廻り道をして

この哲学全体はそのすべての廻り道を通ってどこへ行こうとするのか? 曙光 553 序

哲学をやりだすと、徹底的に廻り道をしてしまうことになりますが、もしかしたらある程度は必要なプロセスなのかもしれません。

誰にでも分かるようなもので、完全な哲学があれば、それ以外のものは残っていないはずですが、ルートとして幾多の可能性があるため、それぞれがそれぞれの表現で、それぞれの思考ルートをたどって行くことになるのでしょう。

ただ、最終的には小学一年生の問題集から、ノーベル賞くらいの発見をするような形で飛び越えることになります。

思考や言語には限界がある

思考には限界があります。

そういうわけで、言語にも限界があります。

厳密な論証ではなく、体感を例えで伝えるしかないという場合もあるのです。

登りきったあとの梯子はお荷物でしかない、そして、言葉をなぞっても分かる人にしか分からない、文の意味は何となく頭に入ってきても、その単語ごとのラベリングが異なるからこそ伝わらない、なんてなこともよくあります。だから「何も語っていない」とすら表現されることもあるのです。

ある文を正確に伝えようとしても、その中の構成単語のそれぞれの定義を伝え、またその定義に使用されている単語の定義まで伝えていかねばなりません。そうなると無限に何かを伝えていかねばならないことになります。

言葉と印象と体感と経験と

そう考えると、言葉など印象にしか過ぎません。そしてその印象は、その人の中の体感や経験からの推測なんかを頼りにするしかありません。

それらがない状態で、いくら言葉の意味を伝えようとしても、意味は伝わらないのです。

そうして言葉だけでは意味が伝わらない中で、言葉だけを頼りにしても、本質はずっとつかめないままになってしまうのです。

「時間は存在しない」

といっても、あるとないを統合したいわば空の感じです。

で「ある」という側の方は、体験による記憶によって、感覚はつかめます。

ただ、「ない」という側は、体感がないとつかめません。

そうしたことを体感していないと、いくら思考で理屈を考えていっても究極的には認めることはないでしょう。ある程度理屈を捉えることはできても、アイツが認めない範疇のことです。

そして、それが統合された感覚も、それがやってくるまでは、ただ理屈を追って、聞いた話を理解しているつもりになっている程度です。

「この哲学全体はそのすべての廻り道を通ってどこへ行こうとするのか?」

「 」

あえて言葉にしないようにしました。

廻り道をして  曙光 553

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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