信念の書き換えと未来についての不完全な論理構造

「信念の書き換え」とそれら信念における「未来についての不完全な論理構造」について触れていきましょう。

「信念」というものは書き換えが可能だったりもします。洗脳、マインドコントロールによって行われていることは、いわば信念の書き換えであり、外界の現象を捉えて反応する関数部分に対する「方程式の書き換え」という感じになっています。

ただ、書き換え可能なものと書き換えが不可能なものがあります。しかし大半は書き換えが可能です。これは、普遍的な「理」と解釈可能性のある「信仰」や「主義」の違いのようなもので、絶対性を持たないようなものは書き換えが可能という感じになっています。

洗脳・脱洗脳やマインドコントロールによってそれまで持っていた信念が変更されてしまうのであれば、それまでさんざん信じていたもの、絶対だと思っていたものは、絶対ではなかったということです。

「どうしてそんなことになってしまうのか?」

ということが理解できれば、多少の智慧が発達することになると思いますし、何かしらを「外に求める」ということも無くなっていくでしょう。

「揺るぎない信念」などとは言いますが、所詮「人に言う今の心」と書いて信念です。

まずは、書き換えが可能となってしまうようなものについて触れていきましょう。洗脳・脱洗脳に見る書き換えが可能な信念から進めていきます。

洗脳・脱洗脳に見る書き換えが可能な信念

よく脱洗脳においては、「カルト宗教に洗脳されてしまった我が子を元通りにして欲しい」ということで、両親などの保護者が療法家に依頼して信念の書き換えを試みることがあります。

「カルト宗教から元々の家庭で信仰していた宗派に戻す」というような感じです。

そして次のような例も稀にあります。

  1. 療法家はカルト宗教に洗脳された本人を拉致し、カルト宗教からキリスト教に改宗させるために信念の書き換えを行った。
  2. 信念の書き換えによりカルト宗教からキリスト教に改宗させたが、両親からの指摘により、脱洗脳のために拉致した相手を間違えていたことが発覚した。
  3. 信念の書き換えによりカルト宗教からキリスト教に改宗させたが、カルト信者は元々ユダヤ教徒であったことが発覚し、療法家の間違いであったということが発覚したため、慌てて再度信念の書き換えを行い、ユダヤ教に改宗させた。

「あ、ちゃいましたか?すんまへん。すぐ直します」

の世界です。

こうなると宗教の教義への信念など、いとも簡単に変更されてしまうということになります。

ということは、「真理だ!」などと言っていたことがすぐにコロコロ変わってしまうということになります。

なぜそんなことになるのでしょうか?

それは、「その宗教の教義の中で真理と呼ばれるようなもの」が「絶対性を持った確定的な真理」ではなく、解釈可能性の一つにしか過ぎないからです。

そんな「信念として形成されていたもの」、「物事の解釈の仕方」などなど、その方程式は、確認できないことに対する解釈の一つであり、排他性を持った唯一絶対のものではないということを示しています。

ここでは宗教を例にしましたが、社会的な主義についても同様です。洗脳によって、資本主義者が共産主義・社会主義者になるという場合もありますし、その逆もあります。

そして脱洗脳作業によって、また元に戻ったり、そうした「主義」の空間から脱したりもするわけです。

余談ながら、先天性のものではない限り、信念の書き換えによって同性愛者が異性愛者になるということも可能です。

生理レベルを超えて「これは仕方がないことだから」と信念の方を固定化し、社会側に対して「認めろ!」「自分たちに合わせろ!」と感情的に騒ぎ立てる人たちを見かけることもありますが、そうしたものに付き合っても振り回されるだけです。

こうしたことを考えると、人の信念など朧げで曖昧で執著するようなものでもなんでも無いという感じがしてきます。そして、自由意志も「自由意志の尊重」というものも、朧げなものになってきます(自由意志と洗脳)。

つまり、それら信仰、主義等々信念など「選択可能なもの」にしか過ぎないということであり、問題は別にあります。

何かしら別の問題があって、それに対する解決法の一つとしてある信念を採用しており、それによってある程度のストレス軽減効果がある中、否定されるとまた問題が再発するということへの抵抗といった程度でしょう。

しかしながら、信念の度合いが強い時にはあれほど感情的になったりしていたのに、信念が書き換わったりすれば、真逆のことで感情的になったりしているわけです。

ということで、次にこうした書き換え可能な信念が持つ不完全な論理構造について触れていきましょう。

書き換え可能な信念が持つ不完全な論理構造

療法家の心理操作によって書き換えが可能な「信念」は、全て不完全な論理構造をしています。端的には不可知領域や二律背反するような命題に対する一解釈にしか過ぎないという感じです。

それが唯一絶対かどうかを示し得ないもの、確認し得ないものに対して、「これだ!」とか「まあこれだろう」となっているもの、それが信念です。

一応哲学テーマなので、まずは身近なところで示してみましょう。

「この人達が私の両親である」というのも信念

例えば、自分の両親が本当に自分の両親かは厳密にはわかりません。

よく映画やドラマなどで「実は違った」という設定があったりもしますが、「実は違う」ということを知るまで、一応その人の中では両親だと思っていた人々が両親だったという感じになります。

その「この人達が私の両親だ」と思うことも一つの信念です。

しかし、極めて哲学的に考えていくと、厳密にはそうしたことは言い切れるものではありません。

定義として育ての親というものは除外して、生物としての両親ということを考えてみても、いくら顔が似ているとかDNAが云々とか幼少期からの記憶があるとか何とか言ったところで、実は親戚の遺伝子かもしれませんし、幼少期からの記憶も情報にしか過ぎないので、確定的な証拠とはなりません。

そういうわけなので、「この人達が私の両親である」という判定は、様々な情報から起こっているわけです。それら情報はたいてい信憑性が高いものでしょうし、わざわざ騙すということもしないだろうという推測もたちます。

といった感じで「まあこの人達だろう」という信念が形成されているに過ぎません。

まあ「実は違ったらどうなのか?」というところもたいていはそれほど問題にもなりませんし、疑うということすらしないような事柄ですが、こうしたこの人達が私の両親であるということも信念の一つということになります。

でも、「実は違う人達だったんです」と、より信憑性の高い証拠と共に示されれば信念はぐらつきます。

という感じのイメージから、次には宗教の教義の不完全な論理構造について触れていきましょう。

宗教の教義の不完全な論理構造

一応宗教の定義を少しだけ再掲しておきます。それは「何かしら上位の存在が示した教えを守っていれば」的な構造になっていることと、そうした教義が未来に対する不安感を打ち消すという構造を持っていることといった感じです。まあ「言うことを守っていれば助けてもらえる」的な感じです。ということで、僕の中ではすべての宗教が誤謬です。

という前提から話を進めていきますが、まあこれは「確認できない対象」を推測的に示し、信じるという行為によって排他性を持ちながら混乱を避け、未来に対する不安感を妄想で打ち消すという感じになっています。

しかしながら、天国とか地獄とかハルマゲドンとか、極楽浄土とか緑園とかそうしたものは確認することができません。夢を見ているのと同じように強い変性意識状態になって「見る」ということは可能なのでしょうが、見えたからと言ってそれが存在するということを確定的に示すものではありません。

一度も死んだことがない人が、推測で死んだ後のことを語っているに過ぎません。

「死んだことがある」と言っても、「死んだことがあるというような夢を見たのと同じであり死んではいない」といった感じで、「それら未来についての教義は確定的には示し得ない」ということは、論理の構造上覆すことはできないはずです。

そしてそれら教義についての信念は、つまり「生きている今、確認できないこと」に対する様々な推測、解釈可能性の一つへの固執ということになります。

換言すれば、確認できず、確定的ではない対象に対する解釈がA、B、C、D、E…と無数にある中、その中の一つを「これだ!」と思っているか、「まあこれだと思う」と思っている程度のものが信念ということになります。

ということなので、「確実であると示し得ず確認し得ないこと」が対象になっているので、「これだ!」という信念は、書き換えによって変更することが可能という構造になっています。

信念は蓋然性と体感記憶により決定する

「この人達が私の両親である」ということにしても、厳密にはそれは絶対確実ということにはなっておらず、少なからず複数の可能性を秘めているという感じになっています。

様々な証拠を持ち出そうが、それすらも確実であると示し得ないという構造を持っているので致し方ありません。ただ、「まあ違う可能性もあるが、まあこの人達だと思うよ」という感じの信念でも基本的には特に問題はありません。

こうした信念は体感記憶により決定していきます。信念は、複数の解釈可能性がある中、一つのものを選び出す、という感じになっています。

その決定要因は、「きっとそうなんだろう」という蓋然性の高さに加え、「こっちのほうが良さそう」とか「こっちのほうが都合がいい」といった体が楽になる感じ、逆に「あっちだと辛い」というような体の辛さなどの体感の記憶です。

まあこれは職業における「仕事を覚える」とか「コツを掴む」ということなども同じです。

しかしながら、「確からしさ」の面において権威性といったものが影響を与えたりもしますし、体感の面でも返報性というようなものが絡んできたりもします。内容とは関係がないのに「あの人はいい人だし、世話になったから」という理由を信念の決定に絡ませてしまうということが起こったりするわけです。

こうした点をカルト宗教や商業カルト、詐欺師などは悪用したりしています。

「未来に起こることを知って安心する」というパターン

さて、そうした決定要因としての「体感」に着目した場合、「未来に起こることを知って安心する」というパターンを好むという点が大きく影響を与えています。未来予測というやつです。

カルト宗教の教義などにおいても、「未来に恐ろしいことが起こるぞ」ということを何かしら根拠があるかのように説いたりしているわけです。

自我は生存本能による恐怖心が胴体です。未来に意識を向けた時、少なからず「危険を回避する」ということに意識を向けます。

基本的には、痛くないように、辛くないように、苦しくないように、という感じで予測を立てていきます。

未来の出来事の予測で、かつ、未知のものが対象となる場合はより一層恐怖心発端の思考を始めてしまうわけですが、これは生存本能の機能であり、一応仕方のないことであると考えることができます。

それは実生活で役立つものでもあります。明日の営業や面接が恐ろしいからこそ対策を講じる事になるわけですし、社会においては災害を予測することで被害を抑える知恵を生み出したり、社会の動向を把握し予測を立てることで利潤を最大化したりしているわけですからね。

そういうわけで「未来に起こることを知って安心する」というパターンには慣れ親しんでいます。

個人レベルで言えば、何かの試験や面接の結果を「早く知りたい!」と思うようなことがその代表例です。

結果がわかっていれば自分の次の行動の選択が容易になりますし、結果がわからないうちはソワソワしてしまいます。

明日会う人がどのような人かわかっていれば、それほど不安にもなりませんが、初めて会う人で素性もわからないという未知の人であれば緊張感が増します。

そのような感じで未来に対しては基本的に不安が先立つという構造になっています。それはそれで危険の回避としての機能なので、それ自体は自然なものです。

しかし、対象が現実を超えてしまうと、妄想による別の精神の苦しみを生み出したりもするわけです。

「死後どうなるのか?」という未来への不安

代表例としては、「死後どうなるのか?」というようなやつです。これは当然ながら今起こっていることではなく、未来に起こることが対象になっています。そして「我が事として苦痛があるのか無いのか?都合が悪くなるのかどうか?」という感じで考えてしまうようなことになります。

そしてそれは、いくら論じても確認し得ないことなので確証を持つことはできません。

どうあがいても確認し得ないという構造の中、ある解釈可能性の中には神というような概念が出てきたりします。だいたいは自分の処分を決定する存在のような形で登場し、何かしらを要求してくるという格好になっています。

そういうわけなので、「神はいるのか?」という疑問も出てくるわけです。そこには「神がいるならば私はどう扱われるのだろう?」というものが潜んでいます。

その根底には、「いるとするならば説かれている教義を信じよう」、「いないならば信じなくても良い」という「判断材料が欲しい」というものがあります。

ただそれは「判断にあたっての精度を高めたい」という程度であり、「未来を知って安心したい」というパターンの内側にいるということになります。

つまり、「未来の自分がどうなるのか?」という恐怖心から答えを欲しがっているという構造を持っています。

「恐怖心は仕方がなく、解消法として『知って安心する』という方法を用いてこの心を落ち着けたい」という程度です。それが宗教方式の不安解消法です。

これは、未来を知って安心するというパターンに沿ったもので、自我としては馴染みが深い方法論ではありますが、論理構造上確実であると示し得ないものに対して、ある妄想的推論を持ち出してきます。

そして体感としての「安心感」が欲しいならばということで「信仰」を要求するものとなっています。

つまり、絶対性を示し得ず、確認できないことであるから「信じる」ということが必要になってくるわけです。

しかし、同種の推論はたくさんありますし、どれも確定的ではありません。その理由は簡単で、「どうあがいても確認できないこと」を対象としているからです。

そういうわけなので、常に信念の書き換え可能性があるわけです。

認識のあり方の構造上、死そのものは経験し得ません。問題があるとすれば「死苦」死ぬ苦しみの範囲であり、これは「死に対する恐怖」や「死にたくないという思い」から起こる苦しみを意味します。裏を返せばこの生や生命への執著がもたらす苦しみです。

信念は「何となくそれっぽい」で形成されている

信念の範疇にあるものは、根拠となるものが、「何となくそれっぽい」というものや「温かくて何となく清々しい」という感情的・感覚的なものなのですから当然にぐらつきます。

そして「何となくそれっぽい」を支えるために伝統性や権威性を用いたり、自信に満ち溢れた態度をしたりするわけです。しかしながら哲学領域においてそんなものは何の根拠にもなりませんし、まさにナンセンスです。

さらに「絶対性を持たないもの」に対する信念は、選択可能な体感領域において「快」を選び「苦」を避けるという感じで決定しているに過ぎないので、感情的・感覚的な面が影響を与えています。しかし、それは完全な根拠なりえません。

苦痛を伴った条件づけのようなものが利用されたり、苦痛のあとに優しく撫でるといった温かい感じで誘導したり、孤独感に苛まれている人が「群れ」で安心感を得たりという感じです。まさにマインドコントロールです。

そうしたもの自体は社会においてありふれていますが、「自分の妄想の肯定」ということを含めて、「相手のためにならないようなことであっても自己都合のために」と相手の信念を書き換えていくこと、それが洗脳です。

信念を持ちつつも確定的ではないことを知っていたりする

確実かどうか確認が取れないこと、複数の解釈可能性があるようなことに対して排他性を持つのであればそれは執著となります。確認できないような対象に対する信念を保持し、排他的な思いを持つのであれば心を蝕む執著となりえます。

その執著は、何かしら気分としての朧げな信念でしかありませんが、信念に沿わないものと接触した時に起こる不快感等々がこの心を蝕んでいきます。

しかしながらそうは言っても日常レベルでは、そう言えばカッコがつくとか、それを信じてやってきた自分を肯定したい的な感じ程度なので、思っている本人も確定的ではないことを知っていたりします。

俗っぽい例で言えば「某経済新聞を読まないやつをビジネスマンとして認めない」と言っている人がいたとして、気持ちの奥では「そうは言ってもなぁ」とどこかしらで思っているはずです。

「まあそうは言ってみたものの某経済新聞を読んでいない、すごい人もいるかもしれないしなぁ」

という可能性も視野には入っているでしょうし、固執することは確率的に不利になります。帰納法的に「某経済新聞を読んでいないすごい人」が1人でもいたら誤りであるということになりますからね。

ということでそんなことを言っている人も、「今現在はすごい人ではない部下とか後輩にだけに言うことにしよう」と思っていたりするはずです。

そんな信念も発端を考えると、「某経済新聞を読まないやつをビジネスマンとして認めない」と言っていた誰かをカッコいいと思ったという程度でしょう。

そんな感じで信念は「何となくそれっぽい」で形成されているということになります。

一種のツールとしての信念の情報パターン

しかしながらそんな「何となくそれっぽい」で形成された信念への執著度合いが強ければ強いほど、怨憎会苦や求不得苦といったものに代表される精神としての無駄な苦しみが形成されます。

書き換え可能な領域での信念など、一種のツールにしか過ぎません。

社会的な選択、決定において解釈や推論のツールとして利用したり、信念の情報パターンを方便的な意志の伝達方法として利用するという程度ならばいいですが、絶対的なものとして哲学領域にまで持ち込む事はできませんし、それら選択可能な信念は、変更不可な「理」とは全く別の領域のものです。

「息を吸いきったら吐きたくなる」というようなものは、変更ができません。

「そんなことはない!息を吸いきっても吐きたくならない!」と言葉で言うことはできますが、実際はできません。

それでも「息を吸いきっても吐きたくならない!」というのであれば、言語が通じないか別の生命としての生き方をしているかということでコミュニケーションはできません。

しかしコミュニケーションができないからといって、理が変わるということにはなりませんし、この心としては何の問題もありません。

未来を知ることによって安心するパターンから脱する

そんなわけで、信念の書き換えと未来についての不完全な論理構造について触れてみました。

未来予測は自我の機能として普段慣れ親しんだ方法論であり、「未来に何が起こるかを知って安心する」というパターンにとらわれてしまったりします。

慣れ親しんだパターンではありますが、「未来に何が起こるかを知る」という場合、情報の信憑性が問題となってきますし、確実には示し得ないような対象なのであれば、やはり予測は予測、一解釈は一解釈の領域を出ることはありません。

欲、怒り、不安感、不快感ということが今起こっている、ということは即時的なもので主観領域なので、論理的な証明の必要がなく事実ということができますが、その解消として外界に依存するということは本質的な解決にはなりません。

外と世界を見渡して情報を集め、未来への予測から安心感を得たいと思っても、各々の情報の「確からしさ」が問題となります。

そんな時、意識の内側に欲や怒り、不安感、不快感の方には着目せず、「原因は全て外にある」と思っているはずです。

「信念」はそんな感じで外界に原因を探し、未来予測によって安心するパターンの内側で生まれます。

そういうわけなので明らかな理からありのままの現実だけを観察し、「未来予測によって安心するパターン」以外のパターンを見つけていくということが智慧の第一歩となります。

「未来に意識を向けるからこそ煩いが起こるのだ」

ということに体感とともに気づいてしまうでしょう。

それは、不確実ゆえ書き換えが可能な「信念」によって束の間の安心感を得るというものとは全く別物です。

未来に意識を向けるからこそ未来への恐怖が起こり、恐怖によって起こる不安感・不快感を打ち消すために「未来を知って安心する」というパターンを用い、朧げな信念に寄りかかりつつも、根拠が不確実ゆえに「信仰」で気持ちを支える、というようなことが起こってしまうわけです。

「死後どうなるんですか?」については「色々と考えることはできますが、実際のところはわかりません」ということくらいしかできません。

問題は実際に「死後にどうなるか」ということではなく、「今、死後のことを考えて実際に煩っていること」ですし、現在の連続である「今を生きている今」、言えることはそれくらいしかありません。

示し得ることはそれくらいしかないということくらいは、論理で考えていけばたどり着けるはずです。

それ以上は解釈可能性の一つへの「執著」となります。

そしてその執著は、今、苦しみを形成してしまうということになります。

Category:philosophy 哲学

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