対人恐怖と人間不信への対処

対人恐怖と人間不信への対処について触れていきます。

人間不信や疑心暗鬼が加速すると、人によっては他人と接するのが恐いという感じになりますし、人によっては攻撃的になってしまったりします。

自分の「自我」を含めて人の意識は不安定です。なので、人を心底信用することはできませんし、それはそれで大いに理解できることですが、恐怖を感じたり攻撃的にならざるを得ないというのは「この心」にとっても苦しいことなので、「それとこれとは別次元のこと」として捉え、苦しみを時空の彼方に追いやってしまいましょう。

対人恐怖と人間不信への対処としては、非常に簡単で「自分の状態が相手からの反応を決定づける」ということを知り、相手の良い部分を返してもらえばいいのです。

「相手が優しければこちらも穏やかである」というのは相手の状態に依存しています。単に相手に反応しているだけです。

でも「こちらが穏やかであれば相手の優しい部分が返ってくる。優しく接してくれるため、結果的にさらに穏やかになる」

という感じで捉えてみましょう。

相手にコントロールされてしまうという実感

対人恐怖を克服しようとして、強い心を持とうしたり、原因となっている部分を叩いたり、過去の経験を無理に解釈変更しようとしたりしてしまう場合があります。

まあ確かに、体感記憶として、ある条件に対してのある反応が無意識領域から自動的に返ってきてしまうという感じにはなっています。

学校で嫌なことがあったら、学校の風景を見ただけで、嫌な記憶が蘇って体は不快を感じ、それを避けようとするという感じもありますし、過去に自分をいじめてきた人と似ている顔の人を見ると、初対面なのに嫌な気持ちになってしまうという感じです。

そして、人間不信で言えば、例えば連続して異性に酷い扱いをされたとか、勤めるところ勤める所全てがブラック企業だったとか、仲良くしようと思って自己開示をしたらそれをネタにされたとか、そうした感じのことが発端になっていることがほとんどでしょう。

まあ私ごとで言えば、それらとはまた違った感じですが、哲学領域で思索ばかりしていると、この意識は矛盾を嫌うので、矛盾だらけの社会、つまり「人と人との関係」で構築されたこの社会に対して何の信用もできなくなってしまったという感じです。

でも、よくよく観察してみると、嘘をつかれたり、矛盾があることを示されること、話を誤魔化させられること自体までは、実はそれほど問題にはならなかったりします。

後ほど触れますが、それは単にその現象として相手が何かに対して反応したことに対して自分が反応してしまい、「相手にコントロールされてしまう」という実感を持っているという感じです。

嘘も矛盾もごまかしも嫌いだ!

もちろん嘘も矛盾もごまかしも、すべて問題と言えば問題ですが、「この心」として「問題」となるには、その現象に対してこの意識が反応し、感情が生起されてしまったり、不当な物事を不服でありながら受け入れざるを得ないというような状況がもたらされることが問題であることを発見しました。

もちろん嘘も矛盾もごまかしも嫌いです。

それ自体も嫌いですが、何よりも嘘や矛盾やごまかしであるのに、それに反応し、それにコントロールされてしまうことが本質的な問題であり、それに対する怒りとして「嫌だ!」という感情が起こっているわけです。

で、その感情は不快です。可能な限り味わいたくありません。

なので、人と接すると、嘘や矛盾やごまかしが生じてくる上に、「さっき言っていたことと今言っていることが違う」ということも頻繁に起こるので、「そんなんだったらもういいわ」ということになり、人と接するのが嫌になります。

そんな感じが加速していくと、人と接しても嘘ばかりだということになり、「下手に信用すると騙される」とか「接したところで傷つくだけだ」ということになり、人間不信が加速し、対人恐怖が起こるか、非常に暴力的な感じで過ごしてしまうことになります。

その解決法とか克服法とか対処としては、究極的には相手に反応しないということにはなりますが、人と人とが接するということは、「何かを発し、相手は何かを捉えて何かを返すこと」が連続して起こるので、その点に着目してみましょう。

性善説と性悪説を統合して考える

世の中には、性善説と性悪説という概念があります。

「人は生まれつき善の塊だが、たまたまその時は条件が悪く、邪念を保持してしまって結果悪いことをしてしまった」というようなのが性善説で、

「人は生まれつき悪の塊だが、抑止力が働いていたり余裕があったりすると、たまたま悪いことをしないということが起こる」というのが性悪説です。

まあこうした二元論で考えるよりもちょっと統合して考えて、そうした概念を活かしてみましょう。

つまり、人には善と悪、天使と悪魔が混在しているくらいに考えておくという感じです。

だからすごくいい人でも、阿羅漢レベルでない限りは、それらが混在していて、ふとした拍子に相手を傷つけたり相手のエネルギーを奪ってしまう事があるということになります。

逆にすごく悪人とされている人でも、それらが混在していて、時に優しい一面が垣間見れたりすることもあるという感じです。

イメージとしては豊臣秀吉に対する織田信長のイメージなんてどうでしょうか?

「味付けが薄い」といって激怒するくらいの横暴な彼も、相手が秀吉だった場合は、仕事上で大失敗してもちょっと怒鳴るくらいだけだったという感じだったようです。家柄に関係なく極端に出世させたりしたというところにも平等博愛精神が垣間見れます。

ということから考えられることは、自分の状態が相手からの反応を決定づけるということです。

自分の状態が相手からの反応を決定づける

相手にすがろうとか相手にはこうあって欲しいという感じを筆頭に相手への依存要素があると、相手の反応に一喜一憂することになり、相手の嘘や矛盾やごまかしに辟易することになります。

でも「相手の反応は、自分の状態によって変化する」というところを見逃してはいけません。

自分が疑心暗鬼のままで接すると、相手はそんな「疑心暗鬼の状態の自分」に対しての反応を示します。

自分が寂しいという気持ちを持って接すると、相手は「この人は寂しがっているんだな」ということを捉えた上で反応を示します。

敵意を示されたり、傲りを示されれば、それに対する反応をします。

で、疑心暗鬼や寂しさを見抜かれた上で、それに反応する相手がよほど余裕のある人ならいいですが、時にそんな意識の状態を良いことに自己都合の方に持っていく人達もいるので要注意です。

優しさを演出した上で最後に財産を奪っていく結婚詐欺師などがわかりやすいかもしれません。そうした意識の状態につけ込む輩の邪念を焼き滅ぼさねばなりませんが、仮に焼き滅ぼすにも先に自分に余裕がなければなりません。

なので、余裕が無い時にはスルーするのが一番です。

相手に依存している状態では、相手の嘘や矛盾やごまかしに辟易することになりますが、自分の状態によって相手が返してくるものが変化するのだから、相手を直接変化させようとする前に自分の状態を変化させるに越したことはありません。

という感じの構造が冒頭で少し触れた「こちらが穏やかであれば相手の優しい部分が返ってくる。優しく接してくれるため、結果的にさらに穏やかになる」という感じです。

新約聖書的であり、「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます」の世界です。

善悪的な関数

まああくまでイメージ的なことになりますが、例えば、相手の中には善と悪が混在しているとしましょう。

その中の善の部分に反応してもらうということです。

自分が善の部分で接すると、相手の意識の関数は、相手の中の善の部分で演算して返して来てくれますが、自分が悪の部分で接すると、相手の意識の関数は、相手の中の悪の部分で演算して返してくるという感じです。

もちろんそうした善悪の関数のあり方は人によって様々です。そして相手にも相手の状態があり、今どちらに傾いているかは千差万別です。

だから、固定的な関数が固定的に働いているとは考えず、絶対的なものであると考えてはいけません。

相手が世間で言う悪人であっても、自分にだけは優しいということすらあり得るということです。

でも、ある程度関数には幅があり、善悪のバランスも時期で絞ればある程度の傾向があります。

だから基本的に詐欺師は詐欺師ですし嘘つきは嘘つきです。

そういうわけなので、自分が穏やかであれば、相手は「必ず」良い反応を示すとは限りません。

優しさにつけ込んで騙してやろうという邪念すら生まれるような関数を保持している場合もあるからです。

ということで、優しさの手前には強さが必要になります。

いざという時はそんな邪念すらも見破った上で焼き滅ぼすくらいのことができた上で「穏やかであれ」という感じです。

武道の極みは、敵と友だちになることです。

でも、友だちになれるのなら、最初から強さなんて要らないじゃないかということになりそうですが、強さがあるから余裕ができて恐怖心が無くなり、恐怖心がないゆえに敵意が無くなるので友だちになれるという奥にある構造を見逃してはならないということになります。

これは時に格闘が起こるような武道の領域の話ですが、意識・心理の上でも構造は同じです。武道の極みのように、物理的な強さは必要ありませんが、武道のそれは、相手に依存しないという意識があれば、自分の力はどうあれ最強になるということを示唆してます。

その極みはゼロであり無限であるということです。それが諸法無我の領域となりますが、それはここでは割愛しておきましょう。

相手は単に本人もわかっていないだけなのかもしれない

と、対人恐怖と人間不信への対処として、「相手の善悪の関数」と自分の状態が相手からの反応を決定づけるという点を中心として書いてみましたが、人が発する嘘や矛盾やごまかしから起こる疑心暗鬼、そして人間不信についてもう少しだけ書いておきます。

相手が意図的に嘘をつく場合もありますが、「単に本人もわかっていないだけ」とか「全体が見えず近視眼的になっている」という点を見逃してはいけません。

ブラック企業の労働条件に関しても、下手をすると相手は法律すら知らないまま経営している場合もあるという感じです。

すると学校で労働法関連を学んだ人からすれば、「法律を無視している悪人だ」と思うはずですが、単に相手はそれすら知らずにいるだけだというケースもあるということです。

もちろん社長等々重要な役職にありながら知ろうともしていないという慢心や怠惰はありますが、それを知るべきであるということすら知らないというケースすらあると思っておいてください。

明らかな長時間労働の場合は、意図的な感じがしますが「有給休暇の概念がない」という部分などは、個人や零細企業ではありがちです。

「全体が見えず近視眼的になっている」という部分については、例えば「派遣の方はこのゴミ箱にゴミを捨てないでください」というようなやつです。

確かに表面上の合理性から考えればゴミ処分のコストは浮きますが、そうしたことをすることによって、派遣労働者の人の自己評価が下がり結果士気が下がって生産性が下がったり離職率が上がってしまい、人を傷つけるだけでなく自分たちも損をすることになるということが見えていないという感じです。

経済社会においてもそうですが、個人的な部分でももちろんそんなケースはたくさんあります。

哲学領域の理解を相手に求めても、相手はそんな事を考えたことすらないということがたくさんあります。倫理学的領域でそうですし、心理においてでも同様です。

でもそこで、相手にいきなり共感を求めたり同意を求めたりしても、相手は根本的にもっと手前からわかっていない場合もよくあります。

それを棚上げして正論を振りかざしても、相手の悪の関数が反応するだけかもしれないということを頭の片隅に置いておいていただければと思います。

相手の反応への依存

また、自分の状態によって相手が変化するということをもって相手の反応に依存してしまうこともあります。

疑心暗鬼や人間不信に陥りながらも、今までどこかしら相手から承認をもらおうとばかり思っていた人が、先に相手を承認することを覚えて、相手の善の反応を得たとしましょう。それはそれでいいことです。奪うよりは与えるほうがいいですから。

ただ、そうなるとそれを利用して自己都合を叶えようとか相手に好かれようとかそうした邪念が起こることがあります。夜の世界の人やムラムラで釣っている政治家などでありがちです。

そして世の中には繊細な人もいます。

アホの一つ覚えのように「すごいねすごいねすごいねー」などと連呼したところで「何が?どこが?何のつもり?それがどうしたの?」と反応してしまう人もいるという感じです。まあ昔の僕ですね。

「はいはい。君はそうやって、適当なことを言って相手のガードを緩ませて自己都合を押し付けてくるか、自分が好かれたいか、それ系でしょ?」

という感じです。

それは、一見相手から奪うというようなことのない、相手への依存がなさそうに見える「褒め」であっても、その奥にある動機が「自分が好かれたい」とか「褒めた相手の反応をもって自分が承認されたい」というものであり、相手への依存があるということになります。

そう考えると、単に利用しに来ているとか踏み台にしているとしか捉えられないので、邪念を焼き滅ぼす系の関数が発動することになります。

人によっては

「すごいですねー」

なんて言ってみても

「は?バカにしてんの?」

と返してくるでしょう。

誇張があるということは、部分的には嘘があるということです。

そしてその嘘は「自分を可愛がりたい」というものが発端となっています。

「相手を踏み台にしてでも自分を可愛いと思いたい」ということになるので、相手の尊厳を踏みにじり、自尊心を奪っているということにもなります。結局与えているつもりが奪っていることになるという感じです。

表面上は与えているように見えて奪っているということです。

与えられたものに気づく

対人恐怖と人間不信への対処ということなので、最後に相手に依存しないにしても「相手から与えられたものには気づくこと」について触れておきましょう。

相手に完璧を望んでも、相手の中には善と悪が混在しており、今現在の状態によってバランスも揺れ動いています。

そして、自分があまり良くない状態にいるにもかかわらず、それでも慈悲の気持ちを持って不器用ながらにも接してくれる人たちがいます。

普通は悪の状態に対して悪で返すところを、完璧ではないものの「善寄り」で返してくれるような人ですね。

原則は「悪を発すれば悪」であり「疑いを発すれば疑い」であり、「敵意であれば敵意」です。

でも、敵意を発したのに敵意を返してこない人もいるはずです。

例えるなら「クソババア」と暴言を吐いてもご飯を作ってくれるお母さんのようなものです。

そんなことは親だから当たり前だなんてなことはありません。もしそう思う人がいれば、それは勝手な自己都合です。自分にだけ都合の良いように考えているにしかすぎません。

もちろん社会的な同調圧力や法律等のシステムによって規制されているという間接要因はありますが、それでも悪に対して悪では返していないということは、作ってくれたご飯の分以外にも、悪を返さずにいてくれた分だけ与えられたということです。

また、人によっては「寂しさ」とか「困っています」を発すると「利用してやろう」と考える関数を持っている場合もあります。

でもそれをしないということは、不作為の分だけ与えてくれているとすら考えることもできます。

表面的な作為のみならず不作為すらも、絶対値的に差分だけ与えられたということです。

道を歩いていて、野草を足で踏みつけても、野草は仕返しをしてきたりはしません。

その分だけ与えられているということです。

それを忘れて、不足に焦点を当てている場合ではないという感じです。

人であってもその他の生き物であっても不作為によって与えてくれているという側面を忘れてはなりません。

そう考えると、疑心暗鬼などどこかに行ってしまいます。

どこかに行ってしまったなら、相手はそんな穏やかさに応じて反応を示してくれるでしょう。

人のみならず、この心に映る全てが穏やかさに応じて美しい世界を見せてくれるはずです。


「人を信用することができない」ということが人を苦しめる最たるものの一つです。何事も信用し切ることはできない一方、一切の信用がなければ社会生活はままなりません。

「信用しようとすること」自体が疑いを含んでいたりしますが、「人を信用しない」ということに自分も含めるということで、それを脱することができるかもしれません。

人間不信に関する全ての問題が問題ではなくなるには、究極的には諸行無常と諸法無我と一切行苦に気づくということしかありません。

人を信用するということに対して、「こういう場合は信用できる」とか「こういうタイプは信用できない」といったように何か汎用性の高い法則、判定基準などを求めたりもしますが、信用できるかできないかという感じではなく、自分も他人も「常に変化し固定的な観念は保持され得ない」ということを観察し気付いてしまうほうが手っ取り早いという感じになります。

人を信用することと人間不信

Category:うつ、もしくはうつ気味の方へ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語のみ