井臼の力はた款すに足ざれども、己が心なり

料理の価格をそのカロリー量だけで計ることができないように、世のすべての製品やサービスは、その物理的な数量だけで計ることはできません。

技量を要するという部分もありますし、仕込みに手間がかかっているという部分もあります。結果だけ見れば大したことがなさそうに見えても、その裏で膨大な手間がかかっているということはよくあります。

さらに思案の中における決定というものを含めればかなりの労力がかかっているということになりますが、そうしたものを全く考慮しないというような人もいるので困りものです。

もちろん結果物が大した効用ももたらさない中、変に高額であったりとか、素人が四苦八苦して手間を掛けたということから労力換算で高額になっているというものはいただけません。

しかしながら結果的に出てくるものが小さく少量であっても、仕込みに手間ひまがかかるものであるのならば多少高価になるということが当然であるように、パッと答えた内容が短いものであってもその現象の些細さとは比較にならないほどの価値がある場合があるということが結構無視されていたりします。

ということを考えたりすると、コンペや入札という類のものに対して、

「何を厚かましいことを言っているのだ」

ということを思ったりします。

そういうものは、人が知恵を絞った分を奪っていくという構造になっています。

人に頭を使わせて、発案させたりコストを削減するための案を提案させたりしておいて、「そうか、ご苦労」と、サッと去るということで詐欺や盗犯のようなやり方です。

よく「自分の失敗を部下のせいにし、部下の手柄を自分のものにする」ということが悪役として描かれたりしていますが、まさに自分がそうした悪者になっているという自覚はないのでしょうか。

盗みというと基本的には対象が物の窃取ということになりますが、窃盗等が非難される奥の奥には、その物にかけた人の労力、時間、尊厳、そして広い意味での社会に対する慈悲のような心持ちを蹂躙したという点があるはずだと思っています。

部分的に考えた場合、奪われた側としては、仮に対価をもらうということであってもそうした製品やサービスを提供し、相手を筆頭とした社会に喜んでもらおうという気持ちが少なからずあるという中、奪う側はそうした思いの部分に対してそれを蔑ろにし、踏み躙る行為となるという点が社会として非難され抑制されるべき点であるという要素があるということになります。

製品やサービス、そして個人レベルで言えばプレゼントや手料理などにおいては、その物自体の使用価値という部分のほか、その物の奥にある思い、プロセスに込められた思いの部分があるはずです。

そしてそれを感じ取ることができるからこそ、人は原価が数円程度である手紙などに感動することができるということになります。

逆に考えれば、それを感じ取れない人たちが金銭的価値のみに着目するのでしょう。

井臼の力はた款すに足ざれども、己が心なり。

ただ一文たりとも己が心なり。

Category:菊花の約

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