「常識」という言葉を使う人の常識について

「常識」というものは、ある空間における快適性と一致した適切な言動というようなものであり、観念や信念のようなものに基づいています。

ある空間の中で、「敵対視されず快適に過ごしたいのであれば…」というようなもので、カント的に言うと仮言命法というようなものになります。

仮言命法ゆえに、絶対性、普遍性はありません。

ある組織の空間であれば、目的、運営における合理性から「空間における快適性」が決まります。

株式会社であれば収益という目的に対して、それに沿った言動が求められるという程度です。

自他共に快適に過ごせるようにというような配慮が元になっていますが、それに政治的、宗教的、特定の主義的な合理性が加わって歪んでいます。

例えば体育会系の空間においては、僕は常識がないということになっています。

彼らの常識が何なのかを知ってはいますが、それに合わせません。

彼らの空間の合理性の元は、儒教となっています。

社会の統制のための政治的合理性、つまり為政者による都合によるものが元になっています。

そしてそれが社会に浸透し、信念となり、それぞれの物事に対する観念が形成されています。

そしてさらに、そうした信念を持つ人が多いかどうか、信念が強いかどうかというような要素によって空間的なものが形成されています。

その空間から出るというのも良いですし、その空間は曖昧なものなので、適当に捉えておいてください。

相手にはそうした信念、観念があり、相手の中の快適性基準から外れている場合に、反応が起こるという程度であり、その相手と付き合うつもりがないのならば問題にはなりません。

常識というものはある特定の空間でうまくやるための知識のようなものになります。そしてその空間でうまくやる方法を教えるということが教育ということになっていたりもしますが、その空間が正しいかどうかは別問題です。

それら正しさは、厳密な正しさではなく仮止めのようなものばかりです。

仕事においてネクタイをしていかないことは失礼にあたり、常識がないというようなことになったりすることも、根本をたどれば何の正当性もありません。

ただただ、「そういうふうに思っている人が多い」という程度であり、いちいち説得するのが面倒で、それほど負担もないためそれに合わせるという程度だったりもします。もちろん合わせなくても構いません。

相手に抵抗する形で非常識を選択すると、抵抗の感覚の分だけ面倒くさいことが起こったりもします。

また、情報的身体の大きさが相手に勝るものなのであれば、絶対性のない常識など吹き飛びます。

相手と付き合いたいか、何かの空間で何かがしたいのか、というような目的に合わせて柔軟に対応するというのが良いでしょう。

その人の信念や観念は、そうであるというだけなので、端的には、相手と仲良くしたいとか、何かの空間に入りたくもないのであれば、「常識」という言葉を使う人の常識など無視しても特に問題はないというような感じになります。

Category:質疑応答

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