激し易く、騒がしく、むら気で、神経質な人は、大きな情熱の反対である。 曙光 471 序
「隣人愛」といえば、新約聖書を読んだことのない人でも知っているような「あなたの隣にいる人を愛しなさい」というものですね。
しかし相手の要求には応えても応えなくても構いません。
愛することと、何かの要求に応えることは別物です。
そして「愛とは何なのか」という点も曖昧です。
「隣人愛」と愛の定義
新約聖書における隣人愛の解釈で一般的なものは、「神の愛を感じ、神を愛し、神を愛するように自分を愛し、自分を愛するように隣人を愛しなさい」という感じになっています。単純には「あなたの隣りにいる人を愛しなさい」という感じで隣人愛です。
しかしながら愛とは何なのかの定義が微妙です。「愛とは相手に喜んでもらうこと」とか「相手の苦しみを取り除くこと」という雰囲気もありますが、無条件に相手の要求に応えるということが良しとされるというわけでもありません。
要求に応えることが愛ではない
例えば、ギャンブル狂いの人の要求に応えることが愛なのでしょうか。
「もう一回勝負をかけるから金をくれ」とか、「あとちょっとで勝てるから金を貸してくれ」と言われて、お金を差し出してあげることが愛なのでしょうか。
散々博打でスっておいて、「お金がないから晩飯を奢ってくれ」と要求されて、奢ることが愛なのでしょうか。
博打とまで行かなくても、「子供に金がかかっていて、小遣いがないから飲み代を出してくれ」と、いうパターンで人から金銭を奪い取ろうとする人がいます。
が、別にその人の子供とか「子供に金がかかる」といったことはその人の都合であって、こちらには関係ありません。
営業成績が悪くて、今日一件あげないとクビになるという場合の営業さんであっても、それはその会社とその営業さんの関係であって、営業さんとお客の関係ではありません。
見せかけとしての「隣人愛」
なお、参考程度ですが、ニーチェは隣人愛について次のような感じで振れていたりもします。
…結局のところ「隣人への愛」は、隣人への恐怖にくらべれば、つねに、何か副次的なものであり、部分的には、因習的な、勝手気ままな見せかけのものである。(善悪の彼岸 201 抜粋 )
隣人
ところで隣人とは一体どんな人でしょう。
隣にいる人なのだから隣にいる人です。
どこか遠くにいる誰かではなくて、今目の前に人がいるならば、その人ですということです。
今この場で体感していること以外は記憶や予測ですから、常にその場で捉えたもの以外は、現時点では存在しているのかいないのかすら不確定です。
その場で捉えているものも、捉えて「おそらくそうだろう」という推測が立っています。
例えば車が通りすぎて、その車には、「一人しか乗っていない」と思っても、屈んでいただけで実は隣にもう一人乗っていたかもしれません。
さて、いつも思いますが、こう言った場合どうして「人限定」なのでしょうか。
別に人に限定する必要はどこにもありません。
隣人愛の盲目
「人を愛しなさい」ということで、人に限定などしているから京都府狩猟免許の案内のようなことが起こりえてしまいます。
愛を向けるのは「人」であり、その他の生き物は、人のためにいくらでも利用してよく、命の価値として人よりは劣る、という発想があります。
隣人愛、隣人愛と叫ぶ人はそんなところが盲点になっています。
「老後の楽しみ」を邪魔するのであれば、相手が動物ならば「駆逐もおかまいなし」ということです。
純粋な本能の命令による「エネルギー獲得」の衝動ではなく、アイツの命令による「暇をつぶせ」という、どうでもいいような感情のための殺戮です。
恒常性維持機能による細菌との戦いではありません。
野生動物に対する人間の圧力が減少してきており、農作物被害が拡大しています。
農業で収入を得ている農家はもちろんのこと、老後の楽しみとして、家庭菜園の野菜が、そろそろ収穫できると思った頃に一瞬にして野生動物に食べられるなど目に余る状況にあります。(「恐怖と愛」 京都府よりの回答)
「やることがないなぁ、暇だなぁ」
という老後の暇つぶしを邪魔されるのが嫌だという感情のために、動物を殺してもいいというコメントです。
暇を持て余した人のための愛です。
人と人との関係ならばそれが愛になります。
しかし動物としてはたまったものではありません。
別の隣人愛 曙光 471
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