一匹狼の一家言

ある時から何事も一人で考えたほうがより良い推論ができるということに気づきました。「それは独り善がりだ」とか「独善だ」などというような人もいますが、「そういう事を言うのならばせめて同レベルで『納得できるような理屈』を話してみればいいじゃないか」というようなことも思いました。なぜなら、独り善がりだ独善だ、などという言葉は苦し紛れの捨て台詞でしかないからです。

それほど厳密なものでなくとも、論証のような感じで、推論の、 ―思考の軌跡をたどりながら結論的に「ということで独善になるので、もう少し考え直す余地があるよ」などと言うのであれば良いのですが、単に感情をぶつけられているだけなのだから「聞くに値しない」なんてなことを思いました。

世の中では「普通のやり方」というものが何となくあります。

しかしながら普通のやり方自体が正解かどうかは、その周りの状態、環境によって変化します。

みんなと同じやり方、考え方、というのが通用するかしないかというのは、現在の環境によって変化するのです。

例えば消費者の感覚、消費者目線から考えれば「より良いものをより安く」ということになりますが、より良いものをより安く売ったところでうまくいくかどうかはわかりません。

そんな中、あえて「個性的なものをある程度高く」というやり方のほうがうまくいく場合もあります。いわば世にいる「数は少ないものの需要があるようなところ」に着目するという感じです。高く売る分、きめ細かなところにこだわるだけの費用も捻出できますし、サポート体制も整備することができるという感じです。

ただ、そうした物もすべて、全体的な市場の状況によって通用するかしないか、うまくいくかいかないかというところは変化していきます。

いくつかに分類してみて、いまどれが供給過多でどれが供給過少なのかを見極めるというのもいいですし、他に追従されないようなもので独走するというのもいいでしょう。

こうしてみると経済社会の中で上手くいくであろう「やり方」というものは常に変化しています。

そんな中、一つのやり方しか知らない人、一つの方法論しか頭に浮かばない人は、ある独創的な考えを保持している人に対して「自分の考えを攻撃された」などと思い「独り善がりだ」などと言い出すのです。

逆に玄人の場合は、それぞれの私見は異なっていても、他の可能性を網羅する形で考えたことがあったりするので、特に喧嘩にもならなかったりします。

所詮社会での決めごとなど、常に変化する中での「選択」くらいにしか過ぎず、決定後に振り返ったところで、そこに「もし、あっちを選んでいたら」は事実としてはない、というだけになります。

特に感情的な喧嘩にもならず、議論ができるのであれば、その奥にある「目的」は「最適な解を導き出したい」とか、「思考の質を高めたい」とか「より理解を深めたい」というものになります。

逆に、感情にまかせるまま議論するならば、その奥にある目的は「自尊心を高めること」になってしまいます。

そういうわけで目的が「思考の質を高めたい」というような場合であれば、いくらでも「わからないところはつっこんでみる」という感じでいいですし、社会においてそんなことを繰り返していれば知らぬ間にスキルは見違えるように上がっていくはずです。

例えば、独身の人がある程度の金額の「生命保険」に入っていたとしましょう。死亡保険金の設定しか無いようなやつです。貯蓄性のあるようなものならばまだしも、ほとんど掛け捨ての純粋な保険です。

普通の感覚で言えば、子どもとか配偶者のために入るような保険であり、独身者がなぜそのようなものに入っているのか、意図があまりわかりません。

そんなときにはあえて聞いてみればいいのです。

「一人っ子であり、自分が死んだら親の面倒を見てあげられなくなる。もしそうなった時には、介護にお金がかかるだろうと思って入っている」

というような回答が返ってくるでしょう。

そうした環境にない人は、そうしたことに気付くことはあまりなく、意味がわからないとすら思ってしまいます。

しかし、何かの行為には何かの意図があるのです。

「自分にはただそれが見えていないのかもしれない」

そう思っていると、どんどん見えなかったものが見えていきます。

そのような感じで変人と呼ばれる人を見つけたときでも、単にレッテルを貼るのではなく、その奥の意図と思考を見るようにしていけばいいのです。

そうすると、どんどん視野が広がります。

そうして広がった視野がもたらす穏やかさを「教養」と呼んだりするようです。

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