嫌な記憶や辛い記憶の扱い方

おそらく誰にでも嫌な記憶や辛い記憶というものがあると思います。

「嫌な記憶や辛い記憶を忘れる方法はないか?」

「いっそ記憶を消す方法はないだろうか?」

ということを思う人も結構いると思いますが、無意識の奥底まで対象とするならば基本的に記憶というものは忘れることができないため、何かしらで表面的に出てくることを抑制することはできるかもしれないものの、それらは忘れ難く、忘れようとする試みは失敗に終わることがよくあります。

嫌という感情や辛いという感情が伴うような記憶の想起は、体の緊張を伴います。ということで体に刻まれた「体感記憶」として残っているということになります。

ではそうした嫌な記憶や辛い記憶はどのように取り扱えばよいのか、ということになりますが、基本的にいつまでも覚えているような記憶は生存本能面で何かしら有用な記憶として機能を持っていたりもするので、少なくとも敵対視することは避けるべきです。

「こんな記憶は消し去ってやりたい」

という気持ちはわかりますが、「何かしら生きていく上で役立つ」と判断されているからこそその記憶はしつこく残っていて重要度の高いものとして高い頻度で登場したりするわけです。

「役立つなんてとんでもない!」

ということを表面上の意識では思っていても、生命体としての自分は「今後の危険を回避するために有用である」と思っているということになるので、一応「何かしらの意味があるのだろう」ということは受け入れなければなりません。

「ある都合には合わないが、別のある都合は叶えている」というのは本当ですからね。

嫌な記憶や辛い記憶は自分を守るための選択肢の一つを提示する

嫌な記憶、辛い記憶の影響で何かしらがうまくいかないということがよくあります。

意識の上では理性的に「何とか最低限の関わり合いを持っていた方がトータルではプラスになるのになぁ」とは思いつつも、社会を拒絶していたり、ある組織や方法論を拒絶していたりする場合です。

何か新しい領域に飛び込んでみようとか、新しい方法を試してみようと思いつつも、嫌な記憶、辛い記憶の影響により「やっぱりやめておこう」という感じで踏み出せないというようなケースです。

社会を拒絶している引きこもり社会人や学校を拒絶している不登校の児童生徒などもそんな感じになるでしょう。

それはそれで、何かしら生体レベルでの自己保存の意味があって、緊張を回避するため、攻撃されるリスクを避けるためといった自分を守るための機能を持っています。

嫌な記憶、辛い記憶から「関わらないこと」という選択肢を提示し、それを選択するようになっているという感じです。

例えば「フラれた」ということであっても「喪失感」が生まれますし、意志決定においても「重要度の高いものが抜けることで起こる混乱」が起こったりします。それは不快な感覚です。

ということで、「今後、不快な感覚を味わうまい」と、スタートから異性を拒絶するというようなことが起こったりもするわけです。

ただそうすることは、一つの自己防衛には繋がりますが、様々な経験の可能性を狭めることにもなります。なので葛藤が生まれたりもするわけです。

そういう選択肢自体は自己防衛の一つの手段として一応成り立ちます。しかし、他の選択肢を持ち、状況に応じた「最適」を選べるようになるに越したことはありません。

記憶は虚像であるのならば虚像のあり方を変化させる

では、本題の「嫌な記憶や辛い記憶の扱い方」の方に移りましょう。究極は、今への集中による「記憶×0」、「変性意識ゼロの状態」ですが、とりあえずは「虚像であるのならば虚像のあり方を変化させる」という感じで記憶の取り扱い方について進めていきます。

以前、「記憶からの影響・記憶の臨場感を下げる方法」において、記憶についての初歩的な操作をご紹介したことがありました。それと同じように、「記憶は虚像である」のならば、虚像のあり方を変化させることで、結果たる感情や体感が変わってしまうということについて触れていきます。

これは思考的な解釈を変えるということではなく、記憶の描写のパターンを変化させてみるというようなことになります。

記憶を思い出す時の描写のあり方を操作するという感じです。

思考的な解釈によって思い出の解釈を変えるということもたまにうまくいくことがありますが、「そうはいっても実際には通じないような理屈だからなぁ」というような「納得できない感」がやってきたりしてうまく機能しないことがあります。

今回はそうした感じではなく、記憶のイメージの出方を変えてみようというような感じになります。

嫌な記憶や辛い記憶をイメージ、つまり絵で思い出す時、当事者としての目線で思い出を思い返してしまう場合は、自分と相手を眺める第三者としての目線、つまり傍観者として見てみるというような操作が有効的です。

ただ、思い出の蘇り方には個人差があるので、良い思い出を思い出すときはどのような絵になっているかということを確認して、それと同じ「パターン」で嫌な記憶、辛い記憶の絵を想起してみたりするとうまくいきます。

記憶の描写の操作例

例えば、僕の場合であれば、勤め人の頃、「全然足りねぇじゃん!」系の上司に当たったことがあります。

先輩と雑談していると「ちょっと」と呼ばれ、「仕事ナメてんのか?」と連呼されたりもしました。

まあ想像に容易いように嫌で辛い記憶です。

その時の絵として、普通に想起した場合は、当事者として当の上司が自分の隣の席に座り、大股開きかつ鬼の形相で自分に向かって「仕事ナメてんのか?」と言っている絵が浮かびます。

では、その絵が出てきた場合はどうすれば良いのか?

これは僕の例ですが、叱られている自分とその上司を天井くらいから眺め、絵が白黒でぼやけているような絵に変化させます。もし、声の方に臨場感を感じてしまう場合は、その声をヘリウムガス声などに変化させてしまいましょう。

さらにこれをコントにするために、全体はぼやけながらも上司の服が透けるようにし、お尻には浣腸が刺さったまま、猛烈な便意に耐えているというような構造にします。

そうすると「便意への苛立ちを募らせているのだ」という感じになってしまいます。

その上、BGMをLUNA SEAのJESUSにしてしまえば、立派なコントの完成です。

一旦ストーリーが出来上がれば、あとはそうした映像を数秒の短時間で一気に再生してしまいます。

何度も繰り返していると気にならなくなったりしますが、その人と出会ったりした時に笑ってしまわないようにだけ気をつけましょう。

人によってパターンの変更の方法は様々ですので、いつものパターン以外の絵やストーリー背景に変えて試してみましょう。うまくいくかもしれませんし、一度ではうまくいかないかもしれませんが、何かしらいつもよりはマシになっていったりはするでしょう。

死別等別れに対する悲しみの場合

また、死別などなど、別れに対する悲しみの場合は、当事者としての思い出を思い出した際に、嬉しい記憶のはずなのに、「今はない、今となっては叶わない」という感じで現状とのギャップで苦しんだりすることがあります。

そんな時も同様に当事者として別れた相手が登場するようなシーンにおいて、少し傍観者的に記憶に自分を登場させてみましょう。

公園にいる場面であれば、相手の顔が見えるというパターンから自分と相手が一緒に楽しく陽だまりの中を歩いているという絵に変更します。そしてその陽だまり感を強めゆったりとしてキラキラとした絵に変えたりします。

これも個人差があるので、色々なパターンを試してみてください。

変化を確認するポイントは体の感覚

「記憶の描写の変更が合っているのかどうかがわからない」

という場合が出てくるかもしれませんが、そうした時は、いつも通りの記憶の想起の時に起こる体の緊張と、操作後の体の緊張を比較すれば、合っているのかどうかを容易に確認することができます。

例えば、嫌な記憶、辛い記憶をいつも通りに思い出した際は、胸が苦しいとか胃が重い、熱いとか、肩がこわばるといった身体的反応が出てくるとしましょう。

操作がうまくいけば、いつもよりはそれら症状がマシになっていたりします。つまり、「胸の苦しさがマシで緊張度が低い」とか「肩の力が抜ける」というような感じです。そんな感じで体の感覚を大切にしてください。

嫌な記憶や辛い記憶がマシになったところで他の選択肢はないかを考えてみる

そんな感じで嫌な記憶や辛い記憶に対して「絶対に嫌だ!」という反応から、多少マシになったり笑えるようになってきたところで、「同様の状況において他の選択肢はないか?」をゆったりと考えてみると経験の可能性が広がっていきます。

僕の例を元に仮定で話を進めますが、例えば「全然足りねぇじゃん!」の上司による嫌な記憶から「そんな上司と当たる可能性があるから勤めるのはもう嫌だ」と思っていたとしましょう。

「出会う可能性を無くすために働かない」というそれ自体は「全然足りねぇじゃん!」による体の緊張を回避するということに対して有効な選択肢の一つです。

通常、よくあるパターンとしては、「全然足りねぇじゃん!」が嫌ということは固定であり、そうした出来事が起こらないような社会を望むか、社会を拒絶するかという感じで、記憶の印象の方を固定化し、「人と会わずに暮らしていける方法」を探そうとしてしまいます。

一応それも可能性、選択肢の一つです。それ自体は大切にしましょう。

ただ、たった1人の上司、もしくはごく少数の人間のせいで、その他の何の罪もないような善良な人々との出会いが制限されている、ということも事実です。

なので、「全然足りねぇじゃん!が嫌」ということはそのままで置いておいて良いですが、全てを拒絶するのではなく、様々な回避法や代替案や解釈方法を試して「うまく取り扱う」ということをしていくほうが建設的です。

極端な拒絶の原因となっているような嫌な記憶や辛い記憶がコントになってしまえば、「同じようなやつが現れても帰りには爆笑できるぞ」とすら思えてきたりします。

そんな中で、「はい。すいません、と言う以外にすることはないのだから、同様の状況の時は、まあそれで数分を乗り切ればいいか」とか、「少なくともあのタイプの人が上司の場合は、顔色で判断しながら雑談をやめておこう」というくらいにまでは思えてくるかもしれません。

記憶による感情の動きや体の不快感がマシになり、理性的に出来事を捉えられるようになる、ということは

「上司の機嫌を含めた状況を確認しないまま、雑談をすると怒りをぶつけてくる」

「勤めている以上、どうしてもヒエラルキーはあるし、勤務時間中は自由を制限されても致し方ない。嫌なら独立かなぁ」

ということを理性的に学習したということにしかなりません。

嫌な記憶や辛い記憶を思い出して、

「あの人の考え方はおかしい」

とか

「でも動けない自分が情けない」

といったようなことをループさせるくらいなら、記憶の描写、記憶の表現の「パターン」を変更してみる方が良いでしょう。

「こんなすぐに変わるのなら今までの苦悩は何だったんだ?」

といったように、今までの苦悩に価値を与え、苦悩してきた自分を変に肯定するということは避けてください。

もし苦悩の日々に価値を与えるとすれば、

「あ、ここに至るまでのプロセスだったのか」

という感じで捉えておきましょう。

嫌な記憶、辛い記憶もその時は自己保存のための最適であったことは確かであり、「もう二度と同じような緊張は味わわせないよ」という一種の配慮であったということになります。

それは、今後もひとつの手段、選択肢として手元に置いておきながら、さらなるステップアップのため様々な手段を新たに手に入れるという感じで、全てを肯定しておきましょう。

Category:うつ、もしくはうつ気味の方へ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語のみ