哲学と解釈

哲学することと哲学を学ぶことは大きく異なり、また哲学することと解釈することは大きく異なっています。

ではそれらは何か違うのでしょうか?

その根本的な違いは、ある具体性を持ったものの内側を見ようとすることと、具体性を突き抜けて、より抽象化していくことにあります。つまり、具体性を包括しつつより全体的で統合された地点から自己解釈を再構成するということです。

特別企画の曙光(ニーチェ)完了記念ということで、何かニーチェっぽいことでも書いてみようかなぁと思っていましたが、すぐには思い浮かばず、お題を無意識に任せていました。が、先程ふっと降りてきたので「哲学と解釈」について書いていきます。

哲学の限界を超える

先に言っておきますが、再三書いてきたように僕は既に哲学の限界を超えています。それは論理の限界を超えているということであり言語の限界を超えているということです。だから言語で表現することができません。

そういうわけで哲学というものへの執着はなく、様々な哲学の論争の集合の外にいます。

といってもそんなことをいうと妄言のような印象しか与えないので、ギリギリわかるかわからないくらいのラインまでは書いていきます。

具体的なところからの解釈スタート

まず、世間一般の解釈自体が具体的なところからの解釈スタートであることの問題を指摘しておきましょう。

ローマ・カトリックにおいては、新約聖書の解釈を教会が行っていました。そして、プロテスタントは自己と聖書のみの世界を望み、聖書の解釈を自分で行うということをしました。

いわば、聖書の解釈を教会だけが行えるというところに異論を唱えたわけですが、そこまではいいとして、この構造の問題に気付いた人がいるでしょうか?

それは、聖書自体の正当性自体を疑っていないということです。

聖書の記述自体は絶対であり、その文言の解釈を求めたというにとどまっているということです。

これは世界中のどの宗教にも見られます。日本においても、法華経の解釈を巡って、各宗派に分裂したりしていますが、法華経の文言自体を疑ってはいません。

これを一歩外から見ると

「頭おかしいんじゃないの?」

と思うはずです。

無宗派的な風土の強い日本人ならなおさらそんなことを思うはずです。

しかしながら、こうした首を傾げざるを得ない宗教の前提になる「聖典」の疑いなきところ、聖典は絶対であるという具体的なところからの「聖典の文言解釈」というスタートに近いような構造は、世間一般にもたくさん溢れています。

法律や税制を無言で受け入れる人たち

法学部にいた人や法律を勉強していたような人であれば、一度は首を傾げたことがあると思いますが、まさに法律はこうした「文言は絶対で、それをどう解釈するかの世界」そのものです。

一応建前上は、トラブルの際の解決であったりトラブル予防であったりしますが、ウルトラC解釈も盛んに起こったりします。

まああくまで人と人との関係性である社会における「べき論」であり、それを民主主義的正当性で根拠付けているという構造になっているという感じで、絶対的な「理」について語っているわけではないので仕方がないとも言えます。

ただ、一般市民に課される課税に関しても、その割合で考えれば、一般会計分と特別会計分を合わせれば、トイチの金貸しより凄まじい搾取です。

なぜかそれを当然のものとして、どう生きるかというところからしか考えていないはずです。

国家との関係に関しても、無言で一方的な要請を受け入れているはずです。民主主義的正当性という説得材料を持っているだけで、やっていることは一方的です。

これらを受け入れつつ、その内側で生き方を選択している、ということは、先の宗教的な「具体的な解釈スタート」と同じです。

哲学するということは、それらの全てを知らなくても、大枠の内容や可能性を理解しながら、それを包括する抽象的な領域で世界を解釈する基準を見つけていくことです。

だから、全く無関係ということもありませんし、何も知らない上で妄言を語っているのではありません。

社会的な抽象化

哲学としての話の前に、具体的な解釈とそれを一段抽象化した場合の解釈の違いを例としてあげておきましょう。

例えば具体例として、今の日本でスタンダードとなりつつあるのは、高い学歴を得た上で、条件の良い大企業に勤めて安定した暮らしをするということだとしましょう。

そこで具体的な解釈をしてしまうと、その道に沿って塾に行ったり、就職後も会社で評価される資格を取ったりと、そういうことばかりが目につくようになります。

しかしながら、そうした具体例の枠組みを超えて、働くとは何かを考えてみましょう。

そうすると、お金を稼いで生活するということになります。そうなると起業したりすることも選択肢に入ってきます。

さらに、それを「合法的な枠組み」という具体性を取り払って考えると、違法なものの売買や詐欺という手法も選択肢に入ってきます。

正規の方法でいうと、捕まったり訴えられないような営業方法でお金を稼ぐということになりますが、詐欺師や闇金などはある種本質を捉えて最短ルートを考える天才だったりします。

例えば闇金であれば、大手消費者金融の広告をスキャンし、電話番号だけを差し替えてポスティングします。

いろいろな意味で犯罪的ですが、手間を最小限にしてお金を稼ぐという意味では天才的です。

義務教育のまま育った人にとっては盲点となっているところが見えるのです。

真面目な人からすれば、そうした広告をきちんとプロに頼んだり、芸能人の写真を載せるのであれば、相応の契約をしたりということを考えるでしょう。しかしそれでは、小資本の会社では結果が出る前にキャッシュが続きません。

と、犯罪的な話になってしまいましたが、要点としては、具体的な視野の中にいると、その視点からしか物事が見えなくなり、盲点だらけとなり本質が見えないということです。

なるべく具体的なところから物事を解釈していくのではなく、なるべく抽象的なところから本質を見抜いた上で世界を見渡してみましょう、という感じです。

先の例で言えば、犯罪領域にならないレベルでショートカットをすればいいだけです。ゼロベースで時間と費用をかけるのではなく、「大まかなテンプレ」として捉えつつ、闇金に手を出すような人は「芸能人の写真が響く」というようなポイントを見抜くことができます。

法律はそれに反した時に、国家権力によって強奪されたり懲らしめられるというような事柄です。

それを変革するということは、してもしなくてもいいですが、まずは無言で受け入れるのではなく、所詮その程度だと見きった上で、その中での上手い生き方を見つけていけばいいのです。

個人所得を得てから車を購入すれば、所得税が引かれますが、事業として展開していればそれは経費になります。そんな感じ折り合いをつけましょう。

で、少し社会的な話になりましたが、具体的なところからのスタートをやめる、それの極地的な分野が哲学です。

知識と解釈によって世界を見ている

すごく簡単な話なのですが、仏像を拝んでいる人たちを傍から見ると

「頭、大丈夫か?」

というふうに思ってしまうはずです。

しかしながら、

「拝んで病が治った」

ということが起こる人もいます。

ということで、その人の世界では、そうした法則が成り立っているのです。

傍から見れば気が狂れているとしか思えません。

しかし、現実問題として病が治ったりしています。

といっても、それは仏像がその人を治したわけではありません。

その人の知識や解釈によって見えている世界は、その他の人とは別の世界なのです。

ということで、その内容がどうあれ、その人の意識の状態が回復の方向へと変わったというだけの話なのです。

だから万人には通用しません。

「私は拝んで治ったのだから、あなたも拝んだら治るよ」とするには少し早いのです。

確かに、そうした前提、つまり知識や解釈が刷り込まれていけば、本当に「拝めば治る」という法則が聞いた人にも出来上がるかもしれません。

なぜこんな話をしたかというと、特定の「阿弥陀如来像」とかに限らず、世界各地で異なる宗派の異なる対象であるにも関わらず、これと同じようなことは起こっているからです。

具体的なところから、こうした現象を解釈してしまうと、特定の「阿弥陀如来像」の力だ、ということになり、「阿弥陀如来の力とは何か?」みたいなところからばかり話が進みます。

しかし、同じようなことはその対象が異なれ世界各地で起こっています。

人によれば、それは「阿弥陀如来の化身」という風に説明するでしょう。

まあ好きなように語ればいいですが、こうした構造の理由は簡単で、何かを拝み、何かに縋るということは、「我」の力を手放すという意味で、アイツこと自我を手放すということになるだけ、という感じです。

少し俗っぽい例えになりますが、例えば、配偶者の態度について不満を持っていた人が、その不満のストレスにより体を壊していたとします。

「あの人はおかしい、私があの人をコントロールしてやる」

と力んでいるうちはストレスでいっぱいです。

しかし、そんな人が、何かを拝み、祈ることで、

「私ではなく、〇〇が導いてくれる」

と思うようになります。

すると力みが取れます。

だから体の不調が無くなっていくのです。

傍から観察していると気が狂れているように見えますが、その人はそうした知識や解釈で世界を見ています。

で、実際にその人の中での情報状態が書き換わるのです。

まず、自我の意識的判断、言語的判断による緊張があります。

それを意識上で宗教的な世界観に変えて、自我を短期的に手放すことによって緊張ともども解き放ちます。

ここで問題となるのは、そうした構造を具体的な「○○」の力ということにしてまうところです。

一度成功すると、それが条件になっていきます。

何度も成功し、毎度成功するのならば、その人の世界はそうした宗教的世界観でいっぱいになります。まあある意味で幸せなのかもしれません。

しかし、そうなるとその領域への執着が生まれます。自分の信ずるものを信じない人を悪魔のように感じるようになります。そしてその領域以上の地点には行く動機が無くなり、結果、盲点によって本質が見えないままになるのです。

具体的に示せば示すほど、それが一つの正しさを帯びつつもそれ以外の可能性を覆い隠します。

結果、極みにはたどり着けないということです。

文言の絶対性はどうやって証明するの?

そういうわけで、聖典然り、法律然り、世の中のほとんどすべてにおいて、なぜか文言自体の絶対性については議論されないまま、その文言の解釈ばかりになっています。

「哲学を勉強する」という場合は、ある哲学者が書いた文献をどう解釈するかの領域になります。時代背景を考えて、「おそらくこの単語の意味はこういうことだ」とかそういう感じですね。

「解釈」というのは、目の前にあるものを自分自身でどう捉えるか、というところです。

例えば「愛」という表現をどう捉えるかというところがわかりやすいでしょう。

アガペーと表現される「愛」は神の無条件の愛、ということになりますし、「愛は真心、恋は下心」というふうな感じでニュアンスで捉えている人もいるはずです。

で、哲学するということは、誰かが語ったこと、既存の何かをスタートとして、それをどう解釈するかということではないのです。

誰かが語ったことも、あくまで単なる材料として捉え、自分自身を拠り所として、そうした具体性を抽象化して世界を解釈していくという作業だと考えています。

そうなると、文献の解釈というのも一つの思索のきっかけとしていいですが、道端に咲く草を観るということも、それと同じように可能性を持っています。

文献の解釈自体は結構ですが、そこで終わることはその文献の枠内に留まることを意味しています。

世界を見る枠組みを更に広いものにしたければ簡単です。ある具体性を一度脇に置き、全く知らない分野を知ってみるということです。

対象と解釈可能性が広がらないと見えない

お金を稼ぐことしか頭にない人には、「お金を稼ごうとしている」という目線でしか見えません。

だから、誰かの慈善事業も「売名行為だ」という目線で見ることになります。

確かにそれが報道されれば、高い広告料を払わずして、名前と好印象を世間に伝えることができます。

1000万円の寄付をして1億円の広告効果、という風に見えてくるわけです。

そういうわけで、お金がほしい人達の目線からすれば「売名行為だ」ということになります。

しかしながら、そうした側面は、それを意図しなくてもどうしても付随してついてきます。ある行動は、膨大な解釈可能性は包括しているので、見る人の知識と解釈によってそうした風に見えるのは仕方ありません。

もっと深読みすると、そうした寄付行為をした人とすれば、1000万円の寄付をして1億円の広告効果があったとして、その広告効果でよりたくさんの寄付金が集まり、自分が支援する慈善事業が更に加速すればそれでいい、と思っているかもしれません。

自分が広告効果によって受けた恩恵があったとして、その稼ぎでまた寄付すればいいじゃないか、という風に思っているかもしれません。

そこを理解するのに、巷の床屋談義レベルの論争で唯一絶対の理由を見出すことはできないのです。解釈は無数に広がっており、どれも正しくあり得るからです。本当のところは本人しか知りませんし、本人すらすべてを把握していないかもしれないのです。

言語の解釈自体は、その読み手が単語に持っている印象によって変化していきます。だから言語を通じて、100%の純度を持ってすべてを伝えること自体が不可能です。

一つ言えることは、その人と同じ目線自体を持つためには、その人と同じレベルにまで視野が広がっている必要があるということです。

そして視野を広げるは、具体的なスタートをしたとしてもその後に他の同レベルの具体的なものを発見して、ある一つの具体性に疑いを持つことが最も有効的です。

具体性を外して世界を捉えてみよう

しかしそれら言語的分野などは、レベルが低い領域です。

ある具体的なもの、そして同等の具体性を持ったものをどんどん仕入れていくよりも、具体性の枠組みを外すということが本来は最適であり、それは体感の世界になります。

言語の記述としての論証を必要とせずに体験できるものがたくさんあります。

具体的な枠組みからスタートすると、人を殺してはいけない理由を「聖典の記述」とし、その解釈として「人の定義」が議題になります。

傍から見ると狂人としか思えないはずです。

しかしそうしたのが、現代においても一部の世界の標準であり、ニーチェがいた時代もまた、現代よりもそれが色濃く反映された時代でした。

一歩外から見ると、「どういう形式の祈りが最適か?」というようなことを議論している人を見て、「頭は大丈夫だろうか?」と思うはずです。しかし世論はそうした疑問を抱く人を逆に変人扱いしました。

「外国に行った時は神を信じていると言おう」という人を見て気が狂っていると思わずに、「そうなんだ、それがグローバルスタンダードなんだ」ということを思う人もいるはずです。

それは気が狂っているとしか思えません。

「彼らはそうした枠組みから世界を見ている狂人なので、変に喧嘩をせずに穏便に過ごしたければ、適当に『そうですね』と言っておけ」というのであれば良いのですが、「相手が自分に合わせる」ことを棚上げして、自分が相手に合わせるべきだ、日本人が欧米人に合わせるべきだ、という論調が数多くあります。

いわば「具体的領域の内にいる狂人に合わせろ」という「狂人の意見」ということになりましょう。

少なくとも哲学の領域では、そうした具体性を取り払うべきです。それは、ニーチェが生涯をかけて伝えたかったことの一つであると、僕は僕の自我の解釈のもと思っています。

といっても、そうした哲学的な分野に対する執着はありません。なぜなら、もうそうした領域を超えているからです。

「世間の人達に認められなくてはならない」

という条件は、人を柵の中に監禁します。

「他人の評価を己の安穏の条件としない」

という中にいる者にとって、哲学の分野の厳密な記述による論証や派閥などは無関係です。

世界的権威である、という人が仮にいたとして、その人が僕を非難したとしても、僕には関係ありません。

ある考えに執着し、僕を屈服させなければ心が落ち着かないという条件を保持している相手を憐れに思うだけです。

Category:philosophy 哲学

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