倫理の否定者には二種類ある

「倫理を否定する」― このことは第一に、人間の申し立てる倫理的な動機が実際に彼らを行為に駆り立てたのだ、ということの否定を意味しうる。

第二に、それは倫理的な判断は真理にもとづく、ということの否定を意味しうる。ここで付け加えられるのは、倫理的な判断が実際に行為の動機であるということであり、しかしこの仕方で誤謬が、あらゆる倫理的な判断の理由として、人間を道徳的な行為へ駆り立てるということである。これが私の視点である。 曙光 103 抜粋

倫理の否定者には二種類ありそのうちひとつは、「人間の申し立てる倫理的な動機が実際に彼らを行為に駆り立てる」ということの否定、もう一つは、「倫理的な判断は真理に基づく」ということの否定」という感じになっています。

ということで段階的です。真理によって倫理的な判断がなされ、その倫理的動機が彼らの行動の原動力となる、という感じになっています。倫理の否定者の種類・分類としては、こうした倫理の構造におけるどの段階を否定するのかということになりましょう。

「誤謬が人間を道徳的な行為へ駆り立てる」この一行に要約されそうなこの箇所でもやはり、結局アンチクリスト的な主張ですね。

まさに「がんばろう日本」もその典型例です。様々なアーティストが、「僕達にできることはなんだろう」といいつつ勝手に盛り上がっていました。結局はB層の理由付けであり、道徳的になるのは道徳的であるからではありません。道徳的になるのは、道徳的であるからではない!

活動するなということではありません。道徳的に見える行動も、結局は「参加者の親睦を深めるため」といって最後には飲み会が開かれたりします。

思い上がりや利己心

やはりそこには思い上がりや利己心があるのではないでしょうか。「がんばろう日本」の集まりに参加することによって、「もしかしたら出会いもあるかも」などとも思っているかもしれません。

倫理的行動もその動機はたったひとつの何かというわけではないのです。

倫理的な行動を取ること自体への自惚れもあるかも知れませんし、それが恋愛対象なのか友人なのかはわかりませんが、何かしら出会いを求めているという要素もあるかも知れません。

婚活時期にいる人にとっては、わかりやすい表面上の自惚れ・思い上がり・利己心に加えて「ボランティアに参加するような層」との自然な出会いを求めているという裏も見え隠れします。

一切根拠の分からない道徳

中学校において「白い靴下を履くことが道徳的なのだ」というのも一切根拠の分からない道徳であり、誤謬どころかナンセンスです。

白い靴下を履くことで誰かの体調が悪くなるとか、白い靴下には文化的なメタファーがあるとか、そういった根拠っぽいものがあるのならばまだ理解もできるかもしれませんが、そうした決まりごとには何の合理性もなく、何がどうイコールでつながるのか最後までわかりませんでした。正しい「思春期」

倫理とは結局人はどのように生きていくべきか、という点についての思慮にはなりますが、白い靴下に限定することが倫理的にどうなのか、道徳的にどうなのかは語られぬまま、ただ盲目的に受け容れ人に強要しているのだから始末が悪すぎます。

倫理・道徳と無思慮

この誤謬を誤謬と思わないところ、つまり無思慮ですが、考えずに守っていれば「素直な出来の良い子」という帰結になることは狂気であり、素直という言葉は「あるがままをみる」ということから「支配者の命令に従うこと」ということにすり替えられてしまった悲しい日本語です。

被支配者においては、攻撃を避ける唯一の手段であり、諦めの行為であり、絶望の行為なのかもしれません。

あの構造は「平等」と謳いながら支配関係を築いています。12歳対大人が数十名ですから、非常に強い圧力になります。

倫理や道徳を槍や盾にした脅迫にしかすぎません。

倫理と道徳が陥る罠

倫理の否定者には二種類ある 曙光 103

Category:曙光(ニーチェ) / 第二書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語のみ