    その一方でだからこそ人の笑顔が見たくて、誰かが喜んでくれなら嬉しくて、昔から例えば一芸を披露したり、例えばシャレを言ったり、料理をしたりなどよくやっています。今の仕事もそれがしたくてやっています。
    純粋な気持ちが当初だったのですが、今ではふと「ひょっとしたら見返りを求めているんじゃないのか?」と思う時があります。そんなふうに考えて欲深いなあと思うことがしばしばあります。
    「叶うはよし。叶いたがるは悪しし」ですが、中々これが気づいたら果報を求めてしまっている自分を見せてきます。
    ついつい悲観的に考えてしまう悪い癖も原因かと思っています。「ああまたダメだった。なら次こそは…」みたいな感じです。
    でも、やっぱりなにかしてあげたいなあと思うのです。献身ってほどではないけれど、自分がされて嬉しいことは他人にしたいと思います。独善的と言われても。その為には自分に優しくないとなあと思いました。
    まとまった文じゃなくてすみません。

    1. お久しぶりです。コメントどうもありがとうございます。
      僕も多少なりと相手の顔色をうかがってしまうということがありましたが、結局相手の気分は自分の行為そのものだけで決まるわけではなく、体調や直近の状況等々、相手のコンディションによっても結構左右されるという感じを見切ってから全く気にならなくなりました。
      そしてその中で、「自分の中での最善を選ぶことができればそれでいい」という感じで思うようになりました。

      相手への行為は構造上「結局見返りを求めているんじゃないのか?」と問われれば、それを完全に論駁する術がないような構造になっています。

      ということなので、自他問わずそうした目線で問いかけが来たとしても、特に抗わずに「そういう面も含まれているかもしれないなぁ。でも、相手も喜ぶんなら別にいいじゃないか」という感じで流すくらいがちょうど良いのではないでしょうか。

      ただ、場合によっては、相手に邪念を与えたり、自立心を奪ったりと、せっかくなした行為が裏目に出ることもあります。精神に余裕がない状況で判断するとこのようなことが起こりやすくなります。
      ということなので、少なくともこの精神としては「先にどっしりと余裕を持っておく」ということが大切になってくると思います。

      1. お返事ありがとうございます。
        果報は寝て待てですね。最善と余裕。これを念頭に置いてみます。
        「よこしまな考えでやってるんじゃないのか?」という問いかけに抗うことなくさらりと柳のように流すにもやはり余裕が必要ですね。

        今回もありがとうございました。

  2. 「さらりと柳のように流す」というのはすごく的確であると思います。それを受ける心の位置のような「意識の中の焦点」をずらすような形でも良いですし、「どうせあんな程度の衝撃にしかすぎない」と、自転車でマンホールを通過するような感覚で捉えても良いと思います。

    コメントどうもありがとうございました。

    1. お久しぶりです。今回ご報告というかまたコメントをします。
      「どっしりと余裕を持つ」、これができたかというとやはりまだできていないだろうと思いますが、意識しつつ日々仕事に勤めていました。
      しかし、bossu様のコメントにもある通り、相手に邪念を持たれたり、裏目に出たりということが起こりました。それはまあそういうこともあるだろうなと思っておりましたが、この邪念が仕事上大変なことになりかねず、ともすれば問題ともなりそうになっております。下心を持ってやっているだろうと、周りの人々に判断されてしまい危険な方へと進んでしまっています。
      これは、日々接する人々のそれぞれの環境や背景も多分に含まれていることで、そこに自分がよかれと思ってやったことが疑念を持たれた結果です。
      全員がそのような捉え方をしているわけではないようで、中には感謝されたこともあります。
      些細なことが様々関連付けされて今却って自分の首を絞める結果になってしまいました。ある意味因果応報です。そういうこともあるのだなあと思っておりますが、自分も何か急ぎすぎたのかもしれぬと反省しております。

      1. お久しぶりです。
        邪念の発生等々相手の状況まで全てをコントロールする必要はありませんし、どんな出来事でも今の感想と後の感想はまた別になったりするので、その時のその判断、行動はすべてその時点でのベストだったということになると思いますよ。

        自分の中でよかれと思ってやったことであればなおさらです。

        感情や感覚的にはその場で良くないものと感じてしまうことも瞬間的に過去になりますし、思い返すときは、そこに学びや気づき、そして変化へのきっかけとしての出来事としての印象が起こったりします。

        「ひとまずその時点のベストであったし、これはこれで一つの結果ではあるが、もし因果応報が起こるのであれば、もっと先にもっと面白い形で起こるだろう」
        というような感じで捉えておくのも面白いのではないでしょうか。

        1. ありがとうございます。
          一体、どんな風に落ち着くのかわかりませんが、静観してみようと思います。

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