家の前で遊ぶ子供がうるさすぎたので注意すると子供の親が怒鳴り込みに来た

「家の前で遊ぶ子供がうるさすぎたので注意すると子供の親が怒鳴り込みに来た」ということで、先日実家に帰った時に向かいの家の子どもたちが騒ぎまくりながら遊んでいて、お互いを呼ぶ声などがうるさすぎたので注意した時のお話です。

感覚でいうと、となりのトトロの「メイ」が最高にテンションの高い時×6人だと思ってください。

「キャー!」「きゃあん!」と叫ぶ子供の奇声への対処で触れているような奇声は既に対処済みなので奇声は発しませんでしたが、余りあるエネルギーに加え歪んだ自己都合的「叱らない教育」によって情動を抑制する神経回路が発達していない子どもたちなので、近隣の家のなどお構いなしです。

奇声こそあげないものの、となりのトトロにちなむならば「お姉ちゃーん」というような呼び声が、人間の持てる力の最大級という感じです。

近年、社会学分野ではこうした人達を道路族というふうに呼んだりするそうですが、家の前で遊ぶということは旧来からあるようなものでありつつも、「無法地帯化している」とか「限度を知らない」という感じであり社会問題化しているようです。

まあ袋小路系新興住宅地でありそうな感じですが、我が家の場合は、向かいに住んでいた「近所のおばあちゃんたち」が亡くなり、その土地が売却に出され、そこに新しく新築を建てて引っ越してきたような人たちです。

まあ家の前で遊ぶという習慣は僕たちの頃でもありましたし、その後近所の子たちも同じように遊んでいました。

しかしながら、それら子供の家庭は古くからの付き合いのある家庭ばかりであり、小さい頃に銭湯で全員の裸を見せ合っているという仲の人たちばかりです。

少なくとも古くから住んでいる人たちの子供、孫たちは、町内の近隣住宅に対する配慮と近隣の大人への敬意がありました。

一方、ぽっと空いた土地に引っ越してきた人たちは、

「買った自分たちの自由だ」

という感覚があり、個人主義的な感じが結構あります。

ということなので、節度がありません。

もちろん節度があり、近隣住民との協調をはかることができる人たちもいますが、個人主義的に周りを気にしないという人たちも結構います。

まあ不動産屋に「家の前で遊ばせられますよ」とそそのかされて買ったものなので、「遊んで何が悪いんだ」という感覚に陥ったりもしているのでしょう。

と、前置きが長かったですが、それでは本題の「家の前で遊ぶ子供がうるさすぎたので注意すると子供の親が怒鳴り込みに来た」について進めていきましょう。

「限度を知れ!」と注意してみた

「事業の相談がしたい」ということで、弟に呼ばれる形で実家に顔を出した時の事です。

向かいの家二軒の子どもたちが外で遊んでいました。

電卓をはじきながら様々な計算をしていると、

「お姉ちゃーん!」というような感じで、互いの名前を呼び合ったりする形の絶叫が聞こえてきました。

「限度を知れ」

ということを思ったので、窓から顔を出すと、おそらく誰かのおばあさんであろうおばさんが見守る形で子供がたくさん遊んでいます。

ということはおばさんは先の絶叫を何とも思っていないということです。

ということなので、「限度を知れ!」と言ってみました。

子どもたちが多少睨むような形で見返してきたので

「お前らの天下とちゃうぞ。大人をなめるな」

と続けてみました。

さすがにおばさんも気づいたようなので、子どもたちを連れて家の中に帰っていきました。

すると、5分くらいして「おばさんの家とは違う方の家」の父親が我が家の前に仁王立ちしていました。

子供の父親が仁王立ちで怒鳴り込み

「おい!降りてこいコラ!」

と向かいの子供の父親が我が家に怒鳴り声をあげ始めました。

「お、久しぶりにタメ口で喧嘩を売られたな」

と思い、ワクワクしながら階段を降りました。

「おいコラ!」と向かいの家の父親。

「なんや?」

「お前こら、子供にいきなり何言ってくれてんねん!」

「うるさいから限度を知れって言っただけやろが」

「子供がビビっとるやろが」

「言わんとわからんアホやからしゃーないやろが」

「何やねんお前は!大人をなめるなとか何とか言って」

「その通りやんけ。お前もナメられてるんとちゃうんけ?」

「まずはオレに言ってこい!」

「既に教育に失敗してるお前に言ってどうすんねん?言わんとわからんのか?

叫んだ時に注意したんか?してへんやろが!」

「いきなり子供に言うなや」

「今回が初めてちゃうやろが」

「今日が初めてやろが」

「前にも奇声あげて注意してんぞ。お前はおらんかったか知らんけどお前の嫁は知っとるわ」

「何やとコラ!」

「何やとコラちゃうやろが。ボケてんのか?ごまかしてんなや」

「とにかくオレに言ってこいや」

「子供にナメられてるお前が教育なんかできんのか?子供に注意せんとオレにあたんのか?(笑)

何が子供がビビってるからじゃ。

それだけのことしとんのじゃ」

「この騒ぎで公園にも行けへんことぐらい理解しろや」

「それと騒音撒き散らすんとを混同すんなや。

さっき言った通り限度を知れや」

「近所の迷惑言うたらお前んとこも早朝にバイクの音が…」

「何の話やねん?

うちちゃうから」

「いや、なんべんも言おうと思ってたけど、早朝にバイクで走り出してるやろ!」

「うちちゃうて。

何やお互い様理論か?発想が幼稚すぎんぞ。

そんでうちの家ちゃうし。それにもしうちでもバイクは出てしまう音で、おまえらのは抑制できるし。バイクは生活、お前らのはただの快楽やんけ」

(早朝バイクはうちの隣のおじさんです)

「何やとコラお前!」

「オドレ誰にモノ言うとんじゃ」(bossu父)

「まあ次から言いに言ったらええんちゃう」(bossu弟)

「そうやオレに言いに来たらええんや」

「お前が注意しても何ともなってへん結果が今日に出てたんちゃうんか?」

「前に言ってきた時にちゃんと注意しとるわ!」

「お前さっき今日が初めてや言うてたやろ?

どっちやねん?矛盾だらけやんけ(笑)

しらこいことばっか言ってんなや」

「言いに来てくれたらちゃんとオレら親が謝るやん」

「謝るとかいらんし。そんないらんから再発防止策を講じて欲しいわ」

「まあ次から言いに行ったらええんちゃう」(bossu弟)

「ほなまあご希望どおり毎回言いに行くわ」

「そうしてくれたらええ」

「何が悪いんかよう教えとけよ。限度過ぎたら訴訟やぞ。

そうなると責任取んのは保護者やから、法にも照らし合わせてご希望どおり言いに言ったるわ」

というようなやり取りの後、絶叫していた子供の父親は無言で去っていきました。

母に聞くと、その後静寂が続いているようです。

まあそんなこんなで、奇声、絶叫系のケースで初めて相手が怒鳴り込んでくるという感じのことを経験しました。

ちなみに今回は、「相手をあえて怒らせて知能指数を下げ、墓穴を掘らせる」という戦術を使いました。「感情優位になると思考が働きにくくなる」という性質を利用したわけです。

現実にキレ返してきた

ちなみにこの子供およびその父親は「『キャー!』『きゃあん!』と叫ぶ子供の奇声への対処」で次のように触れていた家庭です。

以前実家の前で「奇声ラッシュ」が起こったことがありました。

その時にももちろんキレたわけですが、その直前に一瞬観察すると、奇声を上げている子どもたちは、奇声をあげた直後「会話をする保護者たち」の方を見ているのですが、当の保護者側は子どもたちを一切見ていません。

そういうわけで奇声ラッシュが起こりました。

キレてからというもの、実家の近くに引っ越してきた人やその友人達は、僕を無視するようになりましたが、それで構いません。

自分たちが正しいというのならば、僕にキレ返してみればいいのです。

「自分たちが正しいというのならば、僕にキレ返してみればいいのです」

ということで、現実にキレ返してきました。

まあその時に僕がキレた時にその父親は不在だったのですが、今回は「いきなり子供に言うな」というような感じでいきなりキレてきたわけです。

「今回が初めてでいきなり」と彼は言っていましたが、もちろん初めてではありません。

家の前の騒音問題に関する対処法

まあこうした家の前の騒音問題に関しては、以前ご紹介した「足音や振動など隣の家の騒音への対処」と同様の方法で対処することができます。

この手の「話が通じない人」を相手にする場合は、最終的には訴訟で解決するしかありません。

そして、先の騒音問題の時と同様に客観的な証拠を事前に準備して、「手を隠しつつもいざという時に備えておく」というのが理想的です。

基本的には、騒音のデシベル値を計測するというのが一番です。

注意で収まればそれでよし、それで無理なら「警告」の後、最終手段として「訴訟」を検討すればよいのではないでしょうか。

そんな時でも事前に有効な証拠を揃えているか否かで、結果は大きく異なってきます。感情に任せても良い方向には向かいません。なので備えあれば憂いなしということで、最低限のポイントを押さえ、できる限りの備えをしておきましょう。

家の前の騒音問題に備えるために押さえておくべきポイント

ここで家の前の騒音問題に備えるために押さえておくべきポイントを整理しておきましょう。

基本的には次のような感じになるでしょう。

  1. 一定以上の音量の騒音が日常的に続くこと
  2. 再三の注意にも関わらず改善が見られないこと
  3. 代替手段や対策など回避可能性があること

それではそれぞれについて見ていきましょう。

一定以上の音量の騒音が日常的に続くこと

相手の出す騒音が「受忍限度」を超え、不法行為として取り扱われるには、「騒音の環境基準」である昼間55デシベル、夜間45デシベルという数値を超える音である必要があります。

家の前がうるさくなった時に、家の中でデシベルを計っておくと良いでしょう。比較対象のために平静時も計ったり、窓を開けた状態、閉めた状態なども計測しておくと無難です。

もちろんデシベル値だけでなく、計測した日時を記録し、相手が特定できているのならば相手の名称を含め、そこにいた人数なども控えておくに越したことはありません。さらに動画などによってその日の騒ぎの様子を残しておくというのも証拠能力を高めることになるでしょう。

そして「日常的に」という部分も大切です。家の前で騒ぎまくることが一回限りではなく、日常的に続いていて、それら騒ぎを複数回計測しているという場合にこちらが有利になっていきます。

再三の注意にも関わらず改善が見られないこと

また、こうした家の前で起こる騒音について、「注意の上でも改善が見られなかった」という点が結構重要になります。

まあ改善されていくのであれば問題にもならないという感じになりますし、結局は「話が通じない相手」が「話の通じない相手」であることを客観的に示すことができれば良いという感じになるでしょう。

注意した日時や方法を控えておくというのが基本ですが、警察への通報などは、「警察という第三者も関わった注意」として客観性が高まると考えられます。

その場合は、担当警察官の部署と名前などを聞いておいて、日時とともに控えておくと良いでしょう。

「通報があり、注意対応した証明」というものを出してくれることは期待できませんが、少なくともその日の出来事を仔細に記録しておけば蓋然性(確からしさの度合い)が高まります。

代替手段や対策など回避可能性があること

騒音と言っても、例えば引っ越しであるとか、リフォームであるとか、そうした一過性かつ、どうしても音が出てしまう出来事というものは日常にたくさんあります。

なので、騒音が不法行為として取り扱われるためには、「代替手段がある中、あえてそれを選んでいる」とか「対策があるのに講じていない」という感じで、「回避可能性があるのに回避しようとしていない」という落ち度が必要になってきます。

まあ家の前で遊んで絶叫してうるさい、という点について、一回限りならばまだしも、それが日常的であるのならば回避可能性だらけなので、ここではそれほど問題にはならないでしょう。

なお、念の為に記載しておきますが、「法律で決まっているからダメなのだ」ということの前に「ダメだと思う感覚」から法律等々があり、判例に表れているということを忘れてはなりません。

(「受忍限度」等、各種騒音問題についての法的解釈の詳細については「足音や振動など隣の家の騒音への対処」の方にもう少し詳しく書いていますので、そちらをご参照ください)

話が通じない相手への対抗手段

こうした備えは「話が通じない相手への対抗手段」として、切り札として忍ばせておくのがベストです。

そして「話の通じなさ」に応じて警告などに利用していきましょう。

近年、袋小路住宅を筆頭に家の前における騒音問題がよく起こっているようです。そんな中、相手が話の通じない相手だからといって耐え忍んだり、全然関係のない第三者に訴えかけたりしても苦しいだけで前向きではありません。

相手が話の通じない相手であるのならば、否が応でも理解せざるを得ないような強硬手段に及べば良いのです。

個人主義による地域コミュニティの弱体化と共同体意識の欠如と情動コントロール力の低下

最後になりますが、根本には個人主義の加速による地域コミュニティの弱体化と共同体意識の欠如というような部分が影響を与えている他、歪んだ「叱らない教育」が生んだ「子供の情動コントロール力の低下」が問題を引き起こしています。

私的自治の原則から考えれば、「お互いが納得していればそれでいい」というのが私人間の関係性の基本です。

まあ単純に考えれば、近所の全員が仲良しならば、多少の騒ぎでも問題にならず、叱るにしても温厚な注意となり、法的解決といった最終手段などかなり遠い話になるという感じです。

簡単な挨拶等々でもトラブルにまで発展するかどうかの吸収剤となりえるという単純な部分が見落とされているフシがあります。

まあ今回の怒鳴り込んできた個人主義的な家庭は町内でも浮いており、一方その他の住民たちは古くから銭湯で裸を見せ合っている仲なので、古くからの仲の人達にあっては、今までにそんなトラブルがあったことは一度もありません。

そして、もう一方で、歪んだ「叱らない教育」が生んだ「子供の情動コントロール力の低下」です。抑制する機会がないので、情動を抑制する神経回路が発達していないという部分があります。

あくまで相関関係ですが、文部科学省の統計によると、2012年から小学生の暴力行為が急増しており、思春期たる中学生の暴力事件数とほとんど同じ数になっているというデータがあります。

それまでは高校における暴力事件数との比較において、小学校の方が事件数が少なかったのですが、現在では高校の4、5倍程度の発生件数となっています。

その原因として指摘されているのが歪んだ「叱らない教育」による「抑制する機会のなさ」という感じになっています。

抑制の機会がなくわがまま三昧で育った者同士が同じ教室に並ぶと、互いにわがままを通そうとしてぶつかり合うのでしょう。

まあ今回の怒鳴り込んできた父親にしても、子供が絶叫して叱る先というか当たりどころが僕であり、ぶつけるべき相手を間違えているフシがあります。

「ビビるから」という理由でしたが、僕としてはそうした短期的な負荷が抑制の機会も反省する動機も、様々な物事を考え理解するということにもつながると思っています。

ということで、「そんな父親を持つ子供がかわいそうだ」と思う部分もあります。

ちなみに「ビビるからやめろ」と言いつつ「降りてこいコラ!」と来るのは落語的でした。

まあ話が通じないのも無理はありません。

「キャー!」「きゃあん!」と叫ぶ子供の奇声への対処

足音や振動など隣の家の騒音への対処

Category:miscellaneous notes 雑記

「家の前で遊ぶ子供がうるさすぎたので注意すると子供の親が怒鳴り込みに来た」への2件のフィードバック

  1. お疲れ様です。今回の文面の中にある「静寂が続いているようです」という言葉で、以前私が「閑静な住宅街において、ランダムな時間で騒音をまき散らしているご家庭」に投書した内容を思い出しました。今振り返ると、私は3つの流れで手紙を書いたのだなと思いました。
    1「この地域は基本的に閑静な状態です=平穏です」2「その閑静な地域の屋外で御宅のご家庭はお子様を大きな声を出させて遊ばせています=突然、お子様の叫び声が上がると近隣の方々は驚かれます」3「1と2から今後も御宅はこの地域に住み続けるにも関わらず、お子様をこの閑静な住宅街で大きな声を出させながら遊ばせ続けるのでしょうか?お宅様が私を含めた近隣の方々からどの様に思われているかお分かりですか?」というごくごく普通の事ですが、順を追って示した事で相手にも一応は伝わったのだと思います(今は私の方がTVの音量や飼い猫の声などでの周囲への迷惑を気にしているくらいです。それくらいに閑静な地域なのです)
    ですが、今回のBOSSUさんの場合は相手が「1つの家庭」ではなくいわゆる本当の「道路族」(複数の家庭で成立している事が多い)です。この様な場合、数の論理と言いますか相手側が強気に出る事が非常に多く、大変厄介だったと思われます(厄介な人も出てきましたので)。また『この場所で遊ばせるのが私達の常識。昔からそうしてきたしこれからもそうする』というスタンスの話が通じない&自分勝手なタイプが存在してもおかしくありません。こうなると私はどの様にしたらいいか頭を悩ませてしまうと思います。

    BOSSUさんの今回の文章と私の先日の騒音の件で共通しているのは「子供の遊び声(奇声やボール音など)がなければその地域は非常に閑静になる」という点です。これからは「子供達が外で遊ぶ声がうるさい」という形で指摘するよりも「子供達が外で遊ぶ声がなくなればこの地域は非常に閑静になる。皆もそれを望んでいるのは明らかだ」という「今回指摘した私以外にも、私と同様の事を感じている人々はあなた達以上に存在しますよ」というニュアンスを含ませた方が効果的なのかなとも思いました。
     私は声を荒げるのはやはりあまり好きではないので、またこの様な件がありましたら「これはこれ以上怒らせたらヤバい奴だ」という事を何とか手紙で理解してもらうスタンスで
    行こうと思っています。(上記のご家庭にもそれとなく「私の精神状態」を記した内容も追記しましたのでそれも伝わったのだと思います)

    長文失礼致しました。莓やアスパラガスも良いですが京都はこれからの時期、茄子が美味しいとお聞きしています。(私は横浜在住なのであまり詳しくないですが)、季節の変わり目という事もあり、体調管理などにはくれぐれもお気を付けください。

    1. コメントどうもありがとうございます。
      「閑静な住宅街において、ランダムな時間で騒音をまき散らしているご家庭」に投書された内容は理性的で素晴らしいものであると思います。
      ただ、「私だけではなく他の近隣住民も閑静な状態を望んでいる」という部分も相手によっては有効ですが、単純多数決的な民主主義に陥るおそれがあるため、使い分けが必要だと思います。おっしゃるとおりに、数の論理で多数派が形成されれば、上記の内容は有効的ではなくなる場合があるためです。

      直接的交渉においては、単純な多数決となると多勢に無勢という構造が生まれてしまい、いかに横暴な相手でも数が多ければ正当化されてしまうという主義としての不完全性を持っています。それを乗り越えるためには、民主主義においても最低限の個人の権利を保護した上での民主主義的決定を行うという構造が必要になります。
      そしてこの場合、保護されるべき個人の権利の基準として、法解釈や判例などを用いるという形が最良であると考えています(相手は話が通じないですからね)。
      近隣社会という小さな集合の中で私的自治がうまくいかない場合は、より大きな集合としての社会の方の民主主義を採用するという感じです。

      京都ではもうしばらくすると賀茂なすが市場に出てきます。
      グーグーさんにおかれましてもお体をご自愛下さいませ。

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