学者の偏見

ある研究が始まり、そのことは研究し尽くされている、ということは正しい意見ではありますが、昔より今の方がその分野への理解は進んでいるというのは全く誤謬で、さまざまな方法論的なジャンルやデータはたくさん膨らんでいったとしても、それは表現が変わっていっただけで一切進歩していない場合もあります。

さらにはそれどころか、元々は純度が高かったものが、「あるランクまでは学ぶ」ということをしていった結果、余計な不純物が混じって、結果の表現がおかしなものへと変化していくのが普通でしょう。

名言、格言の解釈

これは、よくある「名言集」について現代のライターが自分の解釈を加えてコメントしていく場合にそれが加速します。

しかし「名言」が名言とされるのはどうしてでしょうか?

それは誰がどんな合理性に基づいて判断したものなのでしょうか?

たいていは、その名言を残した人が何となく有名で、何となく権威性があって、何となく凄そうというだけではないでしょうか?

ひどく浅い解釈をしてコメント

雑誌のライターやウェブの記事のライター程度と言っては何ですが、その手の人は、概ねその名言や金言、格言と言われるようなものを放った人の著書などを一冊も読むことなしに、簡単な短文だけを推測で雰囲気だけ捉え、ひどく浅い解釈をしてコメントを残すのがせいぜいです。

解釈コメントが付加されていくと、なんとなく社会で「良し」とされるような人物像がもっていそうな人格、また、それから出てくるような言葉になるように、勝手に変わっていきます。

何かしら有名なだけで、それを吟味する事無く引用し、世に伝えていく、その姿はある種盲点を肯定し、一種の洗脳を加速させていくとすら考えられます。

現代バージョンに含まれる不純物

それが、雑誌程度でも大問題ですが、学術の世界でも大変な惨事です。本当に研究が進んだ分野の現在の第一人者は、誰よりも、そして過去の誰よりもそのことを知り尽くしているのでしょうか。答えはわかりません。調べても特に意味はありませんから。パターンを知っているだけで、何にも役立たないかもしれません。

ただ、過去のものの方が良かった、と嘆くのもおかしな話ですが、確実なのは、現代のバージョンの方が過去を知っている分「必ず優れている」というのは全くの誤りです。

現代の方が不純物がたくさん混じっているかもしれない、そういう可能性の方が極めて高い、というかそうなっているのが普通です。誤りというよりも、偏見、つまり偏ってしまっているという表現のほうが近いでしょう。

学者という職業人であるからこそ起こる死活問題

まして学者が職業になっている以上、何か凄そうな素振りを見せなければ、職業としては成り立ちません。権威性がないと飯が食えないという死活問題があります。論文を書くのが仕事ですが、それはほとんど過去のデータを寄せ集めただけで、新しいものなど、ほとんどありません。そんなに新しいものが出て来るはずもありません。

過去に学んでいないから、同じようなことを繰り返しているだけです。もしかしたらもう気づいているのかもしれませんが、やめられません。やめたら食い扶持がなくなるのですから。つまりは「最新だから最も優れている」とでも思い込まなければ、やってはいられない職業なのかもしれません。

統計的な実験のデータなどに関して、何十年も前に研究されたことを未だに根拠として使うというのもいいですが、研究予算があるのならば、また再度実験してみるのも良いのではないかということを思うことがあります。

例えば、何十年も前に、外国の大学生数十人、数百人程度の統計、相関性から推測したような理論をそのまま現代でも使うということはどうなのか、ということです。

それ以外に根拠となるデータを持つようなものがない、というのであれば、それ以外のデータを集めればいいのではないでしょうか。

世の中には疑わしい理論やデータがたくさんあります。言い切るには根拠として弱いようなものもたくさんあります。

既にある知識を寄せ集めただけの人を量産するくらいなら、もっともっと既にあるものを再確認していってみるというのも良いのではないかと思ったりします。

学者の偏見 曙光 2

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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