但し書きがつくような新しい分類

学者は、自然を殺し解体して理解しようとし、天才は、自然を新しい生きいきとした自然によって増大しようとする。
(反時代的考察 Ⅲ 6)

そんなことをニーチェはよく言っていたような気がします。

また有名なものとしては次のようなものもあります。

私はすべての体系家を信用せず、彼らを避ける。体系への意志は正直の欠如である。
(偶像の黄昏 箴言と矢 26)

共に原佑氏訳

近年、キーワード中心の注目の浴び方が増えてきてからというもの、売れていない学者が新しい概念をすぐに作り(単にカテゴライズと考えてもいいでしょう)、すぐにそれが一般的な概念かのように知れ渡ってしまうようなことがよく起こったりします。

性格等々において「精神医学上の分類・概念ではなく」と但し書きがついているようなものがその代表例となるでしょう。

もしかするとそうした新規の分類の仕方は昔からあったのかもしれませんが、識者のうちでは相手にされていなったレベルのものであり、一般にまで到達することはなかったのかもしれません。

しかしながらそれが、キーワード中心の「注目」を欲している人々が単に学者であるという権威を元に、広告収入や新しいマーケティング分野開拓のために「見つけたぞ!」と流行の仕掛けの素材として利用しているだけなのかもしれません。

これはインターネット等によって「段階を踏むこと無くすぐに知れ渡る」という社会環境があるからこそ起こったような現象であるような気がします。つまり、かつてであればある程度吟味され、通説的になってきてから吐き出されたような考え方が、一切のフィルターを通さず一気に常識的なレベルにまでなってしまうような感じです。

その背景にはリテラシーの低下という要素も関わっているのでしょう。

というようなことを思ってしまったのが、先日久方ぶりに会った同級生の友人(女子)に、何かしら10個くらいのチェック項目に答えるように言われ答えてみると、「精神医学上の分類ではない何かの性格的な分類」に当てはまっているかいないか的な感じであったようでした。

しかしながらその質問項目に回答し、答えから何かしらに照らし合わせると言う感じは、

「あなたは織田信長タイプです」

とか

「あなたは武田信玄タイプです」

といったような遊びのようなものと何ら変わりないというような気がしてしまいました。

そんな雑誌の企画レベルのことをしていて、何かの概念を作った人として紹介されている学者は、何だか意図せず「売れていないものの売名行為」のように見えてしまいます。

そしてそうした特定のカテゴリーに属するか否かという判定のようなものが、一体何になるのか、と言う感じがしてしまいます。

雑誌の企画で「織田信長タイプです」と言われたなら、「ふむ。そうですか」くらいでその場の享楽として終わる程度ですが、「時期によって『こんな自分』も『あんな自分』もいる」という中、変に分類されるということは単に偏見を作るだけではないかと思ったりします。

ということで、多少なりニーチェを思い出してしまいました。

どうせそうした分類で「採用等で合理的な判断をしたい」というような時短コストダウンを意図した資本主義的な利用や何かの自己都合を叶えるための言い訳を作るくらいにか利用されたりはしません。

しかしそれは、一種の合理性を帯びながら、一種の潜在的な可能性を排除するものでもあり、また、配慮というものを飛び越えた優遇という相対的差別をもたらすものにもなりかねません。

抽象性を嫌い、自然を解体し、ずるむけでないと不安が拭えないという、雑な人間の気質が垣間見れたりもします。

非凡ではなく平凡であり、また、正直の欠如でもあるという感じがどこかしらにニオイます。

「コンビニ雑誌御用達」

そんなフレーズが頭に浮かびます。

まあ、好きにしてもらってもいいですが、一時の享楽以外の何かをもたらすものではないという個人的事実は揺るぎないという感じになりましょう。

「は?」となる心理学者たち

Category:miscellaneous notes 雑記

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