仕事と信仰

依然として新教徒の教師たちによって、一切はただ信仰次第であり、仕事は信仰から必然的に出てくるはずであるというあの根本的な誤謬が植え付けられている。 曙光 22

仕事と信仰ということで、信念として持っていることや信仰として持っていること、そして話していることなどと仕事内容に矛盾があるケースについて思うことがありますので、そんな感じで書いていきます。

特に職業として宗教関連の仕事(?)をしている人は、言動の不一致など、信仰と行動との矛盾を感じないのかということをよく思います。

職業としての宗教家であれば、普段儀式的なこと等々を生業にしているはずですが、その実際の行為・行動と教義との間に矛盾を感じたりはしないのかなぁというような感じです。

職業としての宗教家 行動との矛盾

昔からよく思うことがあります。仏教でもなんでもいいのですが、その教義を説くわりに、「それならばこの人はどうやって糧を得ているんだろう」と思うことがあります。

職業として宗教家というような立場にいる人が、特定の言葉を発する時、仕事内容などの行動と矛盾しまくりの時があります。

たとえば、「そういう動きはブッダを神格化しようとするようなことです」「心にそれがなければその行動は起こりえないでしょう」と、まともな事をいっているはずなのですが、著者プロフィールをみると浄土真宗○○寺住職、というようなことが書いてあったりします。ということは、完全に鎌倉新仏教であり、神仏習合の後の仏教です。

自身が書いた本の内容と矛盾

そこまではどうでもいいのですが、職業として住職、と書いてあるからには、おそらくですが、お仕事は「塔婆をプリンタで印刷していくら」とか、パーリ語でもない漢字で書かれた「お経を唱えていくら」、というようなものではないか、と思ってしまいます。そうなると、本の中で書いていたこととは矛盾が生じてしまいます。

ここで思うのは「それがいけない」といった類ではなく、ご自身の中で矛盾を感じて気持ちがぶつかったりしないのか、というような疑問です。

何を話しているかわからないように漢字のお経を詠んで、意味はあるのか疑問です。「お経は漢字で伝わった」というのは関係ありません。元々パーリ語からサンスクリット、漢字と変化していったようなものですが、どうして日本語には変換しないのでしょうか。

ただの意味のわからない音を聞いて「ありがたいこと」とするのは、先の本とは言っていることとやっていることがデタラメです。そして、そういったことで、商売をしているのなら、本の内容とは矛盾してしまいます。もし、そういう仕事をしているのならばですが。

遺族の心を癒やすとか、感情を昇華させるというような理屈も結構、といいたいところですが、それならばどうして執著を生むような墓を否定せず、むしろそれを利用して定期継続の収益モデルを確立しているのかというところも矛盾が生じます。

その職業に就く人の考えの内のことなので、どうでもいいことですが、そうした矛盾に対して自己欺瞞を感じないのかとか、後ろめたさから苦しみを感じたりはしていないのだろうか、と思ったりします。

単純な疑問

それに対して疑問に思うだけです。特にイヤミとかそういうものではありません。

宗教の教義と自身の解釈と実際の宗教的な仕事(?)などを照らし合わせたりすると、必ず矛盾に感じるような点が出てくると思うのですが、そうした矛盾についてどのように捉え日常を過ごされているのか、という部分が疑問です。

あくまで本当にご本人はどういった気持ちで日々暮らされているのか、ということが少し気になるだけで、もしそういう人がいたらどういう気持ちで過ごしているのか、ご教授頂きたいと思っています。

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仕事と信仰 曙光 22

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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