不機嫌な人々の治療法

すでにパウロは、罪に対する神の深い不機嫌が取り消されるためには犠牲が必要である、という考えであった。それ以来キリスト教徒たちは、自分自身に対するその不快を、ある犠牲にむけて洩らすことをやめなかった。― それが「世界」であろうと「歴史」であろうと、「理性」であろうと、喜びであろうと、他の人々の安穏な平和であろうと― 何らかのよいものが彼らの罪のために死ななければならない(姿においてだけであっても)! 曙光 94

不機嫌な人々を見ると、その不機嫌をなんとかしてあげようと思ったりして、その不機嫌さに同調してしまうということが起こります。そうすると、その結果自分まで不機嫌になってしまいます。

そんな時の治療法は非常に単純で、快い方に押し倒すという感じで接することです。

意識状態が同調してしまうということならば、自分が相手に同調するのではなく、相手をこちらに同調させてしまえばいいのです。

「相手を根負けさせる」という感じです。

しかしそうした気分というものは非言語的です。

だから言語で押し倒すというわけではありません。

といっても、不機嫌な人にただ元気の押し売りのようなことをしても逆に抵抗されてしまう時があります。

世間では、不機嫌の対極にあるのはハッピーな状態であると考えられており、そのハッピーな状態とはワイワイ楽しい感じであると思われています。

ただ一言にハッピーと言いながらも、その状態は「盛り上がって楽しい」というワンパターンではありません。

むしろそうした盛り上がりの空気感自体がうざったく感じる場合もあります。

ということは、盛り上がって楽しいというものは、汎用性が低くまだまだレベルの低いハッピー状態であると考えることができます。

心静かな幸せ感

不機嫌な人への治療法として最適なのが、「心静かな幸せ感」です。

「快楽と幸せは違う」という感じで捉えてみましょう。

嬉しがっている人を見て、すべての人がその嬉しさに同調するということはありません。むしろ鬱陶しく感じることがあります。

例えば僕は、オリンピック選手などがメダルを獲って激しく喜んでいる姿を代表例として、体育会系が試合に勝ったりして喜んでいる姿が好きではありません。

「自分を褒めてあげたい」などと言われたときには寒気がします。

なぜならそれはいかに世界最高峰の試合で勝とうが、二流以下の発想だからです。

どのような分野でも超一流の人たちは、その分野とだけ対話しており、試合の勝ち負けなどプロセスにしか過ぎず、まして表彰などにはほとんど興味を持っていません。

例えば、ノーベル賞をもらって飛び跳ねながら喜んでいる人を想像してみてください。

程度が低く感じないでしょうか?

「ああ、この人は人からの評価が欲しかっただけなのか」

というふうに感じないでしょうか?

逆に、武道などにおいて、優勝したとしても飛び跳ねて喜びなどせず、道場などに向かって心静かに深く礼をしている人を見た場合はどう感じるでしょうか?

「ああ、この人はこの道の極みだけを見ているのかもしれないな」

という風に感じるはずです。

しかしながら、そうした人も全く喜んでいないわけではないはずです。一つの通過点として、という感じかもしれませんが、何某かの喜びは感じているはずです。

そうした心静かな幸せ感こそが不機嫌な人々を押し倒すのに最高の意識状態です。

不機嫌な人々の治療法 曙光 94

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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