他人を喜ばせる

人を喜ばせることはなぜすべての喜びにまさるのか?― われわれはそれによって自分自身の五十もの衝動を一度に喜ばせるからである。ひとつひとつのものは極めて小さな喜びであるかもしれない。しかし、もしわれわれがそれらすべてをひとつの手の中に入れるなら、これまでかつてなかったほどわれわれの手は一杯になる。― そして心も同様である!― 曙光 422

人を喜ばせる最たるものは、自分が喜ぶことです。

人が喜んだところを見て喜ぶのが正しいのであれば、他人のそうした行動を受け入れて、その人の行動の正しさを示すことも逆説的に「人を喜ばせること」になります。

少し換言すると、相手は「人が喜んだ」ということを自分が確認して、「自分が喜びたい」というものを持っているとします。

そしてその動機が元で自分に対して何かの行動をしてくれるとします。

で、相手としては自分の行った行動の結果として、僕が「喜んでいること」を確認したいはずです。

その結果しだいで、「人を喜ばせる」ということの結果としての自分の喜びが得られるか得られないかが変化します。

ということで、相手が「人を喜ばせよう」として行った行動に対する結果を自分がきちんと示すことは、「喜ばせようとしてくれた人」に喜びを与える行動になるということです。

喜ぶことにより人を喜ばせる例

例として示した場合は非常に簡単です。

何某かのプレゼントを贈った時に、相手が泣いて喜んでくれるのが良いか、それとも、「ありがたいですが、このような高価なものを受け取ることはできません」と理性的に返されるかどちらが嬉しいかということです。

それが高価なものでなくとも、例えば、ほとんど原価がかからないようなモノであっても、相手が喜ぶか感情を動かさないかによって、贈り手の喜びは非常に大きく変化します。

そして、贈り手を喜ばせようとするのならば、同じようなお返しをしてバランスを取ろうとすることよりも、心をオープンにして喜び切ることです。

その場合に、データを持ち込むと意識にノイズが入ります。

貰った物が世間では安物とされているとか、あまり質の良いものではなかったとか、過去との比較によって現状を判断する必要はありません。

相対的比較の中で喜びのバロメーターを思考のフィルターで上下させなくても、単に「ありがたい」のです。

また、もっとシンプルなものとして、相手に対する挨拶のあり方や相手を発見したときのリアクションなども「自分が喜ぶことで他人を喜ばせること」の代表例として考えられます。

自分が相手の視界に入った時、相手がどのような反応を示しているか、というところを想像するとわかりやすいのではないでしょうか。

相手が自分の姿を確認して喜んでいるような感じであれば、自分も少なからず嬉しくなります。それと同じように、自分が相手の顔を見ただけで嬉しそうにしているという感じは、相手に喜びを与えることになります。

喜ばないことは相手の好意を無下にする

「人を喜ばせよう」ということで、物事が考えられる時、自分が何かの行動を起こして相手を嬉しい気持ちにさせることばかりが考えられがちですが、「相手の行動に対する自分の反応」が相手を喜ばすことにもなります。

ともすれば、自分が喜ぶのではなく相手を喜ばせないといけないというようなことも語られますが、自分がしっかりと喜ばないことは相手の好意を無下にすることにもなるのです。

ということで、謙遜やマナーを意識しすぎて、喜びの感情を抑える必要はないどころか、相手を思うのであればより一層喜びを感じきるほうが良いのです。

皮肉に対する反撃としての「喜ぶこと」

さらに、自分が喜ぶということは、皮肉に対する反撃にもなります。

皮肉が大好きな京都では、お歳暮にビールを贈らずに発泡酒を贈ってしまうと、「あなたには廉価版がお似合いだ」という意味に捉えられかねません。

仮に発泡酒を贈られ、裏に悪意のある皮肉としての隠喩を示された場合でも、喜びを示してしまえばこちらのものです。

変に敵意を出したり、落ち込んでしまえば「してやったり」と思われますが、落ち着いて喜んでいれば、「一本取られた」という状況になります。

少し前、ホームレスの方に「針のついていないルアー」を貰ったというような思い出について書きましたが、貰ったものがそうしたものでも心をオープンにして喜ぶと世界は愛で満ち溢れていることに気づきます。(孤独な人々に

そのルアー自体の物理的・商品的価値があるという目線で判断するよりも、今現状でも僕の中では「面白い思い出」として残っているのですから、そうした面で評価をしていくと良いでしょう。

他人を喜ばせる 曙光 422


 

相手を喜ばせるためにプレゼントを贈るというシーンを考えた場合、汎用製品でよりも手紙のほうがありがたく、代替性がないプレゼントの方が心ときめくのは当然といえば当然です。それそのものが持つ便利等々の機能がなければ無いほどよいという感じになります。しかしながら、最も検討すべきは、どのような思い出を作りたいかというところであり、どうすればその一瞬が美しくなるかという点であったりします。

心をときめかせるに足る珍品

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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