合意と具象

相手の合意を必要とする場合、抽象的なことであっても具象化せざるを得ないという場合があります。

様々なことをわかりやすく伝えたいというのはやまやまですが、そんなふうにどうしても相手の合意というものが要るとなれば、本質とは少しズレたところで示さざるを得なくなります。

しかしながら、抽象的なまま語られると譫言のようにしか感じざるを得ない場合もあります。正しいのですが、時にカルト的になってしまうというような感じです。

相手の納得を得るということになれば、相手のレベルにある程度合わさざるを得ません。ただ、そうして落とした抽象度のままの答えが本質的な答えというわけでもありません。

合意に必要な相手の都合

とりわけ社会においては、正当性を主張しながらもかなり自分の都合が含まれていることがよくあります。学術になってくると比較的マシになってきますが、そうした分野ですら自分や相手の都合というものが考慮されて語られていたりもします。

未確定のことであってもとりあえず決めてしまわねば前には進めないという構造があり、複数の人達で構成されている社会においては、そうした適当な感じも致し方ない面があります。

ただ、相手を納得させようとすると、本題とは少し違ったことを語らざるを得ない場合があります。

例えば、本質的には精神の働きによる緊張によって体の具合が良くないという感じであっても、「どんな栄養を摂れば良いのか?」という感じで視野が狭まっている人に対しては、そうした領域での話から始めるしかない雰囲気があります。

でないと意思疎通がうまくいかないので、結局話自体が破綻します。

自分と相手のバランス、自分と社会のバランス

しかしながら、そうした感じの話し方に慣れていると、何事もそうした考え方をしてしまったりします。自分と相手のバランス、自分と社会のバランスを取ったような考え方をしてしまうというような感じです。

ただ、そうした自分や相手の考え方は、たいてい偏りがあります。考え方は、今まで得てきた経験、得てきた情報により形成されているので、その偏りは致し方ないという感じになっています。

しかし、そうした考えが正しく、心を安穏に導くかということは別問題です。そうなってしまったのには責任がありませんが、それをどう扱っていくか、どう扱って何を受け取るかという「受け取り」に関しては、否が応でも責任があります。

基本的に自分も偏っていて、相手も偏っているのだから、たいてい答えは何かしらの歪みがあります。ただ、一応その場でのベストではあります。

ただ、そうして合意を目指して出した答えは、ある具象的な、狭い範囲での答えでしかありません。

それがいけないわけではありませんが、本来は、もっと高みにたどり着くこともできるという感じになります。

カルト的に見える抽象的なままの語り

対象が抽象的であれば抽象的であるほど、それについて示そうとすると譫言のように聞こえてしまったりします。

直感的に捉えるしかないような領域もあるのである程度は、仕方がないのですが、抽象的な表現は、どうしても譫言感があります。

例えば、「『象徴』は、すごいからすごいんだ、すごいと思わないか?」

というようなことをいう人がいたとしましょう。

「それがなぜすごいかというと、『すごい』という印象があるから、社会においてすごいということになっている、その構造はすごいことだと思わないか?」というようなことですが、少し狂人じみています。

しかし、別に「印象」や「社会」や「構造」とは言っていませんし、それだけが当てはまるわけではありません。ただ、ある程度具象化して例を出さないとわかりにくいという感じになります。

その他、例えば、数学空間とか、抽象的な物理空間の話をしたとしましょう。

「一次元の『点』を見たことがある」

というようなことを言ったとしましょう。一応、一次元は面積を持たないので、視覚的に示すことはできません。「円の中心」など、具象化されたものからの関係性で直感的に見るしかありません。

「宇宙の始まりを見た」

というようなことも、宇宙物理等々の情報から、情報空間として捉えるということは可能ですが、それは本質的に「火の鳥を見た」というのと同じです。

そういうことを言うと、カルト宗教が「高次元の如来界を見た」と言っているのと大差はありません。

「宇宙の始まりを見てきた」等々、言いたいことはわかりますが、何の目的でわざわざ人に言うのかがよくわかりません(それは相手のことをある意味で無視しすぎな感じがしますし、自慰行為的です)。

合意を気にして、具象化されたものばかりの空間に閉じこもり、より良い答えが見えなくなるというのも嫌ですが、譫言のようなことばかりを言っていてもカルト的に見えるだけという感じになっています。

合意を除外しつつ理性を保つ

そういうわけなので、相手に話すために「より具象化する」というのはいいですが、具象化された領域に閉じこもってしまうと、よりよい答え、広い視野は生まれず、煩いの内に留まるという感じになってしまいます。

なので、合意、相手の納得ということをたまには外して考えるというが、突破口を見つける良い手段となります。

しかし、何でもかんでもそうしてしまうと、アイツこと自我が暴走するということもありますし、抽象空間に没頭すると狂人のようになってしまうという危険性もあります。なので理性を保つということも必要です。

理性と言ってもそれほど難しいものではありません。

誰にでも等しく通じる「理」を観るということだけです。

合意と根拠

Category:miscellaneous notes 雑記

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