「外国では神を信じてると言おう」は、無神論・アナーキズムとニヒリストへの恐怖

まあ一度くらいはボコボコに書いておこうかと思ったので、「外国では神を信じてると言おう」という発想に対する答えについて書いておきます。

結局、キリスト教圏などを含め外国で、無宗教、無信仰、無神論が非難されるのは、アナーキズムとニヒリストへの恐怖の裏返しであり、自分たちの思想の押し付けにしかすぎないということになります。

英語学習や国際関係の学習の場ではすぐに、「外国で何も信仰がないということを言うと不審がられるから、神を信じてると言おう」などと平気で言っていたりします。

残念ですが、そうしたことについて教育する場合は、「相手はそういうフレームを持っているので、ひとまずの信頼を得て身の安全を確保したり、取引をしたいというのであれば、適当に相手の感情を逆立てずにすると良い」という程度で教えるのがベストでしょう。

なぜなら、グローバルスタンダードが絶対的に正しく、思想信条まで「外国に合わせるのが正しい」というような、構造になってしまうからです。

まあ僕から言わせると、「そりゃそんな発想だと戦争を起こすわ」という感じになります。

「自分たちは合わせてこないのに、こちらには合わせろという人たち」ですからね。

日本は島国であり、鎖国もしていて、基本的に長い間単一民族国家であり続けていたということを忘れ、「なぜはっきり物言わないのか?」という論調を繰り広げる外国人もいるようです。

「何でか自分の頭で考えてみな」

ということになります。

昔から「プレゼントの包装紙をビリビリビリっと威勢良く開ける人はドラえもんを理解できない」ということを思っていますが、そうした人たちに思想信条や感覚を押し付けられるのは嫌だと思っています。

「外国で神を信じていないと言うと信用されない」などということが言われたりしますが、僕は本場イスラエルですら平気で宗教関連の話をしてきました。まあ自分から話したわけでなくとも相手から聞いてきたりしますからそれに答えたという感じです。ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒などたいていのタイプの人達と平気で話してきました。まあ相手としては日本人がどのような人間なのかに興味があったのでしょう。

例えば、特に信仰があるわけではないというような話をした後、「では日本人だから…ブッダを信じているのか?」などと聞かれましたが、「信じる対象としての存在ではないよ。アプローチが違うんだ。根本的に仏教は宗教でも思想でもないよ」というようなことを言ったりしてみました。

「信じるということは疑いを含んでいるので、君が本当の信仰心を持ちたいと思うのなら、無理に信じようとしないというのが逆説的にその実践になるんじゃないかな」というと感心されたりしました。

それで何か逆上されたとか、信用してもらえず物を売ってもらえなかったとか、ホテルに泊まれなかったとか、そうしたことは一度もありません。それどころか、トルコなどではご飯をおごってもらったりしたくらいですから、「神を信じていない」=「信用できない」ということではないと思っています。

適当にはぐらかすために、外国に行った時にそうした質問をされた時の返答の例文を英語で示すというのもいいですが、それを超えて「そうあるのが正しい」とするのは、結局思想信条の押しつけであり、一種のマインドコントロールであると思っています。

素晴らしい人間だと評価されたいでしょ?→国際的な教養が高く、国際舞台で活躍できるような人は素晴らしいですよね→じゃあ外国に行った時には「神を信じてる」といいましょう

というような論調です。

アナーキズムに陥るニヒリストへの恐怖

まあ何にも信仰がない人が信用されないというのは、とどのつまり、自分より上位の存在を認めず、それに対する畏怖もないならば、当然に戒律やその延長である法律を守らず、約束事においても「契約を無視する」ということも当然に起こすだろう、という推測がなされるというようなことでしかありません。

上位の存在を認めないのであれば、国家や法や裁判所や警察すら恐れない、ということは「好き勝手自分の基準で物事を決めるのではないか?」というようなことが推測されてしまうという感じです。

それと宗教的な信仰を結びつけるなよ、とすら思ってしまいますが、相手はそういうふうに思っているということをいきなり変える事はできず、またそうする必要もないので、「そんなふうに考えている人たちと社会的にやり取りする」ということがしたいのであれば「適当に安心させてあげればいい」という感じになります。

まあ仮言命法的に「その人達と円滑に関わりたいのであれば」という前提があるという感じになります。

しかし、そのためにと「信仰があります」と嘘をつけというのは、彼らなりの論調で言っても「神への冒涜」になると思うのですがいかがでしょう?

それこそモーセの十戒の第九の戒め「隣人に関して偽証してはならぬ」に抵触しているではないか、ということになります。

結局こうした無宗教や無信仰、無神論に対する非難というものは、ニヒリズムがある意味能動的に起こった場合におけるアナーキズムへの恐怖であるということになります。

それくらいまで考えたり説明してから「外国では神を信じてると言おう」と言ってください、という感じで思っています。

ニヒリズムからアナーキズムへ

ニヒリズムという概念自体は、かなり昔の投稿で散々書いていたりするのでそちらをご参照いただければと思いますが、まあ「すべてが無価値である」ということになり、「何でもありだ」ということになった場合、無政府主義(アナーキズム)のような感じになってしまう場合もあるという感じで、一切の信仰も無くし、「全て自分たちで決める」と、社会的な約束事を無視するような人になる場合があります。

「全てが無価値であり、自分たちで価値を作る。既存の社会的価値を認める必要はないので好き勝手やろう」

というような感じです。

無神論者であればなおさらです。

「信仰があれば、国家に対しては制約を無視することがあっても、少なくとも良心を保ち、無茶はしないだろう」

ということで安心したいということが根底にあります。

そういうわけで「外国では神を信じてると言おう」は、ニヒリズムや無神論から導き出されたようなアナーキズムや暴力的ニヒリストへの恐怖からきているというような感じです。

「契約を守らないということは、神を裏切ることになるので、信仰心のあるものは契約を守るが、無神論者の場合は、神を恐れずに契約を守らないかもしれない」

という発想を持っているにすぎません。

異教徒への対応

ただ、よくよく考えると「私は神を信じています」という事になった場合、「異教徒は人間としてみなさない」という発想を持っているかもしれないと考えることもできるはずです。

また、異教徒ではないということを示すために「あなたと同じ神を信仰しています」といったところでチェックが入り、「嘘だ。十戒を破ったな。悪魔だ」ということになってしまうことも考えられるわけです。

そういうわけで、信仰心があるから信用できるとかできないというのは本来ナンセンスなのです。

「外国人のほうが正しく優れている」というマインドコントロール

まあただ、その人達も、相手に「信仰心があれば、神を恐れて無茶はしてこないだろう」ということを思い、相手の信仰の有無をもってどうコミュニケーションをとるかということを決めようと思っているということは事実でしょう。

しかし、だからといってなぜそうした人たちに合わせなければならないのか、ということです。

それこそ「外国人のほうが正しく優れている」というようなマインドコントロールだと思うくらいでちょうどいいという感じです。

逆に無神論や無宗教に対する執著があると、それは一種の信仰になりえます。

そういうわけで、「信仰心のある人達」に抵抗はしませんが、奥にある構造を考えもせずに「外国に行ったときには神を信じてると言おう」とか「『神様を信じてないよ』はNG!」などと言う事自体が一種の盲信であり、カルト臭いマインドコントロールされた人の論調だと言っておきます。

「お前らの恐怖心には付き合ってられんわ」

ということです。

といっても、たいていは英語教育の需要を高めたい人たちや「グローバルコミュニケーションができる自分ってカッコいいよね」的な人たちの譫言がほとんどであり、相手にするレベルのことでもないのかもしれません。

こうした点が「英語だけが得意だという人は、その他の学力が高校生レベル」であると感じる代表例です。

なお、個人的にはそんな領域にはいないのであしからず。

一切の主義や思想信条、宗教の領域を飛び越えていますからね。

Category:miscellaneous notes 雑記

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語のみ